八ッ場ダム工事によって水底に沈む群馬県・西宮(にしみや)遺跡の発掘調査 (長野原町)

平成26年4月1日~平成26年6月30日、八ッ場ダム建設に伴い水没する川原畑地区にある西宮遺跡で、発掘調査が進められています。かつてこの地に存在した村は、天明の浅間山噴火で発生した泥流による大被害を受けました。しかし、発掘の結果、泥流の上にも新たな石垣跡が見つかるなど、江戸後期の村落が受けた自然災害による被害とその後の復旧の様子が明らかになりつつあります。 http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/hakkutu/2014/20140507-3.html
環境 江戸時代 浅間山
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八ッ場あしたの会 @yambatomorrow
川原畑地区の西宮遺跡。八ッ場ダム事業によって、水没予定地の発掘調査が行われている。天明3(1783)年の浅間山の大噴火による泥流に埋もれていた大量の石垣が出土。今日は現地説明会が行われていた。 pic.twitter.com/DrcWfOQgTr
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西宮遺跡では、4月からの発掘調査で3軒の住居跡が確認されている。どの建物も、仲の配置はよく似ている。東南の角に馬小屋、その北にカマドのある土間、西側に囲炉裏と板の間。5号建物全景。 pic.twitter.com/BnFWi3tCVp
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厠には木製の桶が入っていた筈だが、発掘調査の時には桶は形を留めていなかったという。内側の土の表面に桶の跡。下肥は農家にとって大切な肥料になった。板を二本渡しただけの簡素なつくり。時間をかけて肥料にするので、二つの桶があったとみられる。 pic.twitter.com/uYmOdsmZAT
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馬小屋は家の入り口脇の東南の角につくられた。馬糞に蚕の糞をまぜると、よい堆肥ができたという。長方形の少しへこんだところが馬小屋の跡。 pic.twitter.com/G2WovLv1W6
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表面が焦げた囲炉裏の跡。隣接する東宮遺跡では、食器などの生活用具が多数出ているが、西宮遺跡の方は比較的少ないという。地元では、泥流が押してくる前に、家に生活用具を取りに戻ったとの言い伝え。泥流の勢いが、東宮より弱かったのか? pic.twitter.com/HWCz3IEm67
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泥流で倒れた建物の痕跡が石垣に残されている。黄土色の部分は土壁の跡。手前の礎石のある場所から柱の位置がわかる。柱と柱の間に土壁があった筈。土壁の跡は、泥流が吾妻川の下流から押し寄せ、建物が上流側に斜めに倒れたことを示唆しているという。 pic.twitter.com/gYnoKv35Lh
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村の共同井戸。最近までここに小さな井戸があった。その井戸の下から、天明三年まで使われていた大きな井戸が姿を現した。手前の街道と井戸を結ぶ道があり、地元の人々だけでなく、旅人もこの井戸で渇きを癒したかもしれない。 pic.twitter.com/r8hwoS0kPU
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湧き水のあった東宮遺跡では、木製の遺物も出土しているが、湧き水のなかった西宮遺跡では、地面に残された痕跡から、ここに板の間があったとわかる。 pic.twitter.com/YsGDo2tvkq
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西宮遺跡は街道筋にあった。遺跡の前を横切る現在の道は、上州と信州の往還に使われた道がそのまま使われている。幅1.8メートルの遺跡の中の道は、大八車も通れそうだ。1783年の浅間山の火山灰が残されている。 pic.twitter.com/Q2MSSl60XS
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発掘には様々な道具を使う。大抵は、作業員がホームセンターなどで買い求めたものを、使いやすいように細工するという。230年前の人々の生活を創造する力と、根気のいる細かい作業の積み重ねが遺跡を現代によみがえらせる。 pic.twitter.com/GtDy9pnIz4
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天明泥流に埋もれていた石臼。使い込まれたらしい石臼は、だいぶすり減っている。ここは土間の跡。 pic.twitter.com/JM2CvaCpJX
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村の共同井戸の後ろにある岩は、天明3年当時もここにあった。重機のない時代、岩をそのまま残して畑と家を配置し、ダムの工事で転出する時もそのままだったのだろう。明治時代、畑跡のあたりに小学校の分校があったという。 pic.twitter.com/1fUMaG0Tmf
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長野原町誌によれば、明治12年、川原畑の西宮に小学校がつくられた。学校の建物は、県会議員をつとめた野口茂四郎氏の剣道場が使われ、川原畑・川原湯の児童が通ったという。江戸時代から明治時代にかけて、この地域の中心は川原畑であった。
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県会議員を六期つとめた野口茂四郎は、川原畑の財閥の息子であった。野口氏の邸宅は黒い塀に囲まれていて、大層立派だったという。茂四郎が明治時代、私財を投じて完成させた吾妻渓谷沿いの幹線道路(国道145号)が八ッ場ダムによって水没することになる。
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西宮遺跡の背後の山の中に巨岩がある。この巨岩は明治の頃まで、信仰の対象であったという。巨岩には庚申塔や宝篋印塔があり、巨岩の上を信州街道の古道が通っていた。 pic.twitter.com/pO7RkleODl
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西宮の背後の山を通る信州街道、いわゆる真田道の古道。「川原畑はいいところだった。こんないいところは他にない。今でも、ここにまた家を建てたいくらいだ」(転出した住民) pic.twitter.com/AgxE664S9C
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「土が盛ってあるところに、豆腐屋さんの屋敷跡があった。豆腐が売れて、お金持だった。西宮には今でいう、ドライブインもあった。立場(たてば)といった。この家も金持だった。」「東宮遺跡からは女物の下駄が多数出土したが、その殆どが漆塗りだった。川原畑の人々は天明当時、豊かだった」
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川原畑地区には縄文遺跡も多い。縄文時代の人口密度が非常に高いということは、獲物になる動物や木の実が豊富にあったことを示唆するという。
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川原畑・西宮の信州街道古道沿いの巨岩の脇の道祖神。一方のお顔が削られているのは、なぜだろう? ここも八ッ場ダム水没予定地なので、いずれ移されるのだろうか。  pic.twitter.com/RROAGoBDNW
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コメント

Kazuo Uozumi(蘇民将来子孫家門) @forthman 2014年6月15日
天明の浅間山噴火の影響は東北に冷害をもたらし、大飢饉の直接的な原因とも言われています。東北の飢饉の惨状については、「高山彦九郎日記」に詳しく記録されています。
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