官営富岡製糸場

まとめました。
歴史 明治時代 群馬 明治 富岡製糸場
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名無し整備兵 @seibihei
せっかく実家なので官営富岡製糸場開設について。開設の目的「我邦蚕糸の名夙に海外に著ると雖も製法精良ならざるより実益を得る事能はざるが故に其の方法を研究し器械の得失を審明し糸質の精粗を識別し製糸の品位を進めての後初めて真利を生ずるの理由を開示し以て人民を勧誘せんとするに在り」
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「利害損益の如きに至つては固より蚕繭の豊凶と糸価の高低とに因るが故に時に或は多少の損失ある蓋し勢いの免るる事能はざる所なり(内務省第1回年報)」
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このため明治5年創業から8年度までは大きな欠損相次ぎ、これを憂慮した尾高初代工場長は繭の転売で純益金約10万円(当時)を挙げる…が、これが理由の一つとなって免職
二代目工場長時代
名無し整備兵 @seibihei
2代目工場長の山田令行は経営改善のため労働強化と人員整理を断行。ところが「工女の士気は落ちる一方、場内の整理整頓は行き届かないため、場内は草の山という状況をもたらし、その結果、自然と生糸の粗製問題が生じた(第1回農商務卿報告)」
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当時(明治12年6月16日付)の東京曙新聞「富岡製糸所(ママ)信を仏国に失す」では以下の通り「上州富岡の製糸所は明治五年創業以来盛大に至りしも、昨年中一時仏国の得意先より粗製の旨を以て政府に照会にも相成りたるが、当春来製糸に名ある速水堅曹君を以て同所の経営とし…」
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「長野親蔵君を現業長とし、頗る改良に注意し大いに奮起せしに付、製糸の高は毎年凡二万斤内外にして一ヶ年の費用は金五万円前後なりと。此の頃帰京せし人の語る処なり」つまり、労働条件悪化(コレラの流行もあった。)のため生糸の質が落ち、工場長が罷免されて3代目の速水工場長が就任している。
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工女の勤務期間については、操業当初は「雇入工女本日より1ヶ年以上3ヶ年まで望次第差免候事」だったのが「出入織るが如く実に本場事務の一難事」というように、すぐ辞めてしまうのが製糸場の悩みの種。このため明治7年秋からは「雇期を3年・5年」に定めて中途退場を制限したが、それでも辞める。
名無し整備兵 @seibihei
工女の生活はフランスの寄宿舎制度を真似たものと言われ、軍隊並みに厳しかった。これが工女が短期間で辞める原因の一つだというのは、明治8年の調査で既に指摘されている。もっとも、当時の日本人にとって「規律正しい集団生活」というのは、それだけで異世界のものではあった
名無し整備兵 @seibihei
労働時間については「富岡日記」の記述が有名だが、昭和8年に記録された青山しまの回想録では「毎日6時から12時まで仕事をして、12時から3時までは休み。3時から6時まで仕事をするのでした。休みの間には官員さんたちも一緒で広場で鬼ごっこをして賑やかなことでした。」
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「10時には床に就くのですが、その時には役人が『お休みなさい。火が残ってゐませんか』と一部屋ごとにまはられました。1週間に1度はどんたく(日曜)があり、土用と寒に30日づつ休みがありました。」と残している。
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製糸場の公式記録「富岡製糸場記(明治6年)」では「朝7時業に就き、9時に半時間休み、12時に食し1時間休み、4時半帰宿す」とある。一方、明治8年の「製糸場見聞雑記」では季節の日の長さによってか区分がされている。
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「小寒~立春 07:00~17:00 朝昼1時間と午後3時から15分間休憩」 「立夏~秋分 午後小休を16:15~16:45」 「小暑~大暑 昼食休みを11:30~14:30」 「大暑~処暑 昼食休みを11:00~15:00」 「処暑~秋分 昼食休みを11:30~14:00」
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「右に準じ季節を斗較し、日の盈宿に随い就業時間増減致し候事」となっている。冷暖房も無く照明も不十分な時代なので、長時間働かせようとしても自然に限界が来てしまう。
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自由時間については「縫針・筆算・読書等の芸術を講習するの法を立て、その心志を固ふす(明治8年)」の方針から、花嫁修業を兼ねた習い事もさせていたようである。先の青山しまの回顧でも「よみかきでもお針でも習はうと思へば立派な先生がゐて、いくらでも習へました」と残している。
名無し整備兵 @seibihei
前後するが、就業時間については先日の朝日新聞群馬版の特集記事で「当初8時間、後には10時間」と書かれている。だんだんと厳しくなっていったようだ。
名無し整備兵 @seibihei
さて明治10年代になると民間製糸場も各地に建設されるようになる。明治12年に設立された勢多郡大渡製糸所の製糸工女規定では、就業時間は以下の通り。3~5月:午前5時~午後6時、6~8月:午前4時半~午後7時、9~11月:午前5時~午後5時、12月~2月:午前5時半~午後5時
名無し整備兵 @seibihei
「但し時期により多少之を伸縮し亦食時休業は三十分と定め、寒暑中及び長日は十分より三十分の間を以て休息せしむるものとす」
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「休日は毎月1日・11日・21日の3日及び大祭日並に12月28日より翌年1月6日までと定むるものとす但事業都合により休暇日を繰替る事あるべし」
払い下げ後
名無し整備兵 @seibihei
なお、富岡製糸場も三井に身売りした後は厳しい労働条件になる。明治33年の営業概要では以下の通り。「冬は短く夏は長きこと年中日の長短に随ひ時々変更す。最も長きは6月中旬にして12時55分間、短きは12月中旬にして9時55分なり。」
名無し整備兵 @seibihei
「昨今は、朝は5時55分に始まり、夕4時55分に終わる、昼食時間40分を与ふるを以て、実際就業時間は10時25分にして各工場全て是に随ふ。休日は月3回毎1の日を以てす。外に紀元節、天長節に休養し、年末より年始に亘り1週間、夏季工場内大掃除の為め3日間を休業す」
名無し整備兵 @seibihei
わー、ブラック企業だ(棒)

コメント

ふゅ〜りあす @tebasaki_s 2014年5月5日
まとめを更新しました。
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