2014年5月18日

曹丕崩御の日の小噺

決して輝かしくなど無い戦について。
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曹丕 @caopi_nrkr

久しぶりに歴史的な事を紡ぐ。今日という、ある意味での記念日は一年で二日しか無い故、是非、耳を貸せ。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:39:28
曹丕 @caopi_nrkr

黄初七年。西暦では226年。五月頃、風邪を拗らせた私は肺炎を患い、病状が悪化し、為す統べなく、丁巳の日、崩じた。それが、今で言う、今日。新暦、五月十七日。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:41:06
曹丕 @caopi_nrkr

折角の機会ゆえ、私が指揮した数少ない戦を紹介しよう。…知る者ぞ知る、決して輝かしくなど無い戦。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:42:46
曹丕 @caopi_nrkr

遡る事数年前、父である曹操が崩じ、その位を継いで私が丞相・魏王となる。それまで続いていた建安二十五年を改元し、延康元年とした。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:44:49
曹丕 @caopi_nrkr

その年の十月。私は献帝に禅譲を迫り…、いや、禅譲を受け、帝位を継いだ。これを機に、世は三国時代を迎えるわけだが、この時、劉備の元には「私が献帝を殺めて帝位を奪うた」という誤報が伝わる事となる。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:47:02
曹丕 @caopi_nrkr

劉備は献帝の葬儀を行い、悲しみに打ちひしがれていたらしいな。この少し前に義兄弟として親しんできた大事な関羽を孫権に討ち取られ、荊州までも取られていた。 その劉備が成し遂げようとした戦が、憎き孫呉の討伐。皆も良く知る、「夷陵の戦い」だ。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:48:56
曹丕 @caopi_nrkr

関羽のみならず、飲んだくれた張飛までもを喪い、怒りに狂うた劉備の猛攻は怒涛の如く、さぞかし凄まじかったのであろうか。それに畏怖を抱いた孫権は、国の安泰を図ろうと我が曹魏に忠誠を誓うた。私は孫権に呉王の位を授けた。…夷陵の結果については今更語らずとも良かろう。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:50:35
曹丕 @caopi_nrkr

さて、その忠誠を誓うていた孫権だが…恭順の証として太子である孫登を送るよう命じたのだが、孫権はそれをのらりくらりとはぐらかして一向に送ってこぬ。 それを良しとせず、腹を立てた私は222年九月、呉への南征を命じた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:52:43
曹丕 @caopi_nrkr

攻め入る先は、洞口、濡須口、江陵。まずは長江下流の洞口に、曹休を征夷大将軍に任じて黄金のまさかりを与え、張遼らと共に向かわせた。対する呉軍は大将の呂範や徐盛ら。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:53:51
曹丕 @caopi_nrkr

両軍が対陣して間も無く悪天候に見舞われ、強風が吹き荒れた為に呉軍の兵士は次々に長江へ投げ出され多くの兵が溺死した。加えて我が軍の1万人の決死隊による襲撃で更に多くの戦死者を数え、洞口に関しては、ほぼ勝利。されど、徐盛らの活躍でそれ以上の侵攻はくい止められていた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:55:20
曹丕 @caopi_nrkr

次の侵攻地は濡須口。223年三月、曹仁が大将軍となり、息子の曹泰らを率いて洞口上流の濡須口へと攻め入った。濡須口を守るのは朱桓。その守備が固いのを見て、陽動作戦をとって朱桓の軍を二分させたところを曹泰、王双らに大軍をもって襲い掛からせている。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:57:56
曹丕 @caopi_nrkr

しかし、朱桓の采配は口惜しいが見事で、慌てふためく将兵たちを取り纏め、我が軍を分散させて勝機を見出した。曹泰軍の陣営を焼き討ち、王双を生け捕りにされた。大将軍の曹仁はこの大敗を深く恥じたのか、その月のうちに病没した。 #文帝命日小噺

2014-05-17 22:59:20
曹丕 @caopi_nrkr

続いて江陵。征夷大将軍の夏侯尚、張こう、徐晃、曹眞といった猛将揃い。攻め込んだ当初、江陵に篭る朱然の兵士の多くは浮腫を患い、戦えるものは僅か五千名にすぎなんだ。夏侯尚は高楼を築いて雨あられと矢を射るのだが、朱然はそれに耐える。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:00:54
曹丕 @caopi_nrkr

そうしているうちに、曹眞軍にも疫病が蔓延し、長江が増水するに至る事も相成って撤退せざるを得ぬ状況となって仕舞うた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:01:26
曹丕 @caopi_nrkr

結局、いずれの攻撃においても我が曹魏軍は呉軍を打ち破ることが出来ず、南征に失敗して空しく帰陣した。 その第一次南征から数えて一年半後、224年九月。私は再び孫呉討伐を目指し南下する。許昌を仲達らに守らせ、自ら大軍を率いて孫呉の都・建業に程近い広陵に向かうた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:04:00
曹丕 @caopi_nrkr

対する呉軍は広陵の防備が手薄であった為、急遽、徐盛が偽城を一夜で建設した。手薄であるとの情報を入手していたが故に攻め入ったのであろうが、そこには木材の骨組みに葦の蓆を被せただけの、にわか造りの一夜城。それを見た私は、落とす事は難儀であろうと騙され、攻撃を諦めた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:05:40
曹丕 @caopi_nrkr

ああ、まんまと、口惜しい。さらに長江が増水し、帰還せざるを得なんだ。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:06:54
曹丕 @caopi_nrkr

翌225年十月、私は十万人を率いて、再度広陵まで出陣した。数百里にわたり我が曹魏軍の軍旗がはためく様は勇壮であったようだ。…が、この年は、寒気が激しく、下ろうと思うていた長江が凍結し船が進まん。寧ろ、船を浮かべることすら出来ぬ。よって、仕方無く引き返した。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:07:42
曹丕 @caopi_nrkr

引き返し、許昌へ戻ろうとしたのが226年の正月。されど許昌城の南門がこれといった原因も無いのに崩れ落ちた。私はそれを嫌い、許昌への入城を取りやめ、洛陽城に帰った。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:08:48
曹丕 @caopi_nrkr

そして、五月。病状が悪化した私は曹真、陳ぐん、曹休、仲達らを召し出し、嗣子である叡を補佐せよとの遺詔を下した。その後快復する事無く、嘉福殿で崩じ、六月、首陽陵に葬られた。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:11:12
曹丕 @caopi_nrkr

子建との後継者争いをしていた頃、高元呂という良く当たると評判の人相見を呼んだことがあった。その者によると、「いずれ口にするのも憚られる程の高い位につかれます」との事。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:54:56
曹丕 @caopi_nrkr

寿命について尋ねると、「四十の時に小さな試練が訪れますが、それを乗り切ればあとは万々歳でございます」との事。私はその小さき試練を乗り切れなんだ。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:55:32
曹丕 @caopi_nrkr

かつて疫病が大流行して多くの民が死した時、私はそれを深く悲しみ、当時尊敬していた王朗へ斯様な手紙を送っている。 #文帝命日小噺

2014-05-17 23:56:04
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