村上春樹、2004、「シドニー! コアラ純情編」 より「アトランタ」

1
m_um_u @m_um_u

以下、村上春樹、「シドニー!」コアラ純情編より。有森裕子の話

2010-02-24 14:16:42
m_um_u @m_um_u

めったに人を褒めない監督が、ひとつだけいつも褒めてくれることがある。「お前は脚が死んでもスピードが落ちないね。駄目になっても、どーんと駄目にはならない。それだけは誇りに思っていいよ」

2010-02-24 14:17:07
m_um_u @m_um_u

エゴロワに抜かれても、追いつけなくても、どうでもいいんだと思った。かまうものか。これは自分だけのことなんだ。自分と自分とのあいだのやりとりであり、出し入れなのだ。

2010-02-24 14:17:29
m_um_u @m_um_u

自分が死んでいるのが分かる。ますます死んで行くのが分かる。脚は自分の脚ではないみたいに感じられる。それでも私は走る。

2010-02-24 14:17:44
m_um_u @m_um_u

根性?いや、それは根性なんかじゃない。私は私自身のために走っているのだ。私が私自身をすすりながら走っているのだ。

2010-02-24 14:17:58
m_um_u @m_um_u

メダルのことは考えなかった。もちろんメダルはほしい。当たり前だ。オリンピックに来て、べつにメダルなんかいらないという人間がいたらお目にかかりたい。そして私が行きているのは、メダルをとって「いくら」の厳しい世界なのだ

2010-02-24 14:18:18
m_um_u @m_um_u

もしメダルをとって帰らなかったら、誰も私の言う事になんか耳を傾けはしない。結果を出して初めて、大きな声でものを言えるのだ。そして私には言いたいことがある。そのためにも メダルは 取らなくては ならない のだ。

2010-02-24 14:18:43
m_um_u @m_um_u

彼らに理解できるのは、かたちあるものだけだ。手に取れるものだけなのだ。

2010-02-24 14:18:53
m_um_u @m_um_u

しかし同時に、メダルなんかどうでもいいという気持ちは根強くあった。私は二度にわたってオリンピックというこの巨大で残酷な肉挽き機に放り込まれ、そのたびに自分の尊厳を賭けて走りぬいたのだ。

2010-02-24 14:19:12
m_um_u @m_um_u

貴重な達成だった。たかが一枚のメダルで測られてしまってたまるものか。

2010-02-24 14:19:22
m_um_u @m_um_u

それでもようやく坂の最後の部分が見えてくる。アトランタの42キロはあと少しで終わろうとしている。

2010-02-24 14:19:38
m_um_u @m_um_u

でも一方では、何ひとつ終わりはしない。彼女にはそれがわかっている。バルセロナのときにはわからなかった。だからその後の何年かのあいだ、ずいぶん苦しむことになった。

2010-02-24 14:19:57
m_um_u @m_um_u

でも今は分かる。これが終りではない。何か別のものの新たな始まりなのだ。ここでもそこでも私は勝ち、同時に負ける。その世界では誰もがおそろしく孤独なのだ。

2010-02-24 14:20:15
m_um_u @m_um_u

そして苦痛はいつもそこにあるだろう。まずまず苦しいか。あるいはひどく苦しいか。

2010-02-24 14:20:28
m_um_u @m_um_u

でも私は苦痛を恐れない。そんなものを恐れるわけにはいかない。

2010-02-24 14:20:41
m_um_u @m_um_u

私が自分を褒められることがあるとしたら、それは何かを恐れないことだった。オリンピックという巨大な渦の中に放り込まれて、しかも何も恐れなかった。

2010-02-24 14:21:00
m_um_u @m_um_u

いや、そうではない。正確に言えばこうだ。 私は 最後には 何も 恐れなかった。

2010-02-24 14:21:21
m_um_u @m_um_u

それに目を閉じることなく立ち向かい、勝ち、そして同時に敗れた。私は輝かしい夢を見て、同時にそこから覚めた。手強い敵たちと死力を尽くして闘い、同時に彼女たちを愛した。路上で静かに死に、同時にその死を隅々まで生きた。

2010-02-24 14:21:36
m_um_u @m_um_u

私は一人の29歳の女性としてここにいる。私自身の二本の脚で地上を蹴っている。最後の坂を上りきり、そして最後の坂を下る。 アトランタはやがて終わろうとしている。

2010-02-24 14:22:03