“物語を「楽しむ」と「意味を見つける」の関係⇒感受性が低い人にとってのクンフー論 - ゆらのふなびと” htn.to/VZjPBqvo
2014-05-26 21:08:34"カレーを目の前にして、カレーに一切手を付けずスパイスばかりそのまま食べようとするようなものです。" 物語をカレーに見立てるのは分かり易い気がします。私風にいうと「全体の総和」と「部品としての分解」みたいなイメージかも。
2014-05-26 21:14:51物語を100の部品に分解しても、それはもう"物語"じゃないはずです。 分解しちゃうと「感情」とか「楽しさ」が失われちゃうかなーと私も感じちゃうような。 とはいっても読み終わったら分解するのもありなんですけど、ただ"戻す"行程がないとダメなのかもしれまん?
2014-05-26 21:18:18"クンフー自体に理解が浅い部分はあると思いますが、悪しからず。まず物語について書いて、そこからクンフー論に繋げます。" 私のクンフー記事も源流の海燕さんたちのと比べると、もう大分変質してしまっているような気もします。たぶん個人個人のスタイルに落としこんでいくのが大切だなと!
2014-05-26 21:21:30ここ盲点だった気がします。 私が今まで考えてたのは、「センス・オブ・ワンダー」or「一回性」と呼ばれる「奇妙な体験」「不思議な体感覚」を感じられない―――ってことに焦点を当てて考えていたのですが、 そもそも「楽しいが薄い」場合もあると聞いてふむふむと。なるほどー
2014-05-26 21:26:10多分、「一回性――集中――楽しい」 右端の順番から、左端の体感覚に移ると仮定。これが真実ならば、私が思い描いていたのは 「一回性orセンス・オブ・ワンダーを感じられる"能力"」という勘違いなのかもなーと。 その体感覚に到達できるというのが能力だというのならば、確かに能力
2014-05-26 21:30:59要するに、「集中――楽しい」という段階を踏むことなく、ワンステップで一回性の体験に行けるんじゃないのと? (おそらく行ける人もいるはず。ただ再現性を求めるのならばっていうお話なのかも)
2014-05-26 21:32:20"でも、「憧れる」って根本的に危ういんですよね。評価尺度が外部にあるから。自分が今までよりちょっと楽しみを向上させられたとしても、基準は憧れの対象ですから、いつまで経っても満足が得られない。自分は成長しているのに。"
2014-05-26 21:33:48私はあったかな……? たぶんこんなこと問う時点で無かったんだろうなって思ったり。 むしろ自分の好きなジャンルだと、"理想が遠い"ことは嬉しいことだと感じているんですけど、これは何故かというと、「走っている」時が一番楽しいのです。
2014-05-26 21:38:06手が届いてしまったり、完成してしまえば停滞の二文字が現実にそびえ立っちゃうので。(だから変化入れるべし!なんでしょうねきっと(・ω・ ))
2014-05-26 21:38:48あともしかしたらこれは、「比較級の世界」に身を投じてしまうことで起きるのかもなと。 ここはタウさんが言うとおり、"上の人間との比較ではなく「過去の自分」との比較"__という自分の内側に価値を置くと、いいのかもしれません
2014-05-26 21:45:57"でも、それを他の人にも広げようとすると――感受性の違い故に隔絶が起こってしまう。「好き・楽しい」と何か他のものを倒錯したり、憧れゆえの苦しみに苛まれる(あるいは最初っから諦める人もいるかもしれません)。"
2014-05-26 21:46:28気になった点をまとめてみよう ・感受性が低い場合(楽しいが薄い場合)はどうすればいいのか? →そもそもクンフー論が楽しいが濃い人が入りやすい?ものだとするならば、楽しいが薄い人はどういう過程?やキッカケ?だとうまく入り込めそうなのか
2014-05-26 21:52:33環境・学習・倫理観のインストールによって→→→個人の嗜好・思想が決まってくる。(仮定) 個人の嗜好/思想によって、ある対象を見たとき「好きor嫌い」の感情を発現させる。
2014-05-26 21:59:11