まとめの限定公開に「リンク限定」が追加されました。URLを伝えてまとめを共有しよう!

デモ・都市・絵画

まとめました。
691view 0コメント
このまとめをお気に入りにして応援しよう!
1
池田剛介 Kosuke Ikeda @kosukeikeda
三菱一号館のヴァロットン展を見てスタジオへ向かう。なかなか面白かった。見るのに時間がかかり、フォートリエは行けずだけど。
池田剛介 Kosuke Ikeda @kosukeikeda
ヴァロットンはデモを一致団結した集団としてではなく、画面の外へと散逸する群れとして描いている。バラバラな諸要素による組織化と脱組織化の均衡点としてのデモ=作品 moma.org/collection/obj…
池田剛介 Kosuke Ikeda @kosukeikeda
ヴァロットンは解離的な距離を保ちながら世界を観測している。別の世界線からやって来たような感覚がある。世界はこのようでありながら、にもかかわらずそこへの違和感が払拭しえない。
池田剛介 Kosuke Ikeda @kosukeikeda
他人(家族やナビ派の画家も含め)と決して一致団結できず、しかし強い自己のパースペクティブに世界を統合することもできない。他人との一体感でもなく、自己への統合でもない、世界と自分とがズレていってしまうような、散逸的な感覚にこだわり続けている。
池田剛介 Kosuke Ikeda @kosukeikeda
遅ればせながら首相官邸前に向かってます。ヴァロットン・プラカード作った(ゆるくてすいません) pic.twitter.com/7LfwsmZERY
 拡大
永瀬恭一 @nagasek
【芸術の中の群衆1】それは、端的にいえば、既存のコードである道路(そこをどのような車がどのように走るかが決められている)のコードを解除し、道路から広場-平面に解除して、そこに新たなその場限りのルール=ゲームを作り上げる行為だ。
永瀬恭一 @nagasek
【芸術の中の群衆2】しかもそれは内発的(自然発生的)である。ごく単純な話だ。誰かが意図して歩道から出て車道に侵入すれば制止される(コード化)。ただし、本人はその場に立っているだけにもかかわらず、後ろからどんどん人が来て押されて車道に「あふれる」ことは誰にも制止できない。
永瀬恭一 @nagasek
【芸術の中の群衆3】いや、むろん、車道に出てしまった人は警官(コード)に押し戻される。だがここでマテリアル、あるいはメディウムの条件が立ち上がる。溢れる人を静止する警官(コード)もまた人であった。100人の人の横溢を5人では抑えきれない。
永瀬恭一 @nagasek
【芸術の中の群衆4】そもそもコードには限界があるからコードなのであった。意思に基づいて車道に出たものは警官(コード)に与えられた権力=暴力で抑えられる。しかし、後ろから来る膨大な人に押されて「溢れてしまった」人に権力=暴力は行使できない。
永瀬恭一 @nagasek
というよりも、100人の人を1000人の警官で抑えることはそもそもできない。なぜなら彼らの使命は既存のコード=車の通る道路の維持であった。1000人の、10000人の警官で車道を埋めてしまったらそもそも彼ら自体が脱コード的存在になる。
永瀬恭一 @nagasek
番ふりめんどくさいからやめた。
永瀬恭一 @nagasek
繰り返せば、結果、あふれ出てしまった人々が車道=方向性の規定された通路の「方向」を解除し、そこにコード=秩序の解除された空白地帯を形成することを、誰も止めることができない。
永瀬恭一 @nagasek
言うまでもなく、そこで解除されたコードの空白は単なる混沌と混乱の場ではない(そうであったらただちにより強力なコード=暴力が介入するだろう)。コードの空白地帯としての元・車道は、あふれ出た人々相互の意思によって、一瞬、車道とは異なった新しいコードを形成しようとする。
永瀬恭一 @nagasek
既存のコードと、そこを解除して新たなコードを生もうとする運動の絶え間ない波。その波が形成する新たなる平面=元車道としての広場。これこそは近代以後の絵画の問題構成ではなかったか。与えられた与件としてのキャンバスに、それを解除したフェノメナルな「平面」を構成すること。
永瀬恭一 @nagasek
こうして既存コードであった車道は一瞬絵画となろうとする。ドゥルーズ「感覚の論理」が言う「人は真っ白なキャンバスに向き合うことはできない。そこは既に既存のコードで埋め尽くされている。画家はまずそれを取りはずさねばならない」。溢れる人々はそのまま画家となる/構造的に。クールベを想起。
永瀬恭一 @nagasek
まったく逆の事が言える。既存のコードを解除した空間を立ち上げようとする全ての仕事は(製造業であれ農業であれ営業マンであれ)、どれもが新しい群衆と結ばれている。アトリエで、ナチスへのパルチザンに参加することなく新たな絵画平面を黙々と生み出し続けたマティスのように。
永瀬恭一 @nagasek
現実問題として重要なのは、最前列の人々を否応いなく押し出す背後の人々だ。それがいなければ、しかも多数いなければ、コード化された車道は永遠に広場にならない。声をあげなくてもいい、ぼんやりでもいい、とりあえず「後ろ」でいいから来てほしい、という最前列の声は、このような要請による。
永瀬恭一 @nagasek
もちろん、毎回の描きがすべて成功することはない。というよりもその多くは人目にさらされない試みでしかない。当然だ。近代以後の絵画はそのすべてが既存の価値体系に対する成功の提出ではない。その都度のゲームの構成の試みだから。
永瀬恭一 @nagasek
その意味で、結果的に100人でしか、10人でしか、1人でしか行われなかった試みも、ある日現れる「膨大さ」の背後の1人となるのだろう(そういった備蓄がなければそもそも「その日」はこない)。
永瀬恭一 @nagasek
最後に言うならば、僕はどうしても「趣味」としてデモが好きではない。そして、そのような自己のエステティックを宙づりにするのが美術家、というものでもあった。帰ってきた今も好きではないのだが、全ての作品=作家もまた「試されねばならない」。趣味じゃない人、明日もあるってよ。
袴田京太朗 @hakakyo
正直いうと、僕はこういうデモに参加することに激しい違和感を覚える。それは自分自信の考えが、単純化されたひとつの大きな意見に集約されてしまう、という違和感。しかし他に手だてがない、というのもわかる。そんなもやもやを抱えながら、明日の夕方はとりあえず官邸前に行ってみようと思う。
齋木克裕 @ka2saiki
↓RT 同様な理由でデモに参加することに抵抗を感じる人がいるのかもしれないが、デモに参加するのは、むしろひとつの大きな意見に代表されないような個々人を群衆として出現させること、国民を代表している議会にそれを見せつけることなので、自分勝手に個として行って反対すればいい。
齋木克裕 @ka2saiki
二年前にも引用したがもう一度。
残りを読む(18)
ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする