医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別
- hijijikiki
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●spitzibara氏のブログ【Ashley事件から生命倫理を考える】:
★「OR州のメディケイドとPASの関係について、癌専門医の投書2013/4/30(火) 午前 8:16」
『PAS(医師による自殺幇助)が合法化されているオレゴン州で癌患者にメディケイドから「抗がん剤治療はダメだけどPASはOK」という通知が届く事態となっているという情報は以下のエントリーで拾っています。……』
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66312569.html
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● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り(spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。
⇒ ①~⑤の5つの部分に分割し、間に参照したURLの記事などを表示しました。:
①
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■■■■■■■ (最初の3つのコメント投稿は、まとめに加入しませんでした) ■■■■■■■
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spitzibara氏の投稿:
まったく、おっしゃる通りで医療というものが癌治療に限らず、本来そういうもののはずですよね。最近どこかのエントリーへのコメントのやり取りで書いているんですけど、医学はモザイク画の全体を読み説く学問であるとしても、医療はモザイクの一片と向かい合う仕事のはずだ、というのがそういうことだろう、と。尊厳死、平穏死もそれと同じく、一括して「延命は無駄」と言えるようなものではなく、個々のケースによってなにが延命で何が延命ではない治療かが違ってくるはずなのに、ということを思います。
近藤医師が書かれたものは最初の本に続いて何冊か読みました。その頃に、友人の医師と話した折りに近藤医師の持論に触れたら、彼が読んでもいないのに即座に「あれ、放射線医師だろ?」と吐き捨てるように一言で切り捨てたのが、とても印象的でした。
2013/5/1(水) 午後 7:50 [ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
こんばんは、@hijijikikiです。
近藤誠医師の「がんと闘うな」にはほぼ賛成で、
彼がEBM(根拠に基づいた医療:evidence-based medicine:これも凄い言葉ですね。フツーの医療は根拠に基づいていないってこと?(爆笑:笑えない))
に沿って、ダブルブラインド(二重盲検)試験の結果、抗癌剤が効かない(○年生存率に有意差なし)とのデータから発言していたと思います。
しかし、丸山ワクチン(SSM)については確か否定的でした。
私は、もし自分がガンになったら、丸山ワクチンのみにしようと思っています。
それは、私の母と妹が、丸山ワクチンを始めてから、風邪を引かず健康になったこと。
母は、乳癌の手術後に丸山ワクチンを始めたのだが、再発・転移しても元気で、その後40年以上健康に過ごしました。
その後、再度の乳癌の転移で亡くなりました
(丸山ワクチンを止めてずいぶん経過した後:一日おきの注射はとても面倒だったからだろう)。
再転移後は抗癌剤や放射線療法などは一切受けなかったせいか、末期癌でも亡くなるまで痛みなどを訴えることなかったです。
2013/5/2(木) 午前 2:14 [ @hijijikiki ]
『「あれ、放射線医師だろ?」と吐き捨てるように』>ここを読んで、
昔仕事で共同研究していた東大脳外科の医局の医者が、丸山ワクチンの話になったら、
「あんなのは水だ!」と、
それまで穏やかに話していたのが、急に血相を変えて叫んだのを聞いて、
「こんなに過剰反応をするのは、本当は効くことを知っているのかもしれない」
と思ったのを思い出しました。
精神科医の中井久夫氏が「臨床瑣談」で、丸山ワクチンを義姉や自分の患者に使用した経験から、丸山ワクチンの評価や具体的な入手方法(未認可薬のため)などを述べていて、さすが中井氏、と思いました。お奨めです。
この本にも確か「水みたい」であること、それが良いのでは、とあったと思います。
2013/5/2(木) 午前 2:16 [ @hijijikiki ]
「水みたい」というのは、抗癌剤の殆どは、強い毒性を持ち、ガンを殺す(一緒に正常細胞も殺す副作用がある)のに対して、
丸山ワクチンは、結核菌の抽出物(皮膚結核のワクチン)で、毒性は殆どなく、免疫系に働きかけて、免疫のはたらきを良くする、ということです(公式HP:http://vaccine.nms.ac.jp/medical/index01.htmlにあります)。
丸山ワクチンは、抗癌剤として認可を受けてない治験薬ですが、35万人以上が使用したということです。
というようなことから、私自身は(周囲にも勧めてますが)丸山ワクチンが良いと思っています。
ガンと闘いたくない・共存したい人、手術や抗癌剤の副作用に対する疑問を持ち、使用したくない人には、良い選択肢だと思います。
2013/5/2(木) 午前 2:18 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。丸山ワクチンについては、まったく知らないので、ほ~、そうなんだ~と読ませてもらいつつ、なぜともなく福岡伸一さんの動的平衡説だったかを思い起こしました。科学とテクノロジーの簡単解決には、すべからくそういう「大きな節理」との齟齬みたいなものが付きまとっている感じがします。
そう、そう「過剰反応」、私も凄く思います。ワクチンへの疑問に対する反応もそうだし、医療が批判されることをパーソナルに受け止めて「過剰反応」される医療関係の方は多いですね。つまりは権威(だとその人が信じているもの)の問題なんだな、とそういうことに触れるたびに思います。
2013/5/2(木) 午前 8:03 [ spi*zi*ar* ]
hijijikikiさん、『信頼の条件 原発事故をめぐることば』(岩波科学ライブラリー 景浦峡)http://www.amazon.co.jp/信頼の条件――原発事故をめぐることば-岩波科学ライブラリー-影浦-峡/dp/4000296078という本を読んだところなんですけど、ちょうど、その本で、その「権威(だとその人が信じているもの)の問題なんだなと私が感じてきたことが、いかに「科学的でない態度」であるかということを論理的に検証されていて、すっごく面白かったです。検証されているのは原発事故をめぐる「専門家」の発言なんですけど、HPVワクチンを巡る「専門家」の発言にことごとく当てはまるし、A事件での「生命倫理学者」の発言にも当てはまるし、当ブログに「じゃぁオマエのいう科学とは何なんだ? 説明してみろ」と、いつぞやねじ込んでこられた「専門家」の発言にもそっくり当てはまるし。
2013/5/2(木) 午前 8:10 [ spi*zi*ar* ]
で、景浦氏が指弾しているのは、まさに以下のような社会なんだ、と。
「不安を持ち不信感を抱くことが、冷静さの欠如ではなく、むしろ冷静かつ合理的な判断の感情レベルでの一つの現れであるときに、冷静さを偽装しつつ実際には思考停止した人々が自ら科学的であると称して声高に発言する社会」(p.86)
で、景浦氏が必要だと主張しているのは、
「専門家が科学的態度を取り戻し科学的態度をもって行動すること」(p.86-87)
