尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛

"尊厳死推進派"を論破することについて。「尊厳」は、そもそも「王、権力者、強者」の属性を表す言葉であり、そうでない「一般の人」である読者・聴衆には伝わりにくい・わかりにくいものになっているのでは、から始まるspitzibara氏のブログコメント欄でのやり取り。 ● まとめ末尾に【 まとめ後の追加 】「「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文」についてのやり取りを加入しました。 ■ 以下に話題を抜粋: ・「尊厳死」やPPK運動が受け入れられるのは、「自分の尊厳がなくなる」ことへの忌避感よりもむしろ「人の世話や迷惑になりたくない」という負い目・負債を負いたくないという動機が強いのでは。 続きを読む
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:

 ★「トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (前) 2013/11/8(金) 午後 2:45」

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63722612.html
「関西学院大学の土井健司氏の講義を拝聴する機会があった。
  (…………)
土井氏はキリスト教神学者で、講義はまず、
神の似像として創られた人間のうちに神を見る、とする「人間の尊厳」という概念が
どのような変遷をたどってきたかを「誰を『人間』とするのか」という問いに沿って概観。

愛されるべき人間、尊厳を認められるべき人間とは当初、
王であり、権力者であり、強者であり、それを言う人が属する社会の内部の人間であり、
社会の中心にいる人々のことであり、社会の周縁の人々は含まれていなかった。
  (…………)  」

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リンク 海やアシュリーのいる風景 トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か (前) - 海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ 関西学院大学の土井健司氏の講義を拝聴する機会があった。 (「読んだ」わけじゃないけど「聴いたもの」として、「読んだもの」の書庫に) テーマは、人間の尊厳で、 前のブログで2つのエントリーを書いている英国のトニー・ブランド訴訟(1993)をめ...

 
 

 ● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り

 (spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。
   ⇒ ①~④に分割し、間に参照したURLの記事などを表示しました。:

  ①

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■■■■■■■ (最初の6つのコメント投稿は、まとめに加入しませんでした) ■■■■■■■
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 @hijijikikiの投稿:

こんばんは、@hijijikikiです。

「人間の尊厳」の議論について。
確かにピーター・シンガーなど“尊厳死推進派”を論破することは重要だし、できる人にはやって欲しいのですけど、他方で、「尊厳」という言葉を使い、それを巡るこの議論では、いわば“相手の土俵”に乗ってしまっているため、相手の無理筋をとがめても、多くの専門外の関心のない・あまり事情に詳しくない読者・聴衆にはなかなか伝わりにくい・わかりにくいものになっている気がします。

「愛されるべき人間、尊厳を認められるべき人間とは当初、
王であり、権力者であり、強者であり、それを言う人が属する社会の内部の人間であり、
社会の中心にいる人々のことであり、社会の周縁の人々は含まれていなかった」
という「尊厳」の範囲を広げようとするのはよいことだと思いますが、それにはとても大きな困難があるように感じます。
spitzibaraさんの「直接的に触れた経験のある人だけ」という限定などなどがあって初めてこの範囲の拡張が可能な気がします。

2013/11/11(月) 午後 11:18 [ @hijijikiki ]

というよりも、そもそもの最初の問題設定に戻って、なぜ
「尊厳がなくなる」 ⇒ 「生きる価値がなくなる」
というシンガーの主張するようなことが、(どうして/本当に)多くの、専門外の一般の人々に受け入れられるのか?ということが大きな疑問に思えます。

「尊厳」は引用にあるように、そもそも「王、権力者、強者」の属性を表す言葉であり、それは一般に羨ましがられ、信奉され、憧れのまとになるような属性を表す言葉であっても、「尊厳」をそれほど身につけてないであろう一般人が「尊厳がなければ生きている価値がない」と思って「尊厳死」を望んだりするのは、尊厳という言葉の示すことがらや内容を考えると、不自然でそぐわないと思われます(勿論ご指摘のように、シンガーらがこれを強調することで、世論を誘導する面があるとは思いますが)。

2013/11/11(月) 午後 11:19 [ @hijijikiki ]

むしろ、「尊厳死」やPPK(ピンピンコロリ:いつまでも元気で生き、病まずにポックリゆきたい)運動が受け入れられるのは、「自分の尊厳がなくなる」ことへの忌避感だけではなく/それよりもむしろ「人の世話や迷惑になりたくない」という負い目・負債を負いたくないという動機が強いのではないでしょうか。

「尊厳」という言葉に引きずられると、この辺のことが見えにくくなるように感じます。

このブログのエントリー:
『高谷清氏の「重症障害者の意識」を巡る考察』http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63692876.htmlのコメント欄にあるacceleration氏のコメント
「「意識」という言葉は厳密な議論をしたいときは使わない」
「現象に違った言葉でアプローチしてもいいんじゃないか」
というような対応が、相手の土俵に乗らず、実際に何が問題になっているかを把握し、対処するために有効ではないかと。

2013/11/11(月) 午後 11:20 [ @hijijikiki ]

話を戻して、
負い目・負債は「鶴の恩返し」など、恩=負債を返す説話が多く見られるように時代を超えて広く人間社会・人間関係に見られるもので、
また、「借金のかたに身を売る」という、現在非合法化されていても、裏社会では根強く残っている、おぞましい事態に見られるように、人間関係に極めて強い影響力を持っていることである割には、倫理や社会・人間関係や経済などの根本的な問題としては、あまり取り上げられてないようです。

この負い目・負債の故に、生きることや対人関係で不利な、弱い立場に追い込まれたり、そのような立場に立たされたりすることを防ぐことが重要ではないかと思います。
そのためには、「人に迷惑をかけたくない」という負い目・負債の感覚を減らすような人間関係や制度・社会にしてゆくことが重要でしょう。

