小林史佳 (miu_pal)さんのレコードレーベルうんちく

まとめました。
7
小林史佳 @miu_pal
『日本ジャズの誕生』で面白かったのは「マイナーレーベル」についての記述。戦前のレコード会社には、コロムビア、ビクター等の外資が入った大手の他に零細インディーズメーカーがたくさんあったんだけど、瀬川昌久氏はマイナーレーベルのレコードをリアルタイムでは殆ど認識してなかったらしい。
小林史佳 @miu_pal
当時、レコードは縁日みたいに街頭で売ってるもので、専門のレコード屋というと、四谷三丁目と神楽坂に町の八百屋さん程度の規模の店が一軒ずつあったぐらいだった。そうしたお店で扱ってるのは大手のレコードが殆どだったらしい。これは昭和10年代、市場の淘汰が相当進んでいたということだろうか。
小林史佳 @miu_pal
当時の大手は、コロムビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクの五社。そのうちの前の3社が外資系だよね。昭和二年がこれらの会社の創立ラッシュで、この年、アメリカで電気吹き込み式録音が採用されたの。関東大震災以来、高関税政策を採っていた日本でレコードを売るために現地法人を作る。
小林史佳 @miu_pal
その際に武器になったのが最新の電気式録音技術で、前時代の空気振動式録音技術しか持たなかった既存のレコード会社は圧倒的な差をつけられて「マイナーレーベル」へと転落した、ということになるんだと思う。特に、コロムビアは大正時代からあるニッポノホンというレーベルがその前身で(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)昭和二年に米コロムビア資本が入ると、大正期に競合したオリエント、ヒコーキといったレーベルを吸収合併して業界最大手にのし上がる。ポリドールは日本の貿易会社と独グラモフォンの共同出資会社。当初は自社製作にさほど熱心でなく、海外盤の販売がメインだったらしい。(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)ビクターは米ビクター100%出資の子会社。キングは講談社の音楽部門。講談社の看板雑誌「キング」の名を冠したんだろうね。テイチクが面白くて、これは奈良の蚊帳製造業者が始めた会社。当時関西に多数あったマイナーレーベルのひとつだったんだけど、たまたま古賀政男と藤山一郎を(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)引き当ててしまって一気に大手にのし上がったというレーベルなの。だから、80年代までは創業者一族が奈良に住んでいたらしく、以前、デイジーワールドのラジオで細野晴臣が言ってたんだけど、何故テイチクでノンスタンダードレーベルが始まったのか、その奈良在住の会長の夢枕に(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)楠木正成公(うろ覚え)が立って「細野を呼べ」とか言ったって話があるらしい。笑。ちょうどその頃、細野はYENレーベル解散直後でフリーで、新レーベルの話はすぐ決まった。ノンスタンダードは短命だったけど、ピチカートファイヴとワールドスタンダードを輩出したわけで(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)ノンスタンダードが無ければ、渋谷系もモンドミュージックも無かったかもしれず、古賀政男と藤山一郎を引き当ててしまったのと同じように、テイチクって会社には何かそういうものがあるんだよ、オカルトなパワーが。笑。
小林史佳 @miu_pal
.@otsune さんにまとめてもらってた。 http://togetter.com/li/6594 ありがとうございます!ただ、ちょっとこれ、不正確なところもあるので補足します。もしお時間とご興味がありましたら、 @otsune さん、追加をお願いできたら幸いです。
小林史佳 @miu_pal
昭和3年に米コロムビア資本が入ることで、ニッポノホン=日本蓄音器商会が巨大化したみたいに書いているけど、これは間違い。日本蓄音器商会はそれ以前から業界でも桁違いの巨大資本だった。倉田喜弘『日本レコード文化史』は具体的な数字を挙げて、それを示しているけど、ぱっと見て視覚的に(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)分かる素材があった。このPDF資料に http://columbia.jp/company/corporate/news_release/2007/pdf/070910.pdf 明治45年の日本蓄音器商会本社ビルの写真が載っていた。ニッポノホンの大仏のネオン広告が凄い。
小林史佳 @miu_pal