2013/5/2(木) 午前 8:14 [ spi*zi*ar* ]
hijijikikiさん、ついでに――。近藤医師が指摘していた、がん検診のリスクですけど、ここ数年、英語圏のニュースでは各種がん検診について放射線被ばくと誤診リスクの方が検診の利益を上回っているという調査結果が相次いで報じられていて、そういうのをよく見るなぁ、と感じ始めた頃に近藤医師すごいなって思ったんですけど、でも予想通り、英語ニュースにはゴロゴロしているそういう情報、日本ではあまり表面化してこないですよね。最近ぽつぽつ見かけるようになりましたけど。
2013/5/2(木) 午前 9:12 [ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
返信ありがとうございます。
『医療が批判‥「過剰反応」される医療関係の方‥権威(だとその人が信じているもの)の問題』>はい。まさしく権威や信念や威信の問題かと。場合によっては信仰に近いのではと思うことも。
これは医療関係者が医療を批判される場合のみならず、安倍政権のような右派が自国を批判されると過剰反応したり、「強い指導者」を求める=服従する権威を求めるのも同様かと。
このように、権威や信念や「強さ」を求める故に過剰反応するのは、「承認」を過剰に求めることに関係しているように見えます。少なくとも現在の自分(と他人・社会との関係)に満足・充足していて、他人からの「承認」を過剰に必要としていなければ、過剰反応や権威への過度の服従などは生じないのでは、と思います(ちょっと話題からずれました)。
各分野の「専門家」の発言が、いかに「科学的でない態度」であるかについて、同感です。
「冷静さを偽装しつつ実際には思考停止した人々が自ら科学的であると称して声高に発言する」>これは、「エリートパニック」という言葉とある部分が共通しているかと。
2013/5/3(金) 午前 2:10[ @hijijikiki ]
エリートパニックとは、「エリートは人々がパニックになるのではないかと恐れるがあまりパニックになる」ことで、
「エリートは社会的秩序の崩壊と、自分たちの正当性に対する挑戦をを恐れる」(P206)からだと(「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」レベッカ・ソルニット著:kousyoublogから引用http://kousyoublog.jp/?eid=2573 ←検索で出ます)。
「災害ユートピア」はちょっと読んで積読状態です(笑)。
「不安を持ち不信感を抱くことが、冷静さの欠如ではなく、むしろ冷静かつ合理的な判断」>これも、原発事故時の政府・マスコミ発表への不信や不安が正しかったことなど、冷静で正常かつ正当な場合も多いと思います。
それに対して、権力者やその意を受けた「専門家」(御用学者)が、思考停止したり、エリートパニックを起こして「問題はないので冷静に行動してください」と言ったり、混乱やパニックを恐れて情報を隠蔽したり(例えば、原発事故時に放射能拡散予報のSPEEDIのデータを公表しなかった)したことが、311以降明らかになりました。
2013/5/3(金) 午前 2:12[ @hijijikiki ]
そして、
「不安を持ち不信感を抱くことが、冷静さの欠如ではなく、むしろ冷静かつ合理的な判断」という指摘は、以下の点でとても重要だと思います。
災害時や緊急時に、なかなかこのような適切な対応ができず、この反対の対応である
「正常性バイアス」=『何らかの被害が予想される状況下にあっても、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」などと過小評価したりしてしまう人の心の特性』(wikiの「認知バイアス」から)
に基づく行動をとりがちだといわれています(ちょっとした異変に一々パニックを起こしていては、日常生活に支障があるので、正常バイアスは、ある意味当然の対応かと思われます)。
2013/5/3(金) 午前 2:13[ @hijijikiki ]
『景浦氏が必要だと主張‥「専門家が科学的態度を取り戻し科学的態度をもって行動すること」』>いやー、同感ですが、こういう専門家が少ないこと、その原因がそもそも問題かと。
拙まとめ『正当性を印象づけること&正当性の根拠を問うこと、について:「御用学者」の場合、早川由紀夫氏の場合』http://togetter.com/li/262022で、そのための対策を以下のように述べました:
『 「何が妥当で適切か」の判断は、人によっても見解が分かれるし、難しい問題です。しかし、政官財マスコミの流す推進派寄りの言説に対して、反対している側の主張を聞き、両者を突き合わせて討論させることは可能なはずです。大手マスコミも形の上では討論番組をやってますが、出演者や論点の提示、議論の進め方などで推進派寄りの偏りを感じます。それに対して、フリージャーナリスト、前述の岩上氏など自由報道協会などに属する人たちが主にネット上で、大手マスコミではできないような種々の主張や情報を提示し、自由に記事を発表しています。
これらのフリージャーナリストと大手マスコミの記事を比較することで、いろいろと見えてくるものがあると思います 』
ご参考まで。
2013/5/3(金) 午前 2:15[ @hijijikiki ]
『ここ数年、英語圏のニュースでは各種がん検診について放射線被ばくと誤診リスクの方が検診の利益を上回っているという調査結果が相次いで報じられ』>はい。
検索してみると、LNTモデル(直線しきい値なしモデル=低い線量の被曝についても、線量とがんや白血病などの発生確率は比例すると考える:wiki「低線量被曝問題」から)に沿った観点から調査して、LNTモデルを裏付ける結果が出ているようです。
LNTモデルは、推進派の国際機関のICRPが認めているモデルで、ICRPの基準を日本の政府は認めていると自称していると思いますが、山下俊一氏ら「御用学者」はこのモデルすらちゃんと認めようとしていません。
....というような情報も、上述のフリージャーナリストなどからのネット情報から入手したものです。
これまで一部の専門家だけのものだったこれらの情報が、ネットの普及で多くの人に広まり、共有されたのは、一つの希望だと思います。
2013/5/3(金) 午前 2:16[ @hijijikiki ]
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丸山ワクチン公式HP:
http://vaccine.nms.ac.jp/medical/index01.html
『信頼の条件 原発事故をめぐることば』(岩波科学ライブラリー 景浦峡)
http://www.amazon.co.jp/信頼の条件――原発事故をめぐることば-岩波科学ライブラリー-影浦-峡/dp/4000296078
「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」レベッカ・ソルニット著:
http://kousyoublog.jp/?eid=2573
『正当性を印象づけること&正当性の根拠を問うこと、について:「御用学者」の場合、早川由紀夫氏の場合』
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、こんばんは。「過剰反応するのは、「承認」を過剰に求めることに関係しているように見えます。少なくとも現在の自分(と他人・社会との関係)に満足・充足していて、他人からの「承認」を過剰に必要としていなければ、過剰反応や権威への過度の服従などは生じないのでは」の個所、私も全く同感です。そういう意味で、何度かあちこちのエントリーに書いた「世の中がどんどん虐待的な親のような場所になっていく」という感じが強くなっているところなんです。
