いわゆる「邪馬台国」について(その3)

えー、久々に考察してみました。以前のまとめも参照してみてくださいね。 少し思索を付け足しました。「伊都国=吉野ヶ里遺跡」説です。
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じねん @jinensai

また邪馬台国について考え始めているが、今度の視点はあの文章を書くにあたって準備できたものは何だったかだ。古田史学によって神様に祭り上げられた陳寿から一旦離れ、純然たる人間・陳寿に取材出来たことは何だったかだ。(続

2014-07-09 20:43:28
じねん @jinensai

承)陳寿は蜀の国の人だからリアルタイムに卑弥呼の使者を帯方郡で見聞出来ない。情報は魏から禅譲された晋に保管されていた魏の使者からの報告書と、それに基づいた魚豢の「魏略」しかない。しかも魏・倭ともに使者の往来はそんなに頻繁ではないのだ。(続

2014-07-09 21:10:44
じねん @jinensai

承)さて、魏志倭人伝によれば「相攻伐して歴年主無し」な状況からの解決策として編み出されたのかも知れないが、代表権者は共立される。その場合対象となる国々は九州内だけではなく「飛び地」の近畿の倭も含まれるのではないか。首都は北部九州としても女王の出身地・本貫地はまた別だろう。(続

2014-07-09 21:29:20
じねん @jinensai

承)むしろ九州倭人国家間の利害に抵触しないからこそ選ばれた可能性がある。ここでキーパーソンが浮上する。伊都国に常駐していた人物、塞曹掾史・張政その人だ。彼は説にもよるが20年近く駐在している。常駐していた人物は彼だと「特定」出来る。魚豢の「魏略」に不足していた情報源なのだ。(続

2014-07-09 21:47:02
じねん @jinensai

風呂から上がってこにゃにゃちわ。

2014-07-09 22:37:56
じねん @jinensai

承)魏(帯方郡)から伊都国までは里表示、投馬国や邪馬台国へは日数表示という「不揃い」は、つまり情報のソースの違いなのだ。里表示は行き来した魏の使者の報告書や魚豢の「魏略」を下敷きに書くことが出来る。日数表示は伊都国に駐在していた張政の「調査」によって晋代に追加された情報だ。(続

2014-07-09 22:46:34
じねん @jinensai

承)この情報は張政以降(壹与の代以降)塞曹掾史の後任がいなかったので、甚だ確認不足の情報である。張政は役目上伊都国を離れられないから、実際の調査は自分の直属の部下あるいは現地採用の倭人が行ったものを取り纏めたことになる。後者の場合、倭人がどの方位にどの漢字を充てていたかだ。(続

2014-07-09 22:56:42
じねん @jinensai

承)また倭人の吏員による調査であれば「二倍年暦」を前提とするので「陸行一月」は新月から満月まで(あるいは満月から新月まで)の15日間となる。「水行十日」と合算した25日は後世の資料になるが大宰府から京都までの所要日数とほぼ一致する。(続

2014-07-09 23:04:16
じねん @jinensai

承)つまり倭人の国々の代表権者として首都で活躍していた女王・卑弥呼に関して、首都までの行程報告と女王の本貫地までの行程情報をつぎはぎしたのが魏志倭人伝の行程記事ということになる。これでは情報が錯綜するばかりで、誰も邪馬台国に行き着けないわけなのだ。(続

2014-07-09 23:13:26
じねん @jinensai

承)卑弥呼の初回の遣使人数が倭国王・帥升にはるかに見劣りするのも、古田史学による「戦中の使者(対公孫氏)」説よりも、九州倭国内のゴタゴタの挙げ句「椎名裁定」のような指名を受諾した近畿の倭人国家の王の基盤の弱さによるものではないか。だからこそリスクを冒して魏の庇護を求めたのだ。(続

2014-07-09 23:21:42
じねん @jinensai

承)結果的にこの策は成功し、卑弥呼は伝説の王となった。三角縁神獣鏡が、使者が持ち帰った鏡への憧憬から巨大レプリカとして作成され、副葬品の「定番」として列島に大プームを起こしたと考えれば、出土状況も腑に落ちるのではないか。(続

2014-07-09 23:29:24
じねん @jinensai

承)宗女・壹与とイメージの被る神功皇后も九州北部の入り口の香椎宮から先へ進めず、攻撃目標を新羅へ変更している。九州倭人国家内に基盤を持っていないがゆえであろう。この後、共立された九州倭人国家内の王が「倭の五王」へつながってゆく。秦韓・慕韓は規模的に吉備・近畿・越・上毛のどこかだ。

