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noirse @noirse
公開から2週間経ったし、そろそろ『たまこラブストーリー』のファーストインプレッションを投下したいと思ったのでした。ネタバレ満載の予定なので、未見だよこれから見るよという方はスルーしてください。どうせつまらない感想です。
noirse @noirse
まず結論から言うと、たまこラは聴覚的/女性的/日常系的(=『たまこまーけっと』)という山田尚子的世界から、視覚的/男性的/脱日常系という領域へ踏み出す作品だと思った。ってこれだけだとよく分からないですね。
noirse @noirse
映画を多少見てる人なら、たまこラを見ればジョン・フォードを真っ先に想起するだろう。たまこラは「投げること」に満ちている。映画批評の重鎮・蓮實重彦の有名なテキストに「ジョン・フォードと『投げること』」という文章がある。実際たまこラ+フォードで検索すればチラチラ引っ掛かってくるだろう
noirse @noirse
フォードを持ち出さなくても、例えば去年の『風立ちぬ』もそうだった。メッセージを「投げる」、そして「受け取る」、その力学にゼロ戦を投入するのがかぜたちの基本構成だったし、たまこラもその手法を忠実になぞっている。
noirse @noirse
たまこラは、もち蔵かたまこ、どちらかが何かを「投げる」。それを「受け止めた」ら映画は完結するのだが、ことごとくそれは「落ちる」。それを恋愛のメタファーとして可視的に演出している。どこでどのようにこの運動が完結するのか。それがたまこラの基本構造、基本的なドラマツルギーになっている。
noirse @noirse
たまこラ序盤はもち蔵の物語である。もち蔵は『裏窓』のジェイムズ・スチュワートのようにたまこを窓越しに「のぞき」、糸電話を投げれば底の微細な穴から「見つめる」等のアクロバットなまでの視覚運動、視覚的営為を反復する。そしてもち蔵は映画研究会に所属している。もちろんこれは偶然ではない。
noirse @noirse
しかし山田監督は突然ジョン・フォードを導入したわけではない。たまこまの時点で監督は「飛べないこと」「落ちること」に非常に拘っていた。これは蓮實的に言えばドン・シーゲルの垂直運動に値するだろうか。風立ちぬの流れで言えば『母をたずねて三千里』序盤の高低のレイアウトを思い出すべきなのか
noirse @noirse
たまこま本編では、王家のトリ、デラ・モチマッヅィは3つの役割を担っていた。ひとつはメッセンジャー、もしくは仲介者である。王子の妃を探す旅の果てに商店街に流れ着き、片思いばかりのうさぎ山商店街の住人たちの仲介者を買って出る。しかしそれはことごとく失敗する。
noirse @noirse
トリには映像投影機能と、鳥ゆえにもちろん飛行機能がある。仲介者としての失敗は映像機能の故障と、太って飛べない、落下するという行為を通して表現される。たまこラもち蔵の視覚者としての役割は、たまこま本編トリの「メッセージの未達/映像機能故障/落下」の3点においてすでに先取りされている
noirse @noirse
たまこまにおいてはむしろ聴覚がドラマのエンジンとなる。たまこは死んだ母親の面影を求め記憶の奥底に残るメロディーの痕跡を探し、音楽喫茶?に通うなどするうち、若かりし頃の父親のバンドの曲が母親の鼻歌を通じて自分に受け継がれたことを知る。たまこま本編のメインストーリーは実はここにある。
noirse @noirse
たまこラでもそれは同じである。映画の後半はたまこパートになっている。もち蔵の「投げた」メッセージを「落とした」たまこが、それを再び「投げる」ためのきっかけとして、母親の作った歌をテープで聞くという儀式が描かれる。もち蔵が視覚的人間であるのに対して、たまこは聴覚的人間である。
noirse @noirse
そして、その視覚/聴覚のバランスは、たまこまーけっとという作品全体のバランスでもある。もち蔵/トリはドタバタ劇を「視覚的」に演じるが、そのいっぽうでたまこはじっくりと「聴覚的」な物語を紡いでいる。それはたまこまの視覚的演出と、聴覚的シナリオというふうに受け取ってもよい。
noirse @noirse
そして思い出してみてほしい。山田尚子監督の出世作、『けいおん!』は、文字通り聴覚的な作品だった。もちろん視覚的にフェティッシュな描写もあるが(足!)、それは堀口悠紀子以下、作画スタッフの功績だろう。山田監督の視覚面での演出が本格的に花開くのは、たまこままで待たなくてはいけなかった