虐待的な親というのは、親自身の人格が未成熟・脆弱なあまり子どもに親の承認欲求が向けられ、親が子どもに依存し、依存の一つの形として子どもを支配コントロールしないでいられないわけですよね。エリートが大衆への責任を引き受けるのではなく、逆に大衆に自分の未成熟な自我の欲求を満たすことを求めてしまっている。今の日本の政治家はみんなそんな感じがします。エリートパニックが簡単に起こってしまうのも、そういうことですよね。
2013/5/3(金) 午後 10:17[ spi*zi*ar* ]
こういうことを考える時に最近いつも思うんですけど、このブログにいただく専門家の方からのコメントって、タイプが真っ二つなんですね。過不足のない情報を提供して、素人の知識不足を的確に補ってくださるコメント。余分なものの混じらない、本当に気持ちの良いご教示をくださる方々です。さらっと来て、さらっと教えてくださる。本物の専門家だなぁ、って感じ入ります。こちらの方々は、素人の私から承認されるニーズなどお持ちではない。考えてみれば当たり前のことですよね。あちら専門家、こちら素人なんですから。
ところが、あーだこーだと粘着して絡んでこられる専門家もある。いろんなことを言われますけど、結局のところ行間で繰り返し言っておられることは「医療職/学者/海外在住でもないくせにオマエなんかに何が分かるか」。そう思われるなら「無知な素人が勝手なこと言ってら」と相手しなければいいだけなのに、もともと素人がやっていると分かっているブログに自分からやってきておいて、そういう絡み方をせずにいられなくなる「専門家」って、なんなんだろう、と。
2013/5/3(金) 午後 11:39[ spi*zi*ar* ]
また、こちらのタイプの専門家はだいたい、所属先や地位の権威にとてもこだわるタイプの方のようでもあって、hijijikikiさんが書いておられるように、私も原発事故の後、(詳しく知っているわけではないですが)フリージャーナリストの方々のお仕事には敬服していて、その辺りのことが実は繋がっているんじゃないかと、『信頼の条件』を読みながら考えていました。本当の専門性とか真に科学的な態度というのは、権威にすがらずに自分の信念で立てる、人としての本当の意味での強さがなければ持てないものなのかも、といったようなことを。だから、もちろん権威ある大学でそれなりの地位についておられる方の中にも、そういう方はあるわけで。『信頼の条件』を書かれたこともそうなのですが、原発事故の直後に東大がHPに出した環境放射線情報に対して、総長に修正を要請された有志の教員の方々があったとのこと。胸が熱くなる本でした。
2013/5/3(金) 午後 11:39[ spi*zi*ar* ]
でも、ほんと、ここ数年、hijjikikiさんもそうなんですけど、素人だとか専門家だとかいう区別と関係なく、それぞれ自分がいる場所で、まっすぐにものを見据えていこうとしておられる方々と知り合えて、そのことで、もう挫折してしまいそうなところでギリギリ踏みとどまっていられる力をもらえているような、せめてもの希望のように思えています。
そういえば『災害ユートピア』は、カトリーナの安楽死事件に触れた個所があると聞いて、すぐに買ったのですが、最後まで読み通せず途中でギブアップしたままです。再チャレンジしても、私にはたぶん無理そうかなぁ……。
2013/5/3(金) 午後 11:40[ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
こんばんは。
「専門家の方からのコメントって、タイプが真っ二つ」>確かに、ツイッターやネット上で積極的に発言やコメントする「専門家」は、そんな感じがします。
「過不足のない情報を提供‥的確に補ってくださるコメント」>はい。このタイプの方がネット上で活躍されているのに接して、「ネットやツイッターやっててよかった」と思う原因の一つです。
ご指摘の『「東京大学環境放射線情報」を問う東大教員有志』https://sites.google.com/site/utokyoradiation/の方々には、影浦峡氏をはじめ、私がツイッターでしばしば参照している、島薗進氏、押川正毅氏などが。
特に宗教学者の島薗進氏は、原発事故や内部被曝について、推進派を批判する発言を活発にされており、
拙まとめ 『内部被曝について:島薗進氏 @Shimazono の児玉龍彦氏発言・論文へのコメント・やり取りなど』http://togetter.com/li/196554などで取り上げてます。
2013/5/5(日) 午前 2:50[ @hijijikiki ]
このまとめの児玉龍彦氏は医師で東京大学アイソトープ総合センターセンター長という放射線被曝についての本当の意味での専門家であり、国内で影響力のある、この分野の権威でしょう。
事故後の国会証言で、国の対策が全くダメであると批判し、測定や対策の抜本的見直しを強く訴えていました。
このような情報や、更に児玉発言を巡るやり取りや評価、反響などは、ネットがなければ、一過性の部分的なもので終わってしまったと思います。
しかし、ネット上でのやり取りやインタビューやまとめなどで、国際的な原子力推進機関のIAEAやICRPの政策や、国内の原発推進政策との関係など多くのことが明らかになってきました。
このように、「学者・専門家も捨てたもんじゃない」と思えるような方がいる一方、
他方で、ご指摘のように「あーだこーだと粘着して絡んでこられる専門家も」いるんですよね。
前にご紹介した拙まとめ『正当性を印象づけること&正当性の根拠を問うこと、について:「御用学者」の場合、早川由紀夫氏の場合』http://togetter.com/li/262022
の早川由紀夫氏は、「真っ二つ」のタイプの両方、両面あって、一筋縄ではゆかないような。
2013/5/5(日) 午前 2:51[ @hijijikiki ]
早川氏は火山学者で、原発事故後に放射能汚染地図を独自に作成して公開しています。
これは、「早川マップ」http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-535.html(←これで検索すると出ます)として有名(少なくとも界隈では)で、私も早川マップについては高く評価しています。
しかし、早川氏の「福島の農民は死ね」的な発言などは、注意喚起のために極端なことを言うことを割り引いても、一番の加害者の東電や政府の責任を問わずに、同じく被害者である農民を特別に敵視して叩いていており、この過剰とも言える敵対視は、被害者を分断し、加害者の東電や政府への賠償請求の動きを阻害する恐れを感じました。
この辺の早川氏の意図やいきさつなどを岩上氏がインタビューしており、かなり突っ込んだ質問をしていて多くのことが明らかにされています。
協力的でない関係や、敵対的な関係にある場合に、ツイッターでのやり取りでは、断片的で質疑の内容や妥当性が不明になりがちです。この岩上インタビューは、岩上氏の手腕もあり、インタビューならではの情報が得られていると思います(上記拙まとめに抜粋を収録)。
2013/5/5(日) 午前 2:55[ @hijijikiki ]
「世の中がどんどん虐待的な親のような場所になっていく」「親が子どもに依存し、依存の一つの形として子どもを支配コントロール」>はい。
この辺は、安倍自民党をはじめとする最近の右傾化した政治家や「知識人」などが、一般大衆に迎合的なこと、受けの良いことを言う一方で、自分を権威として服従や賞賛=「承認」を求めることですね。
これは前述の早川氏の言動も、近いものがあります。
「エリートが大衆への責任を引き受けるのではなく」>そう思います。多くの官僚や政治家や御用学者などが、責任という言葉を使わないか、自分に都合の良いように使うことがとても多い。
ご引用の影浦氏の:「専門家が科学的態度を取り戻し科学的態度をもって行動すること」