生活保護のスティグマ(負の烙印)と言われるもの(「人の税金を使っている」「福祉のお世話になっている」ことを負い目と感じることなど)はまさにこの負い目・負債の感覚が共有され増幅され社会化されたものであり、これは「自己責任」などのネオリベ的風潮で助長され、強化されているのでしょう。

2013/11/11(月) 午後 11:21 [ @hijijikiki ]

他方で、介護保険は数々の欠陥を指摘されていますが、それまで家庭内・家族内で解決するものとされてきた介護を、「社会が担うもの」とする方向性を持った制度であり、今まで家庭内で介護を担わされてきた女性が、負い目・負債を負うことなく、「後ろ指を指される」恐怖感や負い目にさらされずに、介護を社会化、外注化する方向に向けるのに役立つ側面があり、実際に私の身の回りでも、「介護保険があるからデイケアに」が当たり前になっているという実効性・実績があります。

それと同様に、生活保護も申請や受給をしやすくして、誰でも必要に応じて申請が受け付けられて、必要な人が必要に応じてきちんと受給できるような実績を作ることにより、生活保護のスティグマ=負い目・負債を減らせるのではないでしょうか。

「尊厳死」の議論にも、このような視点が必要なように感じます。

2013/11/11(月) 午後 11:22 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、いつもながら興味深いコメントをありがとうございます。土井先生のお話は「人間の尊厳」という概念の宗教的な原点に立ち返ろうとするものとして貴重な視点だったし、それは簡単に割り切れない人間の関係性の奥深さを見失うまい、という呼びかけだったと思うのですが、実は学生さんたちの受け止めの中に、「そうした宗教という明確な視点があれば、身内の終末期の決断をするにも後から割り切りがしやすいかも」というものがあって、講義の趣旨とはまるで反対の受け止めになっていることが、私はかなりショックでした。この後の飲み会の席でも、シンガーをはじめとする科学とテクノの論理に抵抗を感じない若い世代にどのように働きかけていったらいいのか、という話が出ていました。実は土井先生の次の回を私自身が担当することになっているので、それは私にとってたちまち切実な課題でもあるんですけど、hijijikikiさんがおっしゃているのもそういうことですね。

2013/11/12(火) 午前 8:21 [ spi*zi*ara2 ]

hijijikikiさんがおっしゃるとおり、「負い目・負債」というのは「自己責任」の裏返しですね。実は「自己責任」で転嫁されているものを「自己選択」という形で自ら引き受ける形に追い詰めていく仕掛けが、まさに「負い目・負債」だなぁ、と思いました。

私も海外の安楽死・自殺幇助の問題を追いかけてみて、この問題は結局は介護の問題に繋がっていくし、それは介護を家族の自己責任に押し戻そうとする動きとも連動しているのでは、ということを考えてきました。その先に繋がっているのは、科学とテクノの利権と直結したグローバルなネオリベ経済の論理だとも思います。そういう世界にあって、実はみんな弱者の側に置かれてしまっているんだけれど、とりあえず自分のことを弱者としてイメージできない若い世代の人たちに、どういう言葉なら届くのだろう、と、ぐるぐるしているところで、とてもいい刺激をいただきました。

2013/11/12(火) 午前 8:39 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

返信ありがとうございます。

『土井氏が問うのは‥「人格的な関係性をどう確認していくのか」。』
この辺は同感で、とても重要な観点だと思います。
他のエントリーでも「“『尊厳がない』と言う人間”のあり方が問題」というのがあったと思いますが、これも同様だと思います。

しかし、「尊厳」という言葉を使わなくても(または天賦人権と言わなくても)、土井氏の言うような人間同士の関係性、相互性からでも、
「全ての人の自由(権)と生存(権)を尊重するべきだ」ということは言えると思うのです。

まず、「私はあなたに私の自由と生存を尊重して欲しい。」と思った/言った場合に、逆に「あなた」という人間からも同じことを要求されるし、それを相互に認めあうことが必要である、ということを我々は知っていて、大多数の人はこれに同意し、実際に多くの場面でそれを実践していると思います。

2013/11/13(水) 午前 2:26 [ @hijijikiki ]

次に、相互に主張し合う「私の自由や生存」の間の摩擦やぶつかり合いをどうするか、という観点から、日本国憲法にもある「公共の福祉」、どういう場合にどの権利を優先するか、ということが出てきます。
「ある人の自由を認める」ことは、その人が存在すること=生存すること=ちゃんと生きられる状態、即ち健康で文化的な生活をすること=生存(権)を認めることが先にあるはずです。
それ故に、「私の自由を認めて欲しい」と言った場合には、人間同士の相互性から、「あなたの自由と生存を認める」ことが必要であることが、反射的に出てくると思います。
(この辺は立岩さんに依拠するところが大きいです)。

さて、ここで負い目・負債と、この「自由と生存」との関係について。
負い目・負債を「自由と生存」より上に置くならば、「借金のかたに身を売る」ことや臓器売買や奴隷制を認めることになります。
確かに負い目・負債も人間同士の関係性や相互性から出てくるものですが、だからといって「自由と生存」より上に置いたり、同等な位置に置く必然性はないでしょう。

2013/11/13(水) 午前 2:27 [ @hijijikiki ]

ここでも大多数の人は(きちんと相互的に対話すれば)、負債(負い目)よりも「自由と生存」を上に置くべきである、ということに同意すると思います。
しかしながら、今の社会の主流の考え方は、「自由」を負債の上に置いても、「生存」については不明確であり、ネオリベラリズムでは「生存」を負債の下に置いてます(置こうとしてます)。