2014-07-09 23:41:53
じねん @jinensai

(ここからは「倭の五王」問題なので、また日を改めて思索します。)

2014-07-09 23:45:18
じねん @jinensai

さて、午前中補足のためgdgd邪馬台国関連思索してたら、「あっ!」ってなった。「伊都国」の位置が分かった(と思う)。従来の糸島半島の辺りではないが、距離も方位も合致している。我ながらビックリだ。(続

2014-07-13 13:42:33
じねん @jinensai

承)狗邪韓国→対馬(対海国)→壱岐(一大国)→唐津(末盧国)→糸島(伊都国)までは、従来説にほぼ異動はない。地形的にも妥当だし、考古学的な裏付けもとれている。一見磐石に思えるし、私も疑問すら抱かなかった。しかし、里数計算している時にふと方位に目がいった。末盧から伊都は東南だ。(続

2014-07-13 13:54:21
じねん @jinensai

承)しかも古田説による魏晋朝短里の根拠の一つである、谷川茂さんの「周牌算経」に基づいて一里=76~77m(便宜上76.5にした)で計算すると、唐津―糸島間は24.244km=約317里と、「魏志倭人伝」の「東南陸行五百里」より大分短い。本当に伊都国は糸島で良いのだろうか?(続

2014-07-13 14:04:00
じねん @jinensai

承)試しに唐津から東南に500里=38.25kmの地点はどこかGoogleマップで調べてみた。正に「来た、見た、勝った」だ。ズバリそのものがそこにはあった。一時の熱狂は去ってしまったが、まだ皆さんの記憶に新しい遺跡、魏志倭人伝の世界そのものともいえる「吉野ヶ里遺跡」…。(続

2014-07-13 14:10:09
じねん @jinensai

承)心の底からビックリした。方向は東南、2点間距離出せるサイトで唐津―吉野ヶ里間を測ると41.567km=543.36里とほぼ一致する。自らの研究姿勢を貫いていれば、古田武彦さんが第一発見者になるはずだったろう。私は「多元的古代」の概念を原理主義的に踏襲しているにすぎない。(続

2014-07-13 14:17:27
じねん @jinensai

承)私も含め邪馬台国関連の謎に挑む面々は、方位と距離には疑念があり「いい加減」だという先入観に囚われていたのかも知れない。しかし実際は驚くほど正確だったのではないか。(続 pic.twitter.com/z0cMFhzhhP

2014-07-13 14:25:53
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じねん @jinensai

承)「陸行」という文言にも、もっと注意すべきだった。糸島なら「水行」でも行ける。わざわざ「陸行」と断っているからには道筋に海も斜度の急でない川もないことを示す。前ツイートの地図を参照すれば「水行」は不可能なことは明らかだ。ピタリと当てはまる。これは腑に落ちるレベルだ。(続

2014-07-13 14:33:56
じねん @jinensai

承)試みに榎説式に放射線読方をすると「東南百里」の奴国は久留米市の久保遺跡(吉野ヶ里遺跡から8.496km=111里、擬朝鮮系無文土器出土)あたりが想定できるが、これは今後の課題。(続 pic.twitter.com/WtsvFmwU3I

2014-07-13 14:55:20
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じねん @jinensai

承)「東行百里」の不弥国は、みやき町の六ノ幡遺跡(吉野ヶ里遺跡から6.151km=80里、連弧文昭明鏡;前漢鏡・楔形書体出土)あたりが想定できる。国内六例しか出土してない連弧文昭明鏡は吉野ヶ里遺跡からも発掘されている。(続 pic.twitter.com/YMSEPRZPzk

2014-07-13 15:06:42
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じねん @jinensai

承)つまり連弧文昭明鏡が「銅鏡百枚」に対応するかもしれないが、裏付け不足です。「吉野ヶ里=伊都国」だとすると、ここに(帯方)郡使が駐在し「一大率」が置かれていたわけです。唐津、博多湾、筑後川下流(有明海)のどこへもすぐに出動できます(首都・邪馬壹国へは感覚的に1日行程ぐらいか)。

2014-07-13 15:22:56
じねん @jinensai

(とりあえず現状このくらいかな…。)

2014-07-13 15:24:26
じねん @jinensai

いわゆる「景初二年」問題考えてた。「戦中使者」として古田説の根幹をなすものの1つだが、文献的な反論は既に出ている。「景初二年六月」(卑弥呼の使者)では公孫氏滅亡(八月)以前なのだ。楽浪・帯方郡を魏が抑えるのは更にその後だから当然郡で「朝見」など不可能なのだ。(銭湯サウナで思索中)

2014-08-06 21:26:03