というのも、社会的責任ということを言っているのでは、と思います。
どうしたら、エリートや専門家や科学者の社会的責任を明確にできるか、が問題かと。
2013/5/5(日) 午前 2:56[ @hijijikiki ]
ただ、「責任」という言葉は悪用されやすいと思うのです。
責任が絡む行動について、考えていることを以下に述べます。
「権威や権力に取らされる責任や行動」と、「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」とに分けて考えてみます。
この2つの責任や行動の違いはとても見えにくいし区別が付きにくいが、決定的な違いがあると思います。
大ざっぱに言えば前者は自由を束縛された状態であり、後者は自由な状態。
しかし、両者は区別できない場合もあり、連続的な場合もあります。
例えば、「時間を守る」ということについて。
定時に出勤することや遅刻しないことは、前者の「権威や権力に取らされる責任や行動」であるが、同時に職場での職務や責任を果たすために必要な行動であり、後者でもある。
しかし、定時に出勤することで無理をして、体を壊してしまったら、これは後者の「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」としては過剰では。
過剰適応という言葉が適切かもしれません。
2013/5/5(日) 午前 2:58[ @hijijikiki ]
この場合に、自分の状況を相手に説明して、交渉して問題を解決できればよいのですが、そのような対等な交渉ができる人はとても少ないでしょう
(権威や権力が強い立場を表すことからもとても難しいことです)。
これには労働者の保護や権利の擁護の問題や、不当な条件を拒否する余裕や自由の問題が絡むと思います。
話を戻します。
「責任感がある」ということが良い価値として認められているのは、後者の「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」という意味が多くの人に納得のできるものだからでしょう。
しかし、それを悪用して、権力者が自分に都合の良いように人を使うための手段にすることも可能であり、
例えば、教育課程審議会会長の三浦朱門氏が「エリート以外は実直な精神を養って欲しい」と言ったのも、後者のような見せかけで前者の「権威や権力に取らされる責任や行動」を取れ、ということでしょう。
2013/5/5(日) 午前 2:59[ @hijijikiki ]
私は、「定時に出勤すること」で体を壊すまでには至りませんでしたが、心身共に負担が大きく、「早くこの生活から足を洗いたい」と思っていて、十数年前にやっとオリることができました。
この場合には「他人からの呼びかけ」の「他人」には、「権威や権力に従っている(過剰)適応している私」以外の私、もう一つの私の側面が当てはまると思います。
ここにも自由の問題があるでしょう。
まとまりませんが、長くなったのでこの辺で。
2013/5/5(日) 午前 3:01[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、こんばんは。いろいろありがとうございます。児玉氏と早川氏についてはhijijikikiさんのツイッターなどで大まかなことだけは把握していて、島薗先生のツイッターも最近時々覗かせてもらっているのですが、改めて解説いただくと、なるほど~です。なるほど『信頼の条件』の最後に、『「東京大学環境放射線情報」を巡って』という文章を書いておられる押川氏というのは、私は初めてお名前を見る方だったんですけど、なるほど、そういう方だったんですね。
責任についてhijijikikiさんが書いておられることも、大変興味深いです。世の中が虐待的な親のような場所になっていくにつれて、大衆の方はむしろ迎合的になって、自分に求められているものを先読みしては被虐待児のように過剰適応するようになる……。尊厳死議論で慎重派に向かって「国にはそんなカネはないんだよっ」と反駁する一般人を見るたびに、そのことを思い、ほんと、救いがない感じがします。
2013/5/5(日) 午後 10:10[ spi*zi*ar* ]
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『「東京大学環境放射線情報」を問う東大教員有志』
https://sites.google.com/site/utokyoradiation/
『内部被曝について:島薗進氏 @Shimazono の児玉龍彦氏発言・論文へのコメント・やり取りなど』
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@hijijikikiの投稿:
「大衆の方はむしろ迎合的になって、自分に求められているものを先読みしては被虐待児のように過剰適応」>どうしてこうなってしまったのか?について。
ご指摘のような、権威や権力に迎合したり、それと同一化を図ったり、その意向を読みとって過剰適応する面に加えて、
嗜癖・アディクション・中毒への傾倒という面もあるという気がします。
ご紹介の虐待的な親が「親が子どもに依存し、依存の一つの形として子どもを支配コントロール」する例としては、アダルトチルドレンがあります。
ご存じかと思いますが、アダルトチルドレンは元々
「Adult Children of Alcoholics(アルコール依存症の親の元で育ち、成人した人々)」
から来ており、親の依存に答えて「オトナの役割を担わされた子ども」=アダルトチルドレンという意味だと思います。
この場合、嗜癖・アディクション・中毒が「機能不全の家族」の重要な構成要因になっていると思われます。
アルコールに対する嗜癖・中毒だけでなく、嗜癖・中毒の対象は、仕事や食べ物や趣味などいろいろあり、またそれらへの嗜癖・中毒の程度も様々なのでは。
2013/5/7(火) 午前 2:06[ @hijijikiki ]
何かに過度に熱中すること、嗜癖やアディクションや中毒は、権威や権力への傾倒や同一化を図ることと、似ている・共通するところがあるような気がします。
そして、先日の国民栄誉賞の騒ぎは、長島と松井への凄い人気(これもマスコミが煽って拡大した一種のアディクション的な熱狂の気がします)を利用する安倍自民党の下心が見え見えの演出に思えます。
権威や権力が虐待的な締め付けだけでは民意を掌握できないため、熱狂的人気のあるスターを利用しようとする(松井・長島だけでなく、人気グループのももクロやエグザイルなども!代理店使っているのか?)のでしょう。
60年安保のとき、反安保デモ隊が連日国会を包囲しても、首相だった岸信介は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通り」と言ったと。
人々の関心を逸らす方策にスポーツや芸能への熱狂やアディクションが使われるのはよくあるようです
(中南米の国々では、サッカーへの熱狂やアディクションはとても強烈といわれているが、それらの国々の多くは独裁政権から民主化政権に移行したわけだが、、、我彼の違いはどこに?)。
2013/5/7(火) 午前 2:08[ @hijijikiki ]
それから、前述した"責任や行動"について。
「権威や権力に取らされる責任や行動」と、
「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」
についての補足です。
「大衆への責任を引き受けるエリート」としてご紹介されている影浦峡氏をはじめ、
島薗進氏、押川正毅氏などは、エリートであっても、
「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」を取る側の人たちの例だと思います。