日本蓄音器商会は米コロムビア資本が入る前から外資なの。創業者は横浜で「ホーン商会」という貿易会社を経営していたフレデリック・W・ホーンというアメリカ人。明治30年代に蓄音器輸入販売業者三光堂の経営に関わったのをきっかけとして、自身の蓄音機製造販売会社を設立。これが日本蓄音器商会。
小林史佳 @miu_pal
日本蓄音器商会は日本初のレコード会社と言われるんだけど、それ以前もレコード吹き込みは行われていた。でも、自社製作してなかったんだよね。「出張録音」といってアメリカやイギリスの技術者を呼んで、彼らに録音してもらってたの。それで、あちらの工場で製造されたレコードを輸入販売していた。
小林史佳 @miu_pal
それが明治時代の日本のレコード産業の風景。そうした商売をしていたのが三光堂や天賞堂といった明治の蓄音器販売業者だったの。明治末に設立された日本蓄音器商会はレコードの録音、製造、販売を初めて一手に手掛けた会社で、その意味で日本初のレコード会社と言われてるんだけど、それを実現(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)するには、それなりの資本力が必要だったわけで、そこで外国資本の貿易会社ホーン商会が登場する。だから、会社のトップ陣もみんなアメリカ人だったみたいね。そして、ここからが面白いんだけど、日本蓄音器商会は商売のやり方でもアメリカ流(?)を貫いて、さらに巨大化していくの。笑。
小林史佳 @miu_pal
【日本蓄音器商会のアメリカンビジネス・その1】企業買収による系列の形成。日本蓄音器商会は大正9年にオリエントレコード=東洋蓄音器商会を傘下に収める。オリエントは大正3年に松井須磨子の「カチューシャの唄」を録音して話題をさらった会社。日蓄も負けじと「ゴンドラの唄」を録音する(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)んだけど、タレント引き抜き合戦なんてやるよりも、相手を丸ごと抱え込んでしまえ。ということで、大正9年から13年まで、東洋蓄音器商会、帝国蓄音器商会(ヒコーキレコード)、スタンダード蓄音器、三光堂(ライオン印)、東京蓄音器(フジサン、トウキョウレコード)を傘下に収めるの。
小林史佳 @miu_pal
【日本蓄音器商会のアメリカンビジネス・その2】それに応じない相手は流通から締め出してしまえ。ということで、関西の日東蓄音器がそのターゲットになるの。日東の製品を扱うなら日本蓄音器と系列五社の製品を供給しないと小売業者に迫って大問題となる顛末が『日本レコード文化史』に詳述されてる。
小林史佳 @miu_pal
小売と流通は徹底的に締め上げていたみたいだね。値引き販売を禁じて売価を一定に保つ。廉価盤レコードを製造していたマイナーレーベルは、製品を流通の網に乗せられない(だから、縁日の露店のようなところでしか売れない)システムが、既に大正時代に出来上がっていたと考えていいのかもしれない。
小林史佳 @miu_pal
しかし、日本蓄音器商会の一人勝ちだった業界地図を一斉に塗り替えてしまう大革命が昭和2年から数年の内に起こってしまう。それが【1】空気振動録音から電気録音への技術的転換【2】米ビクター 100%出資の子会社日本ビクターの誕生【3】佐藤千夜子や二村定一の登場による流行歌の時代の到来。
小林史佳 @miu_pal
【3】について補足。明治大正時代、「歌」のレコードはほとんど売れなかったらしい。当時、人気があったのは長唄、琵琶(!)、そして浪曲。唱歌やクラシック歌曲のような「歌」のレコードの売り上げは地味だった。それが昭和に入ると万単位でヒットするようになる。ここに時代の断絶線があるわけだ。
小林史佳 @miu_pal
日本蓄音器商会は、当時の社長ゲアリー氏の持ち株(日蓄総株数の80%)を全て米コロムビアに売却。昭和3年、日本コロムビアが誕生するんだけど、昭和初めの流行歌ヒット合戦においては完全にビクターに水をあけられてしまう。コロムビアが再びトップに躍り出るには古賀政男や服部良一が(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)登場する昭和一桁年代末まで待たなければならなかった。こうして昭和初期の五大レーベル、コロムビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクが競合する時代になる。これら五大レーベルは、その他のマイナーレーベルと経済規模が違っていたと考えなきゃならないんだと思う。昭和一桁(続く)
小林史佳 @miu_pal
(続き)も大正期に続いて多くのマイナーレーベルが生まれたわけなんだけど、それらは「インディーズ」だった。経済規模も違うし、大手が支配する流通に商品を乗せられないという業者だったんじゃないかと思う。そして、それらは大抵、昭和14年から17、8年の間に姿を消している。何故と(続く)
残りを読む(5)

コメント