ネオリベ化した今の社会でも、さすがに露骨な奴隷制は否定するけれど、低賃金の劣悪な労働条件の労働を放置していて、これを放置することは奴隷制を認めるに等しく、臓器売買は禁止しても、「臓器移植」のために「脳死」というものをでっち上げています。

以上は金銭的な負い目・負債についての話ですが、金銭が直接絡まない、心理的な負い目・負債を「生存」の上に置く例として、前に挙げた「尊厳死」があります。
それ以外にも、前に挙げた「生活保護のスティグマのために受給を躊躇してしまうこと」などなどが。

2013/11/13(水) 午前 2:29 [ @hijijikiki ]

『シンガーをはじめとする科学とテクノの論理に抵抗を感じない若い世代にどのように働きかけていったらいいのか』>これは、若い世代のみならず、世の中の主流のネオリベ的な風潮に乗っている主流の方々に対して、何と言ったらよいのか、という大きな問題につながることだと思います。

“科学とテクノの論理”というのを“能力主義”に読み替えると(不適切だったらご指摘下さい)、
わたし的には、以上に述べた「自由と生存」の尊重が初めにあり、負い目・負債はそれより下にある、ということをまず言うこと。
次に、能力(主義)と「自由と生存(権)」は切り離して考えるべき、別のものであること、を言う、ことでしょうか。
(能力、何かをできることは、生きるための手段であり、能力があることが生存の条件ではないということを。)

2013/11/13(水) 午前 2:30 [ @hijijikiki ]

前述の「尊厳」と同様に、能力(主義)も前に述べたように、
『「王、権力者、強者」の属性を表す言葉であり、それは一般に羨ましがられ、信奉され、憧れのまとになるような属性を表す言葉』
であり、言葉の意味内容から明らかなように、多くの=一般の人が「そうなりたい」「理想的な」「良いと思う」ことです。

具体的に言えば、一流の学者、一流のスポーツ選手、仕事のできるビジネスパーソンなどなどが人気があるだけではなく、一般に価値があると思われ、羨ましがられ、信奉され、憧れのまとになっています。
この能力主義も負い目・負債同様に、かなり昔から、多くの文化圏で見られることなのではないか、と思いますが、近代西洋文明ではこれが異常に肥大化して、「自由と生存」よりも上に来るようになったような感じがします。

拙まとめ『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか?』http://togetter.com/li/318613の収録ツイートで

2013/11/13(水) 午前 2:32 [ @hijijikiki ]

「ヤノマミには「狩りが上手い」という基準はあるが、我々「現代人」のように、それを測定し、データを記録・集積し、評価する動機(富の蓄積)も手段(文字)も無いし、それ以前の問題として、その様に考えてはいないように見える」

と書いたように、能力主義には、それを可能にするための
「データを記録・集積し、評価する動機と手段、システム」が必要で、これは学校教育でなされているような成績・業績の評価と序列付けが、それを実現するための大きな要因であると思われます。
即ち、ネオリベ以前の段階から、能力主義の肥大化と過剰(の方向付け)があったのではないか、と。

2013/11/13(水) 午前 2:33 [ @hijijikiki ]

話が飛びましたが、もはや狩猟採集生活に戻れそうもない我々「現代人」は、能力主義=できることに価値を置いて、それによって人を評価すること、が過剰になることに歯止めをかけること。
能力=何かができること、は単に我々の生活、自由と生存のための手段にすぎず、「自由と生存」よりも上に置いてはならない、ということの合意を、我々の具体的な「人間同士の関係性や相互性」によって確認し続けること。
即ち対話を続けること、しかないように思います
(これは“対話”という場面についてのことで、他の実践的な場面ではこれに留まりません)。

2013/11/13(水) 午前 2:34 [ @hijijikiki ]

  

   

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●『高谷清氏の「重症障害者の意識」を巡る考察』
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63692876.html

●『アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の"内部化された集団心理"があるか?』

まとめ アマゾンの密林で狩猟採集生活するヤノマミには、「現代文明人」と同様の“内部化された集団心理”があるか? @gmax_jpさんの、社会心理学の「バイスタンダー効果」のツイートから、正常バイアスや「内部化された集団心理」に話が展開して、我々「現代文明」と対極の生活をしているヤノマミへと話が。。。連続ツイートがながくなったので、とりあえずまとめました。 ツイートで私@hijijikikiは、ヤノマミについて、国分拓「ヤノマミ」のTV放送と本http://t.co/fAiU3ATQを主に参照しました。 ●追加しました。 ●更に追加しました。『「インターネットコオロギ」を媒体にヤノマミと「現代文明」について。』 ●また追加しました。『ヤノマミと「現代文明」:内面の差、相互扶助など』 ■本まとめに続くまとめ: ★「続)狩猟採集生活するヤノマミの感覚を、「現代文明人」は持っているか?」http://togetter.com.. 4299 pv 29 1 user

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  ②

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。最初にざっと読ませてもらった時に「立岩先生の論の進め方を思わせる赴きがあるなぁ」と感じたんですけど、次にしっかり読ませてもらったらちゃんと「依拠するところが大きい」と書いてあったので、おぉ、やっぱり……と納得。

hijijikikiさんがおっしゃっていることは同感なんですけど、たぶん多くの人が同じことを自分なりの立場と言葉で言おうとしているし実際に言っているんじゃないか、とも思うし、結局のところ問題は、その「対話」がhijijkikiさんの表現で言えば「「生存」を上に置こう」と考える人間の間でしか成り立っていない、成り立たせないような社会の空気なのか仕組みなのか、がすでに作られてしまっている、ということなんじゃないのかなぁ……。ここへ行ってしまうと、もう希望も救いも見出せない感じにもなってしまうから、いけないんだけれど、そこを越えるためには、何ができるんだろう?