他方で、御用学者と呼ばれる、政府や産業界の事業の推進側にいて、政府や産業界の意を受けている多数派のエリートたちは「権威や権力に取らされる責任や行動」を取る人たちの例だと思います。
両方の例共に、エリートだけとは限らず、フツーの人、一般大衆も、多かれ少なかれいずれかの側にいるのでは(両方の側にいる場合も、早川氏の例のように、少なくないのでは)。
2013/5/7(火) 午前 2:10[ @hijijikiki ]
英語の責任、responsibilityは言葉の構成から、応答可能性という意味からきているようですが、
この「応答」という言葉で思い出す印象的な例は、作家で水俣病の患者支援運動で有名な石牟礼道子さんの話しです。
代表作の「苦海浄土」などの水俣病をテーマにした作品を書く前は、専業主婦で、水俣病についてよく知らなかった。
病院に行ったときに、たまたま見た水俣病の患者さんのことがどうしても頭から離れなくなって、苦しくて仕方がないから作品を書いた。という話をインタビューでされていました。
「応答」「応答責任」というのは、この例のように直接相手から問われたり話しかけられたりしていなくても、自分からどうしても応答したくなって応答してしまうことも含むのかと。
石牟礼さんの様な人は希有な例だと思いますが、先述の影浦氏をはじめとした専門家や、専門家以外でも多くの人が「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」を取っている、または取ろうとする潜在性が多かれ少なかれあるのだと思います。
これをどうやって増やしてゆくかが、世の中が良くなるか否かの分かれ目のように思え
2013/5/7(火) 午前 2:11[ @hijijikiki ]
(最後が切れたので、その部分を投稿します。)
これをどうやって増やしてゆくかが、世の中が良くなるか否かの分かれ目のように思えます。
2013/5/7(火) 午前 2:14[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。私は自分をACの一人だと考えているので、というか自分をACの一人と位置付けることによって自分自身の問題と対峙するすべを見いだしたので、「世の中が虐待的な親のような場所になっていく、それにつれて一般大衆が被虐待児のように自ら求められているものを読み過剰適用していく」という捉え方もはそうした連想から来ているものなのですが、アディクションの問題からの「適用」というところで考えていたので、そこへ「回帰」する可能性という面については、ちょっと新鮮なご指摘で、これから考えてみたいと思います。
国民栄誉賞もテレビの番組が世界で活躍する日本人にフォーカスしまくるのも、おっしゃる通り、日本国民の団結への掲揚を露骨に感じますね。
2013/5/7(火) 午前 8:42[ spi*zi*ar* ]
「苦界浄土」は読まなければと思いながら、まだ果たせていませんが、そういう経緯で書かれたものだったんですか。知りませんでした。「他者からの呼び掛けに応答する」ということと、同時に「他者からの呼び掛けによって、自分からの内なる呼びかけに気付く」とでもいった精神の作用のようなものもあるのかも……みたいなことを、いただいたコメントから考え始めました。
でも、そのためには、自分の中に、他者からの呼び掛けに応じて喚起される「声」や、その声が起こってくる元のところの「物語」がしっかりと出来ていなければならないのかもしれないですね。今朝ワイドショーで聞いた、村上春樹の講演の断片に影響されて、そんなことを考えています。そして、今は自分の中にそれぞれの物語を豊かに醸成できにくいような、させないような、させるとしても頑なで硬直した現実否認の物語しか持ち得ないような、社会になっているようでもあり。これもまた虐待的な親と被虐待児のような反応ということになるのですが、平板で皮相的な美しい物語に簡単に説得されてしまう人たちが多いことにも、そういうことが影響しているような気もします。
2013/5/7(火) 午前 8:43[ spi*zi*ar* ]
hijijikikiさんは常に、どうしたら世の中を少しでもよい方向に向けて行けるか、ということを考えておられて、本当に敬服です。
今の世の中が向かって行く方向に危機感を抱いてものを考えたり発言している人は決して少なくないと思えることが、一つの救いですね。それぞれの声は小さくても、声を上げることで、何かが変わっていくものなら。本当に祈るような思いで、そう念じます。
2013/5/7(火) 午前 8:46[ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
「自分をACの一人と位置付けることによって自分自身の問題と対峙するすべを見いだした」>そうだったんですか。私自身も、自分と育った家族・家庭、特に母親との関係は、別の家族・家庭を持つようになってからも影響し続けていると感じています。
AC(アダルトチルドレン)があれだけ話題になり、あれだけバッシングされたのは、この"アダルトチルドレン"という形の問題提起・認識・把握(と私は考えてます)が核心に迫る、触れたいけど触れることが忌避される、愛憎絡むところがあったからだと思います。
AC(アダルトチルドレン)についての論文や議論やバッシングを含む"現代史"を立岩真也氏が「みすず」に連載していて、
「2011年(→2012年)にみすず書房より『身体の現代・1』(仮題)として刊行される予定」http://www.arsvi.com/ts/20080061.htm、http://www.arsvi.com/ts/2010b4.htmと立岩さんのHPにありましたが、早く出版して欲しいと思ってます。
2013/5/8(水) 午前 2:08[ @hijijikiki ]
立岩さんの連載にも引用されてたと思う、香山リカ『インターネット・マザー』http://www.arsvi.com/b1990/9905kr.htm(←の題名で以下の引用がarsviにあります)についての
ニキリンコ氏の『障害学の主張』に掲載の論文が、直接ACについてではないにせよ、とても興味深いです。
『‥香山では、実際には自閉とは思えないにもかかわらず「自分は自閉症だと思う」という自己診断を語る人々を取り上げており、その特徴は「自己愛的な特権意識」や「ボーダーラインの人たちが示しがちな不安定さ」「自閉症と言う特別な存在になって、人に注目してもらいたいという願望」だと分析‥‥
人はそこに「生理的に『鼻持ちならなさ』をかんじとってしま」う、「彼らの自己中心性にはこちらの陰性感情を掻き立てる何かがある」と記している』
この後で、ニキ氏は香山氏が当事者のことを的確に言っている例も挙げている。
この香山氏に見られるような、(本人も気が付いているような)"陰性感情"を感じ、愛憎が絡んだような過剰反応してしまうことにAC問題の特徴があるように思います。
2013/5/8(水) 午前 2:10[ @hijijikiki ]
『 「他者からの呼び掛けに応答する」ということと、同時に「他者からの呼び掛けによって、自分からの内なる呼びかけに気付く」 』>はい。この辺は関連がありそうです。
というよりも、言葉で分けることが難しい、名付けてしまうと違うものになってしまうような気もします。
多分、他人からの呼びかけも自分の中の呼びかけや声も、自分と他人(や社会)との相互の関係から同時に発生する/または発生していたものが、あるきっかけで形・声となったのではないかと(統合失調症の幻聴。これも自分の中の声でもあるし、対人的な関係から出てきた声でもあることと似ているかと)。
上記の引用にもあり、よく言われるように、ACも一つの物語であり、表現の方法は色々で、状況や自分自身の変化によって変わってゆくものだと思います。
2013/5/8(水) 午前 2:13[ @hijijikiki ]
前にも書いたかもしれませんが、