noirse @noirse
言うまでもないが、けいおんは歌とバンドの物語だった。聴覚を通じ軽音部員は自らの日常をかたち作っていった。作品終盤卒業を控え、部員たちは「天使」を見つける。しかし天使は実際には存在しない。存在しないものを見てしまう、聴覚が発達し、視覚が失調した世界。それが山田尚子ワールドだった。
noirse @noirse
けいおんもたまこまも、京都をモデル、聖地としていた。しかし作品内では「京都らしさ」は隠蔽されていた。これも同じである。実際の京都を視覚的に隠蔽することで、軽音メンバーやたまこまジモティ民たちの「日常」を成立させるという、そうしたはなれわざを山田監督は演じてみせていた。
noirse @noirse
けいおんで完成された日常系アニメのスタイルは、少なくとも山田監督的には、視覚機能を失調させ、その分聴覚機能で補強することで組成し得たものだったと言える。そろそろまとめに入ります。
noirse @noirse
たまこララスト、たまこはもち蔵にメッセージを「投げる」ために走る。商店街を抜ける。京都タワーが現れる。そして京都駅に辿り着く。たまこは、「日常系」を維持させた商店街を後にし、けいおんの時から隠蔽されていた「京都」を露呈させ、もち蔵にメッセージを「投げ」それは「受け止められる」のだ
noirse @noirse
つまり、従来の山田監督の「聴覚的/女性的/日常系的」な世界から、「視覚的/男性的/脱日常系」へメッセージを「投げる」というのが『たまこラブストーリー』という作品だった。それを落とさず「受け止める」かどうかは、もちろん観客の役割である。そのメッセージが何か、明言するのはヤボだろう。
noirse @noirse
山田監督の日常系世界は聴覚的女性たちにより維持されていた。その作品は新しいアニメのかたちとして絶賛されたが、一部の視聴者からは拒否された。視覚に頼らない聴覚的日常世界は、視覚のエロスにより発達してきた(主に男性スタッフによって築き上げられた)日本アニメでは特殊なものだったのだろう
noirse @noirse
監督とは成長するものだ。たまこまにおいて山田監督は演出面で冒険したいと思ったのだろうか、視覚的演出を男性(もちとトリ)に託した。それゆえかたまこまは、一部の視聴者からは否定的に受け止められた。女性的世界に慣れた視聴者には、男性キャラによる視覚的世界は受け入れ難かったのだろうか。
noirse @noirse
けいおん劇場版は、日常系アニメそのままのゆるい展開が、映画を支えるには弱いのではと批判的な意見もあった。聴覚的アニメは、ひたすら視覚的な「映画」というパッケージでは齟齬をきたしてしまうのかもしれない。それゆえか、たまこラはジョン・フォードや宮崎駿に通じる、フル視覚モードで挑まれた
noirse @noirse
もち蔵は映像の学校へ進学するため、うさぎ山商店街という聴覚的世界を後にすることにした。たまこラという作品は、まるで成長したもち蔵が映像化した「うさぎ山商店街のたまこ」の姿のようだ。たまこラブストーリーは、聴覚的世界を脱した、山田尚子監督の新境地なのだろう。
noirse @noirse
ただしここにはレトリックがあって、例えばたまこの父親は母/娘にメロディーを託すという、聴覚的役割を担っていたりする。また、たまこは視覚的世界へ踏み出すが、またうさぎ山商店街に戻っていったかもしれない。山田監督はこれから視覚/聴覚の双方向から作品作りに向かうのではないかと予想する。
noirse @noirse
まだいくつかあるけど、主にはこんなとこでしょうか。どこかでたまこラについて長めの文章を認めようと思ったんだけど、いつになるか分からないし、映画見ながらメモする習慣は持たないし記憶力もズバ抜けて低いので、第一印象だけツイートしとこうと思って連投しました。お目汚し失礼しました。
noirse @noirse
てらまっとさん@teramatのたまこま論http://t.co/pTVEL5Ise6すごく面白かったんだけど、ここで扱われている無意識も聴覚的センスだなあとか、そういうことを考えながらたまこラ見てたりしました
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コメント

相楽 @sagara1 2014年5月12日
まとめ中で『たまこマーケット』についての論考が触れられていた、てらまっとさんによる感想を追加。