2013/11/13(水) 午前 8:10 [ spi*zi*ara2 ]

そこでもまた、個々の人間にできるのは、自分が今いるところで、これこれこういうふうに生きてきた道筋を背負った自分が知っていること、見えること、考えることの中から、その溝を越えるようとする言葉を模索していくしかないと思うし。

その中で一つ私が考えているのは「頭の言葉」と「体の言葉」ということです。これこれこうやって生きてきた「私」を背負った丸ごとの体から出てくる言葉の持つ力というものを、もう少し信じてみたい、というか。それは頭にではなくて、心に届く言葉にならないだろうか、と。届く届かないは、もちろん結果でしかないんだけれど。

2013/11/13(水) 午前 8:11 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

『その「対話」が‥「「生存」を上に置こう」と考える人間の間でしか成り立っていない、成り立たせないような社会の空気なのか仕組みなのか、がすでに作られてしまっている』
確かにこういう面が強く感じられ、それが主流の流れになって(悪)循環し、渦を巻いている感じは受けます。

しかし主流の流れの悪循環や渦巻きが、あるきっかけや運動などで、大きく変わる例もあります。
たとえば、例に挙げた「家庭内介護が当然」が主流だったのが、介護保険により「介護保険があるからデイケアに」が当たり前になるような小さな例から、米国の干渉・介入で軍事政権がひどい虐殺や弾圧を行ってきた中南米諸国の多くが、選挙でより民主的な政権を取り戻した大きな例まで、目立たない(マスコミがちゃんと報道しない)けれどもあると思います。

これらの例を見て思うのは、「現状は変わらないと諦めるか、変わると期待するか」ということよりも、「きっかけや成り行きなどで変化が起きたときに、良い方向に変化させるために何が有効か」ということ。
そして負い目・負債などによる支配と服従の関係をなくして、対等かつ相互性のある関係を作ることが重要かと。

2013/11/14(木) 午前 1:59 [ @hijijikiki ]

『自分が今いるところで‥生きてきた道筋を背負った自分が知っていること、見えること、考えることの中から、その溝を越えるようとする言葉を模索していく』>というご指摘は、その通りだと思います。

私が前回のコメントの後半で『科学とテクノの論理に抵抗を感じない若い世代にどのように働きかけていったらいいのか』に関して話を展開したために、「人間同士の関係性、相互性をもとにした対話的な関係」を、「説得」のための粗筋のように書いてしまい、舌足らずでした。

これに補足すると、ご指摘のような自分の人生の経歴で得た/身につけた経験や知見をもとに(というか、これ以外に、もとにするものはないでしょう)、他の人と交流する場合に、どのような交流をするか。
主流の言説や学説や、通りの良い言葉やお題目で人々の同意を得ようとするのか、
それとも相互の相違点や一致点の来歴や位置づけを丁寧に検討し合い、相互に配慮しながらよりよい結論や方法を協働して見つけるような相互性を形成しようとするのか、
ということです。

2013/11/14(木) 午前 2:00 [ @hijijikiki ]

その際に、お互いの負い目・負債に配慮して、支配と服従の関係にならないように工夫することも重要だと思います。

具体例を挙げると、spitzibaraさんの旧ブログのエントリー:「療育園と家族が本当の信頼関係を築くために」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66056234.htmlは、後者の交流の実践の記録であり、主流・既存の制度ややり方や慣習を、自分も含めいかに係わっている人たちにとってより民主的で利用しやすい、理にかなったものにするかの試みの貴重な記録だと思います。

更にこれを記録としてブログなどに公表して、多くの人と共有し、話題にしたことにより、お互いに相手を尊重しながら、現状をよりよく変えてゆくやり方を更に議論し他の様々な例に応用可能にしてゆく道を開いたのではないかと思います(コメント欄の書き込みなどを見てもそう思います)。

それで思い出したのは、spitzibaraさんと前にやり取りしたとき、旧ブログのエントリー:『Peter Singer「利他主義のすすめ」‥』のコメント欄でご紹介した、三宅洋平さんの「選挙フェス」(「みどりの風 谷岡郁子代表 代表辞任会見をめぐるやり取り」http://togetter.com/li/539441)です。

2013/11/14(木) 午前 2:01 [ @hijijikiki ]

「 『三宅洋平さんの支持者がこんなに増えたのは何と言っても彼の人間性による所が大きい
彼の根底にあるのは「愛」だと、誰もが自然に感じ取れてしまう‥
三宅さんは、一緒に歩くために私たちが必要としていた存在』
‥‥
私の言葉に直すと、この「愛」は言い換えれば、
「人の命あっての経済と政治」(山本太郎氏の発言)であり、
「全ての人々の自由と生存権=健康で文化的な生活を保障する」ことだと思います。 」
‥‥
という政治・選挙では全くの無名の新人が、参議院全国区で17万票以上獲得して、選挙後にはNHKをはじめマスコミも、これまで政治に無関心な若者が三宅氏を積極的に応援した、などなどと報道してました。

ミュージシャンの三宅洋平氏は、音楽とライブという彼の経歴や経験や好みにあった表現形態で、相互に配慮しながらよりよい結論や方法を協働して見つけるような相互性を形成しようとする試みや呼びかけをしてきたことが多くの支持を集めたのだと思います。

視点を変えれば、この社会もまだまだ捨てたものではない所がある、という感じがします。

2013/11/14(木) 午前 2:04 [ @hijijikiki ]

  

   

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●「療育園と家族が本当の信頼関係を築くために」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66056234.html