AC(アダルトチルドレン)は、大ざっぱに言うと、「何だかわからない自分の苦しい状態に、とりあえず名前を付けること」の一つの形態・やり方であり、その内容の当否や妥当性の問題もありますが、それよりも、どんな形であれ「名前を付けた」こと、自分の抱える漠然としたものを問題にできる・思考の対象にできるようになったことや、他人とのやり取りの話題・議題・論題にすることができるようになったこと、が最も重要なことではないでしょうか。
アダルトチルドレンがあれほど話題になり、バッシングされたのは、上記の香山氏の言う"陰性感情"をかき立てること、「自分のあり方を親のせいにする」、「親を悪く言う」などからだと思います。
これは世間的な主流の、すなわち権威や権力的立場の基準・規範から外れた物言いであり、「自分を棚に上げて、親に責任を転嫁している」と非難されることが容易に想像できます。
これは、先述した、
「権威や権力に取らされる責任や行動」を取ろうとしないと言われる恐れが強いことでしょう。
2013/5/8(水) 午前 2:16[ @hijijikiki ]
しかし、前記のアダルトチルドレンの「何だかわからない自分の苦しい状態に、とりあえず名前を付けること」は、意味を広げて考えた「他人からの呼びかけに応答して、自分から取ろうとする責任や行動」を取ることの一形態と考えられないでしょうか。
「応答責任」が「直接相手から問われたり話しかけられたりしていなくても、自分からどうしても応答したくなって応答してしまうこと」を含むと考えれば、そして「責任」を「その人が置かれた状況の中でなすべきこと」と広く捉えれば、世間の見方の真逆ではあるけれど、アダルトチルドレンは「応答責任」をとる行動を取っているといえるのでは。
石牟礼道子氏が「苦海浄土」(私も読んでません)を初めとする作品を書いたことは、社会的に"良い"と認められているので、氏が「応答責任」的な行動をとった、ということは認められやすいと思いますが、他方でアダルトチルドレンは「親のせいにする」という社会的に認められにくい見かけを持つ行動故に、広義の責任を取っているとも認められないどころか、無責任とさえ言われかねないのだと思います。
またまた長くなってしまったので、この辺で。
2013/5/8(水) 午前 2:19[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。ACについては思うことは多々あるのですが、言葉にするにはあまりにも多々あり過ぎたり、それらに未整理のものが多すぎたりして、なかなか理路整然と語ることができませんが、特にACへの批判についてはhijjjikikiさんがおっしゃっていることにおおむね同意です。「家族愛の物語」が、社会に都合のよい規範を広げていくツールにされている中で、その物語や、その物語に加担したり親和している人たちを脅かしてしまうものが、ACに限らず何らかの真実を含む概念にはあるのだろうと思います。ただ、ACという概念はあくまでも本人の問題だと考えてきたので、広義の責任を取ろうとする行為という捉え方はしたことがなく、改めて考えてみたい点です。
ニキリンコンさんの分析、面白い、というか気になりますね。読んでみます。
2013/5/8(水) 午前 8:02[ spi*zi*ar* ]
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石牟礼道子氏の「水俣病"真の救済"はあるのか ~石牟礼道子が語る~」に言及がある拙まとめ『毎日新聞『なぜ「脱原発」敗れ去った』での中島岳志氏らの発言記事への反響など』
AC(アダルトチルドレン)についての論文や議論やバッシングを含む立岩真也氏連載「2011年(→2012年)にみすず書房より『身体の現代・1』(仮題)として刊行される予定」
http://www.arsvi.com/ts/20080061.htm、http://www.arsvi.com/ts/2010b4.h
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@hijijikikiの投稿:
「ACという概念‥広義の責任を取ろうとする行為という捉え方」>私の話が、法的責任や契約に伴う責任などの明確なものではなく、応答責任などの広義の責任という不明確な領域に突っ込んでしまい、恐縮でしたが、
spitzibaraさんとのやり取りで、ぼんやりですが問題の輪郭がつかめたような気がします。ありがとうございました。
「ニキリンコンさんの分析、面白い」>はい。当事者として、問題への切り口が鋭くてとても興味深いです。
ただ、ニキ氏は、スペクトラム(連続体)概念を「自閉スペクトラム」即ちアスペルガーや自閉症などの範囲で考えていて、医療のための「診断」概念として捉えるという医学の主流の見方をしており(少なくともこの当時は)、滝川一廣氏の「発達スペクトラム」(自閉から健常者まで全ての人が連続している)的な見方をしていないところが気になります
(それを問題にするのは読者の勝手な無い物ねだりかもしれませんが)。
滝川一廣氏の「発達スペクトラム」については、拙まとめ『ヤノマミや発達障害と"我々"は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考』http://togetter.com/li/339670をご参照下さい。
2013/5/10(金) 午後 6:12[ @hijijikiki ]
上記の「発達スペクトラム」や
『「正常と異常の境界」は人間が恣意的・社会的に設定したもので、本来は連続している』
という考え方は、前回のspitzibaraさんとのやり取りのまとめ
『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134で、差別に関して述べた、
『「言葉による概念化で、連続した事象の分断」は、例えば障害者と健常者は連続している(明確な区別が付くとは限らない)のに、障害者という名付け、即ち言葉による概念化で、連続した実態に線引きして分断していること』
と類似のもので、人間が言葉を使用すること、言語的な論理性を用いる結果生ずることのいろいろな現れの形であると思います。
2013/5/10(金) 午後 6:14[ @hijijikiki ]
先日(5月8日)、高校教員で反差別の活動家ピエール・テヴァニアン氏の上映会&ディスカッション「スカーフ論争-メディアがつくった虚構」に行ってきました(久々の都心)。
これに関する拙まとめ「『スカーフ論争―隠れたレイシズム』上映とテヴァニアン氏講演/5月6~11日」http://togetter.com/li/500438を作成しました。日仏でこんなに事情が似ているとは、グローバル化による類似性がこう現れているのか、と思いました。
2013/5/10(金) 午後 6:16[ @hijijikiki ]
テヴァニアン氏が講演で「イスラムとフランスの文化の衝突、両者は相容れないという神話がある。これを解体したい。イスラムやヴェール(スカーフ)というのも人により場所により立場により、異なる多様な意味や役割を持つ。同様に、フランスや共和国文化の内部でも差がある。そして、フランスの大衆文化はフランスのエリートよりもイスラム移民の方に親和性が高いということも。」
と発言してましたが、これも、多様な連続した事象である国や宗教や文化を、言葉による概念化・ラベリングで単純化・本質化して分断することにより、「神話」を作り上げ、それが差別につながった例だと思います。
このように、差別の形成などの過程で、「言葉による概念化で、連続した事象の分断」は、いろいろな所で生じているのでは、と思いました。
2013/5/10(金) 午後 6:16[ @hijijikiki ]
hijijikikiさん、「本来は連続しているものが言葉による概念化で分断される」ということ、改めて考えさせられますし、おっしゃる通り、グローバル経済の中ではそういうことが世界中で起こっているとも思います。
