ひびの先生の一連のツイート(2014.5.22)

近代演劇と「強い共感」「弱い共感」、また人格の非統一性について。
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ひびのけい @hbnk

戦後新劇とアングラに共通する「正統性」への希求/起源への回帰という主題は、「本物」と「贋物」の対決や共存という、古来よりの演劇の題材に変奏され反復される(『ジョン・シルバー』『総統いまだ死せず』等々)。だが商業演劇はその二項対立を意に介せず「よくできた偽物」を作ることに専念する。

2014-05-22 01:02:59
ひびのけい @hbnk

自分が(「本物」の表象/代行に過ぎないという意味で)偽物だと感じつつ、それを否定したり、開き直ったりするのが新劇/アングラで、偽物である自分を引き受け、偽物の範疇において精巧さ=できのよさを追求するのが中間演劇(≒商業演劇)だった。「お芝居」であることを斜に構えず楽しむ態度。

2014-05-22 01:10:47
ひびのけい @hbnk

この先しばらくはこの「よくできた偽物」と「弱い共感」のことを考えていきたい。後者については、国民国家と演劇の関係を論じる際「強い共感」がクローズアップされてきたけど、「愛国心」のような強いものが鼓舞されるだけでなく、「何となく、いいなと思う」心の働きが果たしていた役割を探りたい。

2014-05-22 01:16:55
ひびのけい @hbnk

「強い共感」=感動を求める心と、正統性や始源を求める心はどこかでつながっていて、それが近代ってことだと思うのだが、実は「弱い共感」によって編成される共同体において「偽物」(でしかないもの)を上演することが意味を持ち続けていた時代や地域もあった。それこそ地芝居とか小芝居とかも含め。

2014-05-22 01:20:47
ひびのけい @hbnk

逍遙一派の「ページェント」は、同時代二十世紀初頭のアメリカやイギリスのパジェント=野外劇論を受けつつ、時間藝術としてのドラマではなく無時間的な「見世物」=縁起開張へ(結果的に)依拠することで「弱い共感」を軸とする共同体創出へと変貌を余儀なくされていく←この論文もまだ書いてない。

2014-05-22 01:25:45
ひびのけい @hbnk

「全人格的な感動」を与える「強い情動」が近代藝術作品には要求される。しかし藝能の作り出す「弱い情動」、受け手の人生を変えることなど到底できないような「ユルさ」によって編成される共同体もある。意識はしていないにせよ、逍遙以下はそのことを踏まえてページェントを実践した。

2014-05-22 01:31:33
ひびのけい @hbnk

安藤鶴夫が「カンドウスルオ」という綽名を自分でも喜んでいたエピソードは象徴的だ。落語を藝能から近代藝術に格上げしたかったアンツルにとって、落語は「感動」するもの、強い情動を与えるものでなければならなかった。聞いて「ほんわか」する、弱い情動を生み出すものではダメだった。

2014-05-22 01:36:25
ひびのけい @hbnk

人格の統一性という強迫観念のことも言及しなくては。今いちばん私たちが恐れているのは「一貫していない」と批判されることで、公的人物が言動の不一致や前後での矛盾があると鬼の首を取ったように騒がれる。「裏の顔」があると人非人のように言われる。でももっといい加減な時代もあったわけで。

2014-05-22 01:45:10
ひびのけい @hbnk

セックスレスともこの強迫観念は関わってるのかな、と思う。性行為にのぞんで「人格が変わる」ことを—正確に言えば人格が変わった、と相手に思われることを—恐れている人が増えたから「草食系」という物言いが出てきたのではないか。セックスに限らず、君子豹変す、という言葉の重みは忘れられてる。

2014-05-22 01:49:44