●「選挙フェス」(「みどりの風 谷岡郁子代表 代表辞任会見をめぐるやり取り」

まとめ みどりの風 谷岡郁子代表 代表辞任会見をめぐるやり取り みどりの風代表の谷岡郁子議員は、代表辞任会見で「緑の党」を、「政治のようなもの」、「政治がわかっていない」と批判。この発言をめぐり、野党の選挙協力や官僚支配、永田町政治などなどについてのやり取りを、主にまとめ主のタイムライン周辺でまとめました。 ●追加しました。更に、緑の党・三宅洋平氏・山本太郎氏関連のツイートなどを追加しました。 ● 「三宅洋平2013年7月20日選挙フェスでのスピーチ」の動画、書き起こし、抜粋ツイートを追加しました。 ■関連するまとめ、記事、動画: ★「参院選投票日直後の緑の党と選挙あれこれ」http://togetter.com/li/537819 ★「20130720選挙フェス三宅洋平スピーチ文字起こし」http://blog.livedoor.jp/takeyabu31/arc.. 8079 pv 42 7

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  ③

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。実は、先週読んでエントリーを書いたものの、なんか中途半端だなぁ、と思ってアップするのを迷っていた本があるのですが、インドの不可触民を仏教に改宗させることでカーストのくびきから彼らを救済しようと奔走している型破りな僧侶の密着ドキュメンタリーのようなものです。今朝いただいたコメントを読ませてもらって、私のエントリーは中途半端だけれど、やっぱりアップhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63732219.htmlすることにしました

2013/11/14(木) 午前 8:34 [ spi*zi*ara2 ]

なんというのか、わが身が汚れることをいとわずに他者のために行動する人にはかなわない、というのが最も強い感想だったのです。清濁併せ呑まないと結局は何もできない、というような。でも、そこで終わってしまったのでは、じゃぁ行動できないは何も言う資格はないのか、という話になってしまいかねないし、たぶん行動できた人だけが特別な人だというわけでもないのではないか、いろんな人がもっと目立たない形であれ行動しつつ闘いつつ生きているのではないか、とも思ったりするので、その先をまだまだ曖昧模糊としたままぐるぐると考えているところなのです。いただいたコメントがとても参考になるように思います。引き続き考えていこうと思います。ありがとうございました。

2013/11/14(木) 午前 8:35 [ spi*zi*ara2 ]

ついでに、障害のある子どもを持つ親として「行動する親」という呪縛について考えたことを書いたエントリーhttp://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65978578.htmlを以下にTB

ただ、これはやっぱり一種の当事者がその自らの当事者性について語るということを巡る話なので、文脈がちょっと違うかもしれない。上記OTさんやその他専門職や学者のように「業績を作ること」に繋がる文脈とも、考えてみれば笹井さんのような生き方そのものであるような人は、また違うんだろうな、とも思う。でも、そこのところを線引きする必要があるのか、純粋に他者のためでなければいけないのか、そんな特別な人間でないといけないのか、人のやることはすべからく「全肯定か全否定」にはできないんじゃないか、というのもある。

こういうのは実はアマゾンで佐々井氏の著書に寄せられたレビューの中に、正統派の仏教ではないから、寄付された金を使い込んでいるとの疑惑があるから、という根拠で全否定するものを読んだことから考えている。このレビューアーが「権威ある学者の方々が結論づけています」と書いているところがまた、とても興味深いなぁ、というのも併せて。

2013/11/14(木) 午前 8:53 [ spi*zi*ara2 ]

あ、これはそっちのエントリーのコメント欄に書くべきだったかもしれない。

2013/11/14(木) 午前 8:54 [ spi*zi*ara2 ]

  

   

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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:
★「小林三旅『男一代菩薩道』 2013/11/14(木) 午前 8:17」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63732219.html

●spitzibara氏のブログ【Ashley事件から生命倫理を考える】:
★「「行動する親」という呪縛 2013/1/9(水) 午前 8:43」
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/65978578.html
「生活書院のHPで毎月初めにアップされているWeb連載
福井公子さんの「障害のある子の親である私たち――その解き放ちのために」の
4回目、「勇気」「運動会」「ケイタイ」「虐待」の4編を読んだ。
  (…………)
福井公子さんの「勇気」から。

たとえば、若い親たちが「保育所が少ない、子育て支援が不十分だ」と訴えた時、社会の人は「不平ばかり言ってないで、自分たちで保育所を創ったらどうなんだ」と言うでしょうか。……(中略)……

「それであなたの息子さんに良い支援が届かなかったら、どうなんだ」と言われるかもしれません。そうだとしても、「それは私の責任ではない」と言いたい。つまり、私たち親が「それは社会の役割だ」。そう言い切きる勇気がなかったのではないか。……(以下略)

  (…………)」

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  ④

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 @hijijikikiの投稿:

佐々井秀嶺氏のエントリー(私は任侠道系の中村哲医師を連想しました)と、『「行動する親」という呪縛』のTB、ご紹介ありがとうございます。共通する点と違う点があって、この二つの対比は興味深いです。

spitzibaraさんのコメントの:
『じゃぁ行動できないは何も言う資格はないのか』>での“行動”と、
『いろんな人がもっと目立たない形であれ行動しつつ闘いつつ生きている』>での“行動”との違いは何なのか?その違いが重要なのか?