今ちょっと集中的に考えていることで言えば、「終末期医療」というものが本来は個々の患者さんが受けてきた、それまでの医療と地続きなものであるはずなのに、「終末期医療」が尊厳死と結びつけて論じられることの中で「患者利益にならない過剰な延命」の代名詞のようになってしまった。それによって患者が感じている終末期の苦痛への不安が、「終末期医療」への不安に置き換えられてしまい、尊厳死法制化を求める声を後押ししている。そんなことを考えていたので、そのことと繋がりました。差別の問題とはまた違いますが、グローバルな世界で言葉や概念が作為的に操作されている気がする、という意味で、同じ側面があるような気がして。
2013/5/11(土) 午後 9:32[ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
『「終末期医療」が‥差別の問題とはまた違いますが、グローバルな世界で言葉や概念が作為的に操作されている気がする、という意味で、同じ側面が』>はい。
前にspitzibaraさんとのやり取りをまとめた拙まとめ『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』で述べたように、
私は、終末期医療というのは、他の差別と違っているように見えても、そこには高齢者・老人差別と言えるようなものが含まれているのではないかと思っています。
まとめに書いたように:
『黒人差別では、黒人が劣っているという偏見や思い込みがあり、その結果黒人に対する待遇や扱いが悪くなり、その結果「劣っている」状態にさせられる。その悪循環が続く。』
ことと、類似のことが、
『同じ年齢や健康状態でも余命は一人一人異なるはずであり、しかも治療やケアなどをよく保てば余命が延び、QOLが向上することは当然予想できるのに、
「もうすぐ死ぬから手をかけるな」
というイメージ操作・印象操作によって、その言葉通りに余命を短くし、QOLを下げる』
という形で、高齢者医療でも容易に生じる恐れがあるかと
2013/5/14(火) 午前 2:18[ @hijijikiki ]
(というか、もう実際に起きているのかも)。
前にご紹介した『スカーフ論争―隠れたレイシズム』では、フランスでイスラム教徒の移民がスカーフを被ることで差別される問題が扱われ、そこにはイスラム教差別、人種・民族差別、女性差別などがあることは、ある意味わかりやすいと思います。
一方で、終末期医療や尊厳死・安楽死が差別的であることは、このスカーフ差別などに比べて分かりにくいように感じます。
この理由の大きなものに、能力主義の問題があると思います。
例えば、女性差別が依然として存在していても、それを解消させることが当然、と考えることが多くの人に曲がりなりにも(建前だけでも)共有されていると思われるのは、「同じ能力なのに女というだけで男と違う扱いをするのは不当だ」という考えが主流になってきたことが大きいと思います。
これは人種・民族差別でも同様で、「同じ能力・業績なら同じ扱いに」=業績主義・能力主義(メリトクラシー)が主流になってきているからでは。
この業績主義・能力主義を完全に否定するのは難しいでしょう(というか一定の範囲で認めざるを得ないと思います)。
2013/5/14(火) 午前 2:20[ @hijijikiki ]
しかし、仕事や役職で業績主義・能力主義を認めたとしても、それを、その個人の自由や生存権と結びつけることは、全く別のことであり、慎重に考えるべきことだと思います。
(この「仕事や役職での業績主義・能力主義的評価を、その個人の自由や生存権と結びつけること」は、
テヴァニアン風に言えば「ネオリベ・近代西洋文明の神話」と言えるのかもしれません。)
だが、実際には、ニュースでよく聞くように「前途有望な若者だったのに、惜しい人を失った」のような、業績主義・能力主義的な評価を、そのままその人全般の評価や存在価値に結びつけるような言説が主流であるかと。
業績主義・能力主義的に「前途有望な人」に対しては、「どうせ死ぬんだから‥」という言葉は決して使われず、高齢者・老人には使われるというのは、差別的ではないでしょうか(我々は例外なくいつかは「どうせ死ぬ」し、それは統計的にしか予期できない偶然的なものであることを知っているのに)。
2013/5/14(火) 午前 2:21[ @hijijikiki ]
能力=何かができること、業績=何かを実際に成し遂げたことは、生きるため・生活するための手段であり、それらは良いことではあるが、それらがその人の全てではなく、その人の自由や生存権を決めることに直結しているわけではないでしょう。
自由や生存権をお互いに尊重し合うことで社会が成立しているのなら、まず最初に相互の自由と生存権の尊重があり、その手段として能力や業績があるのであって、その逆ではないはずです。
しかし、ネオリベ(新自由主義)化が進行してきた現在、自由と生存権はどんどん切りつめられていって、経済力や人間力のない、"能力の低い"者は「終末期」として「どうせ死ぬんだから‥」として、別枠で粗末に扱われてゆくのでは。。。
物が売れずに余ってしょうがないと嘆いている、世界有数の経済大国のくせに、弱い者いじめ、弱い者をないがしろにする方向に向かっている。何てひどいことをする嫌な国、嫌な世の中にしようとしているんでしょうね。
2013/5/14(火) 午前 2:23[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。もろもろ、おっしゃる通りと思います。このところ、医学を含む科学とテクノロジーにはもともと「パーソン論」と親和しやすい文化風土があるんじゃないかと言うことを考えていたんですけど、いただいたコメントを読んでいて、私たちの中にも「内なるパーソン論」はあるってことなのかもしれない……ということを思いました。
それから科学とテクノロジーで身体も命も能力もいかようにも操作可能という幻想が広がるにつれて、「能力」という概念もとても硬直した狭いものになってきていますよね。科学とテクノで操作可能な「能力」にみんなの目が誘導され、釘付けにされていくことと、そのこととが連動しているんじゃないかなぁ……。社会の一般人の間に医学モデル、個人モデルがどんどん浸透していって、「科学的」とされる知識が基準となり、逆に健全な常識が失われているような気がします。
2013/5/14(火) 午前 9:30[ spi*zi*ar* ]
ほんと、なんてひどいことをするイヤな国、イヤな世の中なんでしょうね。
2013/5/14(火) 午前 9:36[ spi*zi*ar* ]
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『ヤノマミや発達障害と"我々"は連続しているのか:正常と異常の境界、言葉と因果的思考』
『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』
「『スカーフ論争―隠れたレイシズム』上映とテヴァニアン氏講演/5月6~11日」
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@hijijikikiの投稿:
『科学とテクノロジーにはもともと「パーソン論」と親和しやすい‥私たちの中にも「内なるパーソン論」はある』>はい。西洋近代思想・科学技術が「内なるパーソン論」的なものを増幅し、強化するメカニズムやシステムを作り上げたのかと。
「パーソン論」とは:
『トゥーリーは、自己意識をもったパーソンのみが生存権をもつ‥
エンゲルハートは、「自己意識をもった理性的存在者」を厳密な意味でのパーソンとし‥』(「パーソン/パーソン論」:立岩真也氏HP:http://www.arsvi.com/d/p13.htmから)
