「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告と弁護団事務局長の講演を聞きに行った。ありむら記者の呟き
「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告と弁護団事務局長の講演を聞きに行った。2013年3月に第一次提訴されたこの訴訟は、現在も原告が増えつづけ、既に2600人を超える。当日来てくれた原告からの講演者は、沖縄への母子避難者だった。
2014-07-24 18:49:18福島原発訴訟原告女性によるお話。「気持ちがいっぱいで、3年分の思いをまとめて話すのは本当に難しい。避難したけれど、楽しく暮らしているわけではない」という言葉から始まった。
2014-07-24 18:49:58福島原発訴訟原告女性のお話。とつとつと、それでいて、しなやかな芯が一本通った話しぶりだった。この女性が抱えている日々の、刻々の、思い、逡巡が、ストレートに伝わって来た。ぼちぼち拾い書きしておこうと思う。
2014-07-24 18:53:11「地震後、ガソリンもない、情報もない状態で、車で過ごした。子どもを不安から解放してあげたくて、事故後は外遊びをさせることでいっぱいいっぱいだった。ニュースも見ていなかった。15日に原発爆発の報せを聞き、それが初の爆発かと思った。12日にも爆発していたのに、外遊びさせてしまった」
2014-07-24 18:56:22福島原発訴訟原告女性のお話。「4月からも地元の学校に通わせた。でも、目にも見えない、匂いもない、自分の住む場所がどれほど汚染されているのか分からない。ここにいていいのか。漠然とした恐怖がいつもあった。テレビと新聞の報道が全てだと思っていた。ちゃんと対応してくれてると思っていた」
2014-07-24 18:57:10福島原発訴訟原告女性のお話。「後になってから色々なことを知り、ショックだった。あの時に、直ぐに、ちゃんとテレビや新聞で知らせてくれていれば、外遊びはしなかった」
2014-07-24 18:58:40福島原発訴訟原告女性のお話「家族皆で一緒にいることが幸せだと思って暮らしている人もいる。でも、私は子どもを選んだ。『お母さん、なんであの時、逃げてくれなかったの』と子供にいつの日か言われたときに、このままここにいては、何も言えないと思ったから。夫や家族の反対を押し切って逃げた」
2014-07-24 19:00:31福島原発訴訟原告女性のお話。「最初の2年は必死だった。必死で勉強した。生業を返せ訴訟の原告になったのは、原発事故後の対応のあまりの酷さがあったから。危険をきちんと伝えてくれていれば、外遊びしなかった。でも、そこにある危険を知らせてくれる何の情報もなかった」
2014-07-24 19:02:18福島原発訴訟原告女性のお話。「国と東電の相手になるのは怖かった。でも、このまま黙っていれば、何もなかったことにされてしまう。これまで私はこの手のことに疎かった。反対運動をしている人たちを『うわっ』て目で見ていた。でも、私のこうした無関心さが原発支持につながっていた」
2014-07-24 19:03:35福島原発訴訟原告女性のお話。「原発への無関心が、原発支持につながり、結局は事故後の無責任な対応を生んだ。東電も国も、誰も責任を取ることもないまま、まるで原発事故などなかったかのようになっている」
2014-07-24 19:10:13福島原発訴訟原告女性のお話「放射能は、県境で留まらない。沖縄に避難して来た人たちは、子どもに鼻血や血便が出たので、という人が多い。鼻血が止まらずレーザーで止血したという人もいる」
2014-07-24 19:17:21福島原発訴訟原告女性のお話。「避難はしたが、避難し続けていることが良いことなのかどうなのか、ずっと葛藤がある。長く生きるのがいいのか。みんなと楽しく過ごすのがいいのか。地元の友達と話すと、やっぱり戻りたい。避難していても寂しい」
2014-07-24 19:17:49福島原発訴訟原告女性のお話。結びのことば。「心で聞いてください。見えないものを見て下さい。おかしいことに、おかしいと声をあげる人になって下さい」
2014-07-24 19:18:23