雑談 聴覚の現象学~アニマの直系としての
- sunamajiri
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なんか日本語訳がひどすぎるんじゃねーの?www @sunamajiri フランスの男子はねちっこいtinymsg.appspot.com/D38
2014-07-03 20:40:00英仏哲学なら和訳では外来語や造語がしっくり来るが、ドイツ哲学の語彙は仏教用語に見えるのかね。ハイデガーもラテン語経由twitter.com/sunamajiri/sta… だと、意識に取り込まれ、ギリシャ哲学の注解に過ぎない後世の哲学は歪むが、独語にはそれがないとしきりに言うわけだが。
2014-07-04 04:32:03ハイデガーは「形而上学入門」で、ラテン語化された際に失われた存在を強調するのだが、コギトにとってはオカルトにすぎないことが、構想力にとっては物自体=存在のことになる。つまりラテン語からは認識は統覚という有限性に陥るが、ハイデガーにとって認識は、神による物自体の認識のことなのだ。
2014-06-27 04:49:50仏語哲学は独語術語の注解みたいになっちゃたからねー。しかも無神論に逃げるための口実探し。しかし、ドイツ哲学もハイデガーを経由すると、なぜか日本語哲学による注解の方が、痒いところに手が届くとドイツ人に言われるね。let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/shizu…
2014-07-04 04:52:42西欧人は、ただ生得的かどうかという一点にしか関心がない。プラトンは前世のイデアの記憶を知識というし、アリストテレスだと基本術語は霊魂よね。これがラテン語になるとオカルトだコギトだと濁るらしいのだ。東洋人がいるのかどうかわからないが、この議論から隔絶されると非西欧的ね。
2014-07-04 04:53:15日本だと知識というものは後天的なものという独断があって、前世とか生れ変りは実証科学的に判断されるべきものと看做されるのだが、そもそも西欧では哲学の唯一の命題。キリスト教神学がそれを隠蔽し、転じて経験科学に分科しただけだから、知識が後天的という自明化は、西欧的ではない。
2014-07-04 05:09:18知識とは何かという認識論は端的に、キリスト教神学の時代にいくら隠蔽されようとも、西欧では「生得的かどうか」という関心事を指すだけだから、その命題を、実証科学のような部門で、「オカルトは経験できるか」なんて想定するのがナンセンスなのだが、日本人はそういう時に仏教用語にお隠れになる。
2014-07-04 05:25:40twitter.com/kyototekken/st…ハイデガーがカントを生粋だと認めるのも、ちゃんと霊魂の生得説という、ギリシャの命題twitter.com/sunamajiri/sta… に忠実だからなのよね。いわば生得説でデカルトのコギトを純粋思惟に戻したりする。無神論のような不純はない。
2014-07-04 15:35:30例えば、「物体で満たされた1立方フィートの空間に霊魂を順番に置くとどうなるか」という思考実験をすることで、霊魂は物質のように特定の場所を占めるようなものではない、ということを証明したりしている。
2014-07-04 15:27:15ハイデガー的な地平twitter.com/sunamajiri/sta… から見てしまうと、どうしても西欧は魂の探求で、魂など自明と思っている側(東洋?)には、西欧の探求者が他の探求(意識・経験科学という反省)をしてるだけに思わされるのも、キリスト教の効果だろうな。@ujikenorio
2014-07-05 01:52:00スティーヴン・コナー。近代的聴覚的自我。視覚優位批判。ただこの議論には難点がある。コナーは技術にこだわっていて19世紀より前のことはあまりやってない。さらに五感のせめぎあいを体系的に説明してない。 #repre14
2014-07-05 13:47:47ヘルダーのオリジナリティあふれる考え。聴覚は中間的な感覚である。聴覚的記号としての言語を議論の中枢に据える。聴覚は中枢にあっていろいろ結合する #repre14
2014-07-05 13:52:47カント。聴覚は最も代替がきかない感覚である。聴覚視覚どっちがなくなったらこまるか。目がなくなっても触ればわかるけど耳なくなったら触ってもわからない。聴覚はほかのもので補えない。 #repre14
2014-07-05 13:54:14耳がきこえない人は理性の類似物にしか達することができないってカントがいってる←私見:マジで?ひどくない? #repre14
2014-07-05 13:54:56ヘーゲル。聴覚は最も観念的感覚である。対象を破壊してしまうようなのが実践的感覚。そうでないのが傍観者的感覚。聴覚は傍観者的感覚。振動によって内面と内面がふれあう。 #repre14
2014-07-05 13:56:49音は内的魂をききとる感覚だとヘーゲルは考えた。音はテオリア的感覚。デリダは音声ロゴス中心主義としてヘーゲルを批判してた。ここではもうちょっとニュートラルに扱う #repre14
2014-07-05 13:58:56振動はいろんなものを貫通して最も内側の感覚に触れる。聴覚において対象はものであることを止めている。耳においては振動が共鳴で伝わってくるので内的魂を耳で知覚してる。聴覚は止揚。 #repre14
2014-07-05 14:00:20魂の声、聴覚と叡智は古代ギリシャからあるが、ヘーゲルはこれを五感の議論に体系的に位置づけだ。振動パラダイム。 #repre14
2014-07-05 14:01:09耳はどうして全ての音を聞けるのか?全部の音に対する耳の神経繊維があるというのをヘルムホルツが考えた。ピアノ説。 #repre14
2014-07-05 14:02:30たしかに、読むこと自体が批判で、読まないのは批判にならないが、ドイツ哲学に至るような魂の探求自体がそもそも、思いなしに対する批判なのだから、そういう西欧哲学の伝統を敵に回して批判ということがあり得るのかどうか。いわゆる東洋というものがあるのかどうか、最近非常に懐疑的なのであった。
2014-07-05 23:26:25魂の探求といったが、問いとしては実に明快。生まれなど後天的な運命に閉じ込められて、不満ではないのか?という問いだからだ。この素朴な問いだけに忠実になること。イデアがイデア界の記憶のことであるように、後天的な運命によって記憶を失うこと。そのことだけが批判的に問題視されている。
2014-07-05 23:38:07