前田敦子はキリストを超えたか?

濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)をめぐる考察。なお、まとめ人はキリストではありません。
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次号「Ministry」の「ハタから見たキリスト教」には『前田敦子はキリストを超えた』著者であり、新生アイドルグループ「#PIP」プロデューサーでもある社会学者・濱野智史さんが登場! 「アイドルは偶像を超えた!?」と題して、6ページにわたりインタビューを掲載します!!乞うご期待。

2014-07-24 21:55:55
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)、ざっと読みましたがなんともはや。キリスト教メディアがわざわざ取り上げるほどのものなのか疑問。はっきり言って、キリスト教に直接触れている部分は比率としては非常に少ない。聖書からの引用はほぼ皆無。なぜか吉本隆明の文章を長々と引用。

2014-07-26 07:16:53
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

まず濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』(以下、「キリ超」と略す)は「本書はAKB48(以下、本初では「AKB」で統一する)を〈宗教〉とみなして考察するものである」(「はじめに」)という文章ではじまる。

2014-07-26 07:20:46
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

なるほどなるほどと思いながら読み進めていくと、すぐに「とはいえ筆者は宗教論の専門家ではもちろんない。残念ながら宗教学の成果を勉強する余裕もほとんど準備できないままに、この本を書きはじめている。しかしそれでもかまわない。」p. 23という文章に出会い、腰が抜ける。

2014-07-26 07:23:14
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

濱野智史氏は最近あった切り込み隊長とのツイッターでのやりとりでも「まだ勉強中」と開き直っていたと記憶する。いつになったら宗教(とりわけキリスト教)を勉強するつもりなんですかね。

2014-07-26 07:24:38
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

たしかに、AKBが「旬」な内に一席ぶちあげたい気持ちも分からなくはないが、それなら御自分の専門分野(情報社会論)の枠組みでもじゅうぶんできたはずで、わざわざ不慣れな知識を持ち出す必要はまったくなかったはずである。

2014-07-26 07:27:02
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

さて、新書タイトルともなっている「前田敦子はキリストを超えた」という命題についての内容は第一章「前田敦子はキリストを超えた」で説明されている。以下、適宜引用しながら要約していく。

2014-07-26 07:30:04
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

濱野智史氏によれば、あるAKBのドキュメンタリー映画(濱野氏に言わせれば「聖典の一つ」)に「前田敦子、いや――あえてこう呼ばせてほしい、あっちゃんがキリストを超えた瞬間が、収められている」そうだ。

2014-07-26 07:35:09
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「この映画には、徹底的に傷つく少女の姿が映し出される。それこそが前田敦子である。そして彼女はキリストを超えた。この映画には、まさに現代の「ゴルゴタの丘」が立ち現われている。」キリ超、p. 32

2014-07-26 07:36:38
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「『Show must go on』には、前田敦子がキリストを超えた瞬間が収められている。いや少なくとも控えめにいっても、現に生きるキリストのような自らを犠牲にした者が帯びる「利他性」と「超越性」が、あっちゃんには宿っている。」キリ超、p. 34

2014-07-26 07:38:56
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「それは具体的に、以下の二つの場面においてである。」キリ超、p. 34 ここで先回りして述べておくと、この文脈だと『Show must go on』に「二つの場面」が描かれてそうなものだが、実際には、二つ目は別のドキュメンタリー映画である。閑話休題。

2014-07-26 07:41:21
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「一つは、総選挙である。二〇一一年に行われた第三回選抜総選挙の場で、一位に返り咲いたあっちゃんが発したかの有名な言葉、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」。」キリ超、p. 34

2014-07-26 07:43:11
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「この言葉に充溢するあっちゃんの「利他性」こそが、前田敦子がキリストを超えたアルファにしてオメガのポイントである。」キリ超、pp. 35-36

2014-07-26 07:44:49
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「それはキリストがゴルゴタの丘で磔刑を受けているときに発したとされる言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」に匹敵する(いやもしかしたら超えるかもしれない)、自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉である。」キリ超、p. 36

2014-07-26 07:47:02

↓このツイートは僕の間違いでした。後で訂正を入れてます。

金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

この部分が、濱野智史『前田敦子はキリストを超えた』全体で引用されていると言っていいほぼ唯一の聖書箇所であるが、キリスト教徒の方なら、つっこみ入れ食い状態に沸き立つ所であろう。

2014-07-26 07:52:20
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

濱野智史氏は引用箇所を明示していないが、イエスのこの言葉はマタイ福音書とマルコ福音書に収録されている。ここではマタイ福音書該当箇所(27章46節)を引用してみよう。

2014-07-26 07:57:07
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。」(口語訳) 「イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」」(新共同訳) 「イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。」(新改訳第3版)

2014-07-26 08:01:40
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

ここで濱野智史氏の引用を振り返ってみよう。 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」キリ超、p. 36 どこが違うだろうか。そう、濱野氏は邦訳聖書が句点にしている所を中黒にしている。お分かりの通り、すでにあげた日本でポピュラーな聖書3冊は少なくとも、濱野氏のような表記はしていない。

2014-07-26 08:05:41
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

ここから何が言えるだろうか。最低限言える事は、濱野智史氏は日本でポピュラーな聖書から「直接」引用しているわけではない、ということだ。邦訳聖書のすべてを調査したわけではないので、中には「中黒」を使っているものもあるかも知れないので、濱野氏が他の聖書から引用した可能性は否定できない。

2014-07-26 08:08:48
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

しかし、少なくとも日頃から聖書に親しんでいる人間ならありえない引き方であることは間違いない。まるで、なにか二次文献三次文献でたまたま目にし耳にしたものを記憶をたよりに書きつけたようである。「前田敦子はキリストを超えた」という重要命題を解説する場面としては、いささか不用意である。

2014-07-26 08:10:33
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

しかし、中黒問題はたいしたことではない。何より不可解なのは、「自らを犠牲にする者の利他性に満ちた言葉」キリ超、p. 36として、なぜわざわざこの言葉を選んだのかということだ。十字架上で述べられたから、というのは確かであろう。

2014-07-26 08:13:53
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

しかし、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という言葉は、少なくともそれが直接意味するものとしては「利他性」を表しているというよりも「利己性」を表しているというのが素直な解釈だろう。

2014-07-26 08:16:03
金田一輝(俳詩人) @kanedaitsuki

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の深い意味は、それこそ聖書をよく読みキリスト教の教義を理解してこそわかるもので、詳しい解説が必要な言葉の一つと言える。だが、濱野智史氏は、キリスト教に不慣れな読者に対して必要な解説を一切していない。ここで普通の読者なら面食らうはずだが。

2014-07-26 08:18:48
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