渡邊芳之先生ynabe39の「ダラダラ書いたけど言いたいことの中心は「表現の自由を大切にするあまりに表現の自由の範囲をどんどん小さく考えてしまうのはうまくないよ」ということだ。」
千の風になって。
北海道帯広市 · twilog.org/ynabe39
渡邊 芳之(わたなべ よしゆき、1962年4月22日 - )は日本の心理学者。帯広畜産大学人間科学研究部門(人文社会・体育学分野)教授。博士(心理学・東京国際大学)。 佐藤達哉、尾見康博との共同研究を中心に心理学論、心理学史、人格心理学や血液型性格分類の批判的検討などの分野に論文・著作を持つ。趣味はレコード蒐集。
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡邊芳之
渡邊 芳之 -帯広畜産大学-
http://www.obihiro.ac.jp/ichiran/watanabe_yoshiyuki.html
「人に迷惑をかけない表現」と「人に迷惑をかけても表現する価値があるもの」だけが表現の自由の対象で、人に迷惑をかけてまで表現する価値のないものは表現の自由の対象ではないのだったら、表現の自由はわざわざ憲法や法律で守らなくても、いつの時代にもどの社会でも誰にも侵害などされないだろう。
2014-05-13 06:20:30人に迷惑をかける表現,人を苦しめる表現,邪悪な表現,気持ちの悪い表現,胸くそ悪い表現もすべてまず「表現の自由の対象」としたうえで,「公共の福祉」や社会的同意に基づいてその「表現の自由」に対して必要最小限の制限を与える,という仕組みになっている。
2014-05-13 06:27:46そういう意味では表現の自由というのは「自由ではあるけれどもある程度は制限されてしかたないもの」として存在していて,だからこそその制限が最小限になるような仕掛けがいろいろされている。
2014-05-13 06:30:07「自由だというなら100%保証されなければならないのでは」「制限されるなら最初から自由ではないのでは」という感覚は,表現の自由を神格化する人にも表現の自由を批判する人にも共有されているように思える。
2014-05-13 06:33:08自由を神格化する人々にとっては「自由」とはいっさい制限されてはならないことで,制限が必要なものは「最初から自由ではない」ということになる。だから自分たちから見て「制限すべき表現」は最初から「表現の自由の対象ではない」ということになる。
2014-05-13 06:35:25ヘイトスピーチをめぐる論争で「ヘイトスピーチは表現の自由の対象ではない」「ヘイトスピーチはそもそも表現ではない」という主張がどちらかというと表現の自由を大切にするリベラルな人たちから出てくるのはそのためである。
2014-05-13 06:36:47「自由とは素晴らしいものであるから,素晴らしくないものは最初から自由の対象ではない」という感覚は,むしろリベラルな立場の人からよく主張されるのではないかと感じている。
2014-05-13 06:38:34いっぽう「自由は素晴らしいものなんかではない」というのは保守派や右派の人から主張されやすいことだが,実際には表現の自由というのは「自由はつねに素晴らしいものではない」ということを前提に「守られている」のだと思う。
2014-05-13 06:39:57@ynabe39 ヘイトスピーチがスピーチの自由より、ヘイトの対象になる人々の生きる自由を束縛するからよくない、と言う話ではないのでしょうか
2014-05-13 06:43:51他人の自由,他人が自由を行使するこというのは得てして迷惑で不快で時には危険なものだけど,それにできるだけ寛容を保とう,それを可能にするためにあまり大きな迷惑は社会的合意に基づいて制限しよう,というのが「われわれが現実に持っている自由」だと思う。
2014-05-13 06:43:55それは「よくない自由」であって「自由ではない」のではない,ということです。 “@shure_geru: @ynabe39 ヘイトスピーチがスピーチの自由より、ヘイトの対象になる人々の生きる自由を束縛するからよくない、と言う話ではないのでしょうか”
2014-05-13 06:44:50どうも「自由」という言葉がいけないのではないかと思っている。「自由」という言葉にもともと「無制限」という意味が含まれているから「制限があるのなら自由ではない」と自然に思ってしまう。
2014-05-13 06:46:49ただこれも昨日の「有意」と似た問題で,日常用語としての「自由」と法や政治の文脈での「自由」とには意味や用法の違いがあるのだけれど,どうしても日常用語の意味のほうに引っぱられてしまうということはあるだろう。
2014-05-13 06:50:09自由は素晴らしいから守るのではなくて,危険で迷惑で気持ちが悪いけど守るのだ。そんなものをなぜ近代社会は「どうしても守るべき大切なもの」と考えてきたのか,ということが言論や表現の自由について考える大事なところだと思う。
2014-05-13 06:56:43ダラダラ書いたけど言いたいことの中心は「表現の自由を大切にするあまりに表現の自由の範囲をどんどん小さく考えてしまうのはうまくないよ」ということだ。
2014-05-13 07:00:46どうも「自由=何の制限もない,何の罪にも問われない」という感覚がふつうなんだなあ。でも裁判でも有罪になるのは「本人の自由な意思で犯された罪」で,心神耗弱や強制によるものは「自由でないから無罪あるいは減刑」ではないですか。
2014-05-13 07:42:13「自由に対する制限」と同じことは「表現や言論に対する批判」についても言えて(表現の自由というのはもともと迷惑で危険で気持ち悪いものだから)他人の表現行為を迷惑だと思う人がそれに文句を言うのは自由に決まっている。批判や文句も表現であり言論なんだから,その対象と同様に自由。
2014-05-13 07:44:12ここでも「表現の自由無謬論」みたいのがあって「自由なんだから批判すべきではない」みたいなことがいわれる。これもわりと「リベラル」の立場だけど,いとも簡単に「批判されるべきものだから自由ではない」に変換されてしまう。
2014-05-13 07:45:35もちろん批判も表現だから「公共の福祉」や社会的合意,それに基づいた法によって制限される。悪に対する批判だからといってなにをやっても制限がないわけではないのは表現と同じ。
2014-05-13 07:48:38また@ynabe39 が自由をディスるためにミスリードしてる感じ。 この場合は「表現の自由によって表現されたモノの中には気持ち悪いものもあるがどうしてそんなモノを守るのか?」 と書けば良いものを。
2014-05-13 07:48:52