という、自己意識や理性と、生存権などの権利とを結びつけることらしいですね。
自己意識とか理性とかは、ある種の能力であり、その点でパーソン論も一種の能力主義であるのだろうと思います。
我々がパーソン論や能力主義的なものの見方を、当然のものとして考えがちなのは、人類史上で富の蓄積と集中が生じて以降の文明、とりわけ西洋近代思想・科学技術が発展してからではないか、と思います。
2013/5/18(土) 午前 1:43[ @hijijikiki ]
西洋近代思想・科学技術が作り上げた人工物やサービスや環境、社会、文化などによるシステムが能力主義やパーソン論的なものを強化し、逆に能力主義がこのシステムを可能にし、作動させる一部分であるような、相互に強化し合う循環的な関係にあるのではないかと思います。
「富の蓄積と集中」が始まる前と後を比べるために、参照点として狩猟採集文化・文明?が存続しているヤノマミ(族)について。
拙まとめ『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の"内部化された集団心理"があるか?』http://togetter.com/li/318613で、ヤノマミと我々の比較をしています
(ヤノマミと150日間同居して取材したNHKディレクターの国分氏の本・ビデオを参照)。
『ヤノマミには「狩りが上手い」という基準はあるが、我々「現代人」のように、それを測定し、データを記録・集積し、評価する動機(富の蓄積)も手段(文字)も無いし‥』
2013/5/18(土) 午前 1:45[ @hijijikiki ]
というように、例えばヤノマミの言う「よい男とは、狩りの上手い男である」の、「狩り」の評価については、文字を持たないヤノマミには誰が何時何処で何を何匹捕まえたかは、記憶や証言しかないだろう。
しかし、彼らは「捕まえた獲物が大きすぎて森に置いてきた」というようなほら話、ジョークが大好きで、しょっちゅうそういう話をしているということなので、「狩りが上手い」ことを決める唯一の手がかりである記憶や証言をもとに、誰が狩りが上手いか・能力や業績が上かなどの評価や比較などは、とても難しいだろう。
というか、上記引用の続き:
『それ以前の問題として、その様に考えてはいないように見える。
測定し記録し評価し、その結果を蓄積‥その様な文化によって自己が規定され形成されるのが当然になってる我々「現代人」から見れば、ヤノマミには「労働の概念・価値観は個人の中にあり社会の中にはない」ように見えるのでは。』
2013/5/18(土) 午前 1:47[ @hijijikiki ]
我々「現代文明人」は、例えば学校教育で繰り返し試験(測定)をされ、点数で評価され、順位を付けられ、成績表に記録され、それらが現在と将来の生活を決めるような文化・文明・社会システムの中で生きている。
しかし他方で、ヤノマミのような狩猟採集の生活・文化では、そのような測定・評価システムを全く持っていない。
更に:
拙まとめ『続2)狩猟採集生活するヤノマミと「現代文明人」の心情(感情)・倫理・規範について』で、
『アマゾンの密林で、人工物は身の回りの手作りの品のみで対応して生きているヤノマミと、他方で巨大科学技術の積み上げた人工物に囲まれた、人と組織と人工物の密林に囲まれて生きている我々「現代文明人」とは大きく異なる。
それにも関わらず我彼が「似ている」と感じるのは、言葉を持ってしまった人間の共通の特色である、言葉を介して他者と関わる関わり方における共通点ではないだろうか。』
2013/5/18(土) 午前 1:49[ @hijijikiki ]
というように、ヤノマミと我々とでは、生きている環境やシステムが自然的か人工的かで全く異なっており、それ故に、それによって生ずる「労働」の概念や価値観、更には労働観の元となる「能力」をどう考え、どう捉えるかが全く異なるのは我彼の間の文明の構造物・社会システムの違いによるように見える。
しかし、『それにも関わらず我彼が「似ている」と感じる』部分が、"人間"にとってもっとも基本的な部分であり、そこが重要なのでは、という感じがします。
2013/5/18(土) 午前 1:50[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、いつものように幅広い知識から興味深いご考察をありがとうございます。
娘が体調を崩して、ここしばらく生活も頭の中も非常事態モードになっているため、丁寧に言葉にする余裕がないのですが、いつものようにあまりものを知らない私の方からは自分の経験と直感で応答させてもらうと、重症障害のある人の身近に暮らしている者として、人は「なにができるか」だけで規定されるような存在ではなくて、その特定の人が「そこにいる」だけで、何をすると化できるということとはまったく別に、そこにある「場」が、その人がいないのとはまったく違うものになる、そういう存在なんじゃないかということを感じてます。例えば会議なんかでも、特に発言するわけでも議論に貢献するわけでもなくとも、その人がそこにいる時といない時とでは「場」の空気が違って、その人がいるからこそ起こること、というのがあるような。人って、そういう存在なんじゃないか、と。
2013/5/18(土) 午前 8:39[ spi*zi*ar* ]
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@hijijikikiの投稿:
娘さんが不調とのこと、ご心配ですね。タイミング悪く、新たな展開の長文をコメントしてしまって、恐縮です。
『「そこにいる」だけで、‥「場」が違うものになる』>そのへんが、人と人との間の関係のもっとも基本のような気がします。「人間」は人と人との間(=場)と書くのも、そういう意味なのかも。
「そこにいる」ことから、物事や集団を動かして影響力を発揮すること=「できる」ことまで人間の有り様は様々ありえて、また複合的なのだと思います。
そして近年、「できる」ことにばかり力点が置かれ注目されるようになった経緯を富の蓄積や西洋近代と関係付けましたが、ご指摘のように、人間にとって他の人(自分にとって重要な人ならなおさら)が「そこにいる」ことがどのように感じられ、その人との間にどのような場ができるのかが、(ことの良し悪しは別として)生きている上で最も重要なことのような気がします(生存するためということや生活のためということは別にして)。
(前回「言葉を介して他者と関わる」と書きましたが、これは類としての人間の特色で、人間の条件とは考えていません。蛇足かもしれませんが。。。)。
2013/5/19(日) 午前 2:07[ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、お心遣い、ありがとうございます。最後のところ、もちろんハナから了解ですよ~。
でも、追記してくださったおかげで、「言葉を介して他者と関わる」ということと「思いを通して他者と関わる」ということを頭の中でちょっと転がしてみることができました。両者とも同じことのように思えて、後者の方がやっぱり深いかなぁ。前者だけで後者を伴わないと、「つながる」ことまではいけないかも? とりあえず、ぱぱっと
、ここまで。
これもまた改めて考えてみたい視点をいただきました。
2013/5/19(日) 午前 5:21[ spi*zi*ar* ]
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「パーソン/パーソン論」:立岩真也氏HP:
http://www.arsvi.com/d/p13.htm
『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の"内部化された集団心理"があるか?』
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