その違いはこの社会、世間で認められるような、主流の目から見た“良い”とされる評価基準(入試で合格や大会出場など)を満たすのが前者の“行動”であり、そうではない、“やって当たり前”とされるのが後者の“行動”でしょう。

この二つの“行動”の違い(を感じること)と、引け目・負い目・負債の問題は関連してそうです。
また、競争による序列化によって、ある一定の業績や能力がないと参加資格がないとされると考えるから(入試や競技の選抜は“参加資格”であり、これらに準じてものごとを考えるから)、ということも。

2013/11/18(月) 午前 2:01 [ @hijijikiki ]

更にこの二つ、負い目・負債を負わされることと業績・能力による資格にとらわれることとの複合という場合もあるのでは(今のところそんな気がしています)。

(また仮に、「純粋に他者のため」にしている行動があるとしても、そこにも「他者のためにどのくらい貢献したか」ということを、行動する本人は意識せざるを得ないので、そこにも業績主義が入り込むのは不可避ではないか、と思います。同様に負い目・負債を感じることもあるのでは。)

これに対しては、「松井のホームラン」(ちょっと古いですねw)に匹敵する業績がないと野球をする/語る資格はないのか?草野球や実業団ではダメなのか?というカウンター・反論でよいのでは。
松井に匹敵しないライバルのプロ野球選手は確かに野球を評論しづらいでしょうが、全くレベルの違う草野球の選手やファンは何の気にも留めずに評論し放題でしょう。
というところがまず第一点目。

2013/11/18(月) 午前 2:02 [ @hijijikiki ]

次に、TBの『「行動する親」という呪縛』について。
この「呪縛」という言葉は、話の内容ととてもぴったりしていて、起きている事態を冷静かつ的確に見るために役立つ言い方だと思います。
これで思い出すのは、「文句ばっかり言っているのは現実的でない。実現可能な対案を出せ。」というよくあるバッシングです。

TBのエントリーの福井公子さんの引用:
『若い親たちが「保育所が少ない、子育て支援が不十分だ」と訴えた時、社会の人は「不平ばかり言ってないで、自分たちで保育所を創ったらどうなんだ」と言うでしょうか』
この前後の福井公子さんの指摘は、相手の土俵に乗らないことを表明し、相手の作った土俵に不備があることを示す、とても重要なものだと思います。

これは、「社会の人」の考える「社会の問題」に保育所や子育て支援は入っているが、障害児の親の会は入ってない、という指摘でしょう。

これには、前に述べた、家庭内介護が“常識”だった介護が、介護保険で「社会の問題」=社会が担うべきもの、に変わってきたことからも、制度(=社会)を変えると、人の意識も変わるというカウンターが有効なのでは。

2013/11/18(月) 午前 2:03 [ @hijijikiki ]

さて、この『「行動する親」という呪縛』を広げて言うと、「もっとできるはずなのに、なんでやらないのか」という呪縛に含まれるように思えます。

ここで、この例の逆に見えて、共通するところのある言葉、「犠牲の累進性」を思い出しました。
「犠牲の累進性」は、spitzibaraさんとの以前のやりとりでご紹介しましたが、拙まとめ『(続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか』http://togetter.com/li/410124に収録されている説明を引用

「…大学生なんかよりもフリーターのほうが大変でしょう、いやいやフリーターなんかよりも高齢者で貧しい人たちのほうが大変でしょう、それよりも、それよりも...というような形で、社会的なものがより狭い範囲に縮減されてしまう」

という、「あなたより悪い状態の人がいるので、あなたには文句を言ったり、発言する資格がない」
というバッシング、呪縛(をかける/かけられること)となりうる、負い目・負債を負わせるような事態を言っています。

2013/11/18(月) 午前 2:04 [ @hijijikiki ]

この二つを対比して、「犠牲の累進性」という言い方を真似して、「もっとできるはずなのに、なんでやらないのか」という呪縛のことを、とりあえず「業績の累進性」と呼ぶことにしました。

これら二つの呪縛、「犠牲の累進性」と「業績の累進性」は、人の引け目・負い目・負債につけ込む/を作り出すところがとてもよく似ているように感じます。

最後に、上記の二つの呪縛を初めとする、負い目・負債を軽減し、振り払うのに役立つ言葉を:

「われわれは自然に、あるいは社会、地球、宇宙、先行世代‥に無限の負債がある‥それに対して返報する方途は‥ないでしょう。そしてそれ以前に‥(無限の負債に対して)どのように返報するか決定できるのは、私だけなのです。」(デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために』p114-5)

2013/11/18(月) 午前 2:06 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、「草野球」の喩えはたいへん分かりやすいですね。「業績・能力」による資格で行く人ならまだしも、草野球でも業績や能力を認められるのでしょうが、自分を守るものとして「権威」を資格にしている人たちは、他者の業績や能力を認めざるを得なくなれば、それに自分が脅かされるものだから、「オマエなんか所詮は草野球じゃないか」と粘着的な攻撃に走り、相手を全否定しますよね。そういう人たちが自分を安全圏に置いておくための他者攻撃の常套手段として、確かに「犠牲の累進性」と「業績の累進性」は言えてますね~。

2013/11/18(月) 午後 7:50 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

『自分を守るものとして「権威」を資格にしている人たちは、他者の業績や能力を認めざるを得なくなれば、それに自分が脅かされ‥攻撃に走り、相手を全否定』>はい。spitzibaraさんは酷いコメントの被害に遭われたとのこと、嫌なヤツがいるもんです。

「権威」を自分を守るために使う人は勿論、『「業績・能力」による資格で行く』ような人でも、権威を笠に着て人を支配しようとしたり、人を貶めたりする人はいるのでは。

能力があり、ある分野で業績をあげていて、その分野で高く評価されていても、冷酷で弱い立場を踏みにじるような人も少なくないでしょう。

特に「業績・能力」に加えて、「人間力」即ち人を支配して組織や集団で上手くやってゆく能力の高い人間が、権力を笠に着て組織や社会を牛耳り支配することの害毒の方が大きいのではないでしょうか。

2013/11/22(金) 午前 0:28 [ @hijijikiki ]

そういう人は、政治家は勿論、学者にもいて、「御用学者」と呼ばれる人々はその典型かと。
それに対して、自分たちの権威を善用して、支配層や主流の言説に異議を唱え、まともな発言をする学者もいます。とりあえず「反御用学者」と呼ぶことにします(笑:あんまり良い呼び方でないような)。

前に話題になった、放射能危険派(予防原則重視)や、低線量内部被曝重視の人たち、影浦峡氏、島薗進氏、押川正毅氏などなどがその例です。これらの「反御用学者」は、自分の業績・能力や地位や権威を活用・善用して、「御用学者」の虚言や世論操作に対して真っ当な反論をし、彼らの地位や権威の悪用を暴き、弱い立場の側に立って発言していて、それはspitzibaraさんも同じだと思います。

この「御用学者」と「反御用学者」のように、自分の持つ業績・能力や地位や権威を悪用したり善用したりする人がおり、そしてそのそれぞれの側に、その権威を認め、支持し、信奉する人々がいて、はじめて権威が権威となるのでしょう。

2013/11/22(金) 午前 0:30 [ @hijijikiki ]

前述した「尊厳」と同様に、「権威」があると認められている人の場合も、社会の中心にいる主流の強い立場の人であり、一般に羨ましがられ、信奉され、憧れのまとになるような人々でしょう。

問題はその「権威」を認められている人の内実と、それを信奉する・選ぶ側が何を「権威」=選択の基準とするか、ということだと思います。
芸能人やスポーツ選手などの「権威」(あまりこうは言わないかもしれませんが)の選考基準は、かっこいいとか、何となくすごいとか、ホームランをたくさん打つ(業績がよい)でも何でも、それが非合理的であっても、選ぶ人の好みでよいでしょうが、政治家や学者などが同じような非合理的な基準で選ばれてよいのか?ということです。

即ち、芸能人やスポーツ選手は、非合理的な基準(見た目や単なる憧れなど)で選んでもよいだろうが、我々の生活や社会制度の根本に大きな影響を与えたり、決定権を持つような地位にふさわしい「権威」者を、非合理的な基準で選ぶことは、民主主義を破壊することにつながる恐れが強いと思います。

2013/11/22(金) 午前 0:31 [ @hijijikiki ]

権威者を信奉し、それに従うという現象が多くの人間集団に見られるのは、集団を維持してまとまって行動することが、生き残りに有利なために、こういう形質を持つ個体や集団が生き残ってきた(そのような遺伝子が残った)のでしょう。

「人(指導者・権威)を信頼して協力しよう」という傾向や考えに基づく行動が、人間の基本的な性質としてあるならば、その発現と現実への影響をいかに民主的なものにしてゆくか、が問題だと思います。

それには、我々の生活や社会に大きな影響を与えたり、決定権を持つ「権威」を非合理的な基準で選択してしまう愚行を批判すること、「反御用学者」がしたような批判、「王様は裸だ」と叫ぶこと(確か「spitzibaraさんがそうしている」と言われたとか)が必要で重要なのではないでしょうか。

2013/11/22(金) 午前 0:33 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。そういえば「裸の王様」という言葉からあの人やこの人やいろんな顔がたちどころに頭に浮かぶ。そういうのがあっちでもこっちでも跋扈する世の中になりましたね~。自分が脅かされている人はすがりつくものを必要とするし、脅かされやすい人に限って強さを装うことで自分を持していこうとして、強さを演出し自分に対して証明してみせるために他者を貶める必要が生じてくるし。ここでおっしゃっているような「権威」のカラクリは、そのまま前に書いてくださった(押し付けられた)「負債」のカラクリに通じていきますね。

2013/11/22(金) 午前 8:11 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

ご指摘の、『「権威」のカラクリは‥(押し付けられた)「負債」のカラクリに通じていきますね』>はい。この辺の相互作用というか、これらが相互に増幅し合って、事態をより酷くしてゆくことが、最近の(とういか西洋近代以降の)世の中を恐ろしいものにしている大きな原因ではないのかと、このところ思ってます。

更に、ご指摘のように、『自分が脅かされている人はすがりつくものを必要とするし、脅かされやすい人に限って強さを装う‥他者を貶める』ということは、以下に述べるようなことが要因かと。

即ち、この世の中・社会の状況が、その人が「存在していること、生きている」ことよりも、「“何者か”にならなくてはならない」「何者なのかを問われる」度合いをどんどん強め、過度な競争や選別や能力・業績主義で、“脅かされ”度がどんどん増えてきたことが、これまでお話ししてきた種々の要因の中の中心的なものの一つに思えます。

その結果更にすがりつくもの・権威や、熱狂・陶酔・アディクションできる/させてくれるものにしがみついたり、他人をおとしめたり‥‥という悪循環がぐるぐる回り、悪い相乗効果の渦を作っているように見えます

2013/11/24(日) 午前 1:57 [ @hijijikiki ]

その悪循環の渦が、憲法が改悪されようとしたり、秘密保護法案が通りそうになったりで、戦前を取り戻されてしまうぐらいの危機的な事態が明らかになってきて、やっと少しずつ“普通の人”がことの異常さ・重大さに気が付き始めたのでは、という感じがします。

山本太郎氏も三宅洋平氏も、「好きで政治をやっているのではない。もう黙っていられないところまで来たから、しかたがないから声をあげて行動している。私だけでは無理なのであなたもできる範囲でやれることをやって欲しい」という主旨のことを言っていますが、危機的な状況が酷くなればなるほど、こういった人たちが増えて、そういう人々の連帯や連携や協力で、違う流れ、全ての人の自由と生存を尊重する流れを作れるのでは、作りたいと思います。

中南米の多くの国が軍事独裁政権から民主化したように、流れが変わる/変えられることは、それほど珍しいことではないことを念頭に、決して諦めないで希望を持ち続けたいと思います。

2013/11/24(日) 午前 1:58 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、ご指摘の「悪循環」、私も「死の自己決定権」や「無益な治療」論で実際は論理的にちっとも整合しない議論の繰り返しによって、その対象者がじわじわといつの間にか拡大していく現象の陰に、暗黙のパーソン論とでも言うようなものが作用していて、それが論理の不整合を見えにくくしていると同時に、それらの議論が広がっていくに連れて暗黙のパーソン論をもまた広げていく悪循環が起こっているなぁ、と、考えていたところです。その外側ではもちろんhijijikikiさんが描いておられる、もっと大規模で深刻な悪循環があるわけで、おっしゃるように少しずつ何かおかしいと人々が気づき始めていれば、と祈るような思いです。

hijijikikiさんはいつも希望を持ち続けようとしておられますね。大事なことですね。

2013/11/24(日) 午後 7:49 [ spi*zi*ara2 ]

  

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●福井公子【著】「障害のある子の親である私たち ──その解き放ちのために」生活書院
http://www.seikatsushoin.com/bk/115 shogainoarukonooya.html
http://www.amazon.co.jp/障害のある子の親である私たち-福井公子/dp/4865000151
★書評・本の紹介:lessorの日記「「親たち」が自由になるための本」
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20140505/1399228075

●デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために』
http://www.ibunsha.co.jp/0267-1.html

■ 本まとめに先行する/参照しているまとめなど:
●『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』

まとめ 医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別 近藤誠医師の「がんと闘うな」や丸山ワクチン(SSM)など、主流から外れたものに対する医師や専門家の「過剰反応」。医療や科学の“権威”の問題。そして原発事故などで、「冷静さを偽装しつつ実際には思考停止した人々が自ら科学的であると称して声高に発言する」ことや「専門家が科学的態度を取り戻し行動する」こと、から始まり、エリートや専門家の社会的責任、エリートパニック、正常性バイアス、虐待的な親とAC(アダルトチルドレン)、依存と支配とコントロール、承認欲求、権威を求めること、差別の形成、言葉による概念化で連続した事象の分断、終末期医療や尊厳死・安楽死、パーソン論や能力主義などなどについてのやり取り。 spitzibara氏のブログ記事「OR州のメディケイドとPASの関係について、癌専門医の投書」http://blo.. 3009 pv 5

●『援助と政治/大局的な思想:ビルゲイツ氏の慈善vs中村哲氏の支援、三宅洋平氏の選挙フェス』

まとめ 援助と政治/大局的な思想:ビルゲイツ氏の慈善vs中村哲氏の支援、三宅洋平氏の選挙フェス ビルゲイツ氏の慈善に対する批判への議論と、中村哲「医者井戸を掘る」の医療の枠組みにとらわれない支援のあり方から始まり、 科学とテクノとそこにつながる利権や、予防医療や慈善資本主義のマッチポンプ性に対して、個々の問題の目先の解決だけではなく、山積された問題群の関係の見極めと大局的な指針を含む思考=思想について、三宅洋平氏の選挙フェスでのスピーチなど、 のやり取りをまとめました。 spitzibara氏のブログ記事「Peter Singer「利他主義のすすめ」:5000ドルの途上国支援すれば腎臓1個提供するに相当」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66596544.html のコメント欄でのやり取りをまとめました(文中の引用先URLと記事は後で追加しました)。 ■関連す.. 2236 pv 1

●『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』

まとめ 緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃 病気による痛みや辛さをやわらげる「緩和ケア」が、適切になされていない例について、それは差別ではないのか?なぜそのような差別的扱いが生じるのか?を、立岩真也「なんのための「緩和」?」と、spitzibara氏のお子さんが、手術後に不適切な扱いをされた経験の話から始まるやり取り。 これらの問題を考え、反撃するのに、 ① 差別の問題、② 人をモノとして扱うこと、③ 言葉による概念化で、連続した事象の分断、④ 能力主義や権威への服従、について。 また、整合性を求める分析的な言説である「高踏理論(ハイ・セオリー)」に対抗する「低理論(ロー・セオリー)」と、ロー・セオリー的な視点や考え方の人の事例、などについて。 まとめ『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』に引き続き、 spitzibara氏のブログ記.. 2770 pv 17

●『「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か?』

まとめ 「どうせ死ぬんだから‥」/『終末期』医療は差別か? 癌とかアルツハイマー病になったら即、『終末期』だというイメージが先行して、 「どうせもうすぐ死ぬのだから大したことやんないよ」という対応をしているのではないか? 『終末期』という名付け=ラベリング=レッテル貼りによる、イメージ操作・印象操作によって、普通の医療が受けられなくなっているのでは。 spitzibara氏のブログ記事「2013年3月20日の補遺」のコメント欄でのやり取りをまとめました。 ●追加しました。⇒同ブログの「『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』書評を書きました」のコメント欄でのやり取り。 ■本まとめに続くまとめ: ●『緩和ケアの差別的な使われ方と、ロー・セオリーからの反撃』http://togetter.com/li/485134 ■関連する記事やまとめ: ●spitzibara.. 4872 pv 8 1 user

●『ナショナリズム・レイシズム・差別と、相互的な交流/を阻むもの』

まとめ ナショナリズム・レイシズム・差別と、相互的な交流/を阻むもの とりあえずまとめました。 ツイートの順を変更している部分があります。 ●追加しました。 ●3月14日の「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」関連まとめと、その一部のツイート及び関連するツイートを引用・追加しました。更に追加しました。 ●3月20日のやり取りを追加しました。更に、また更に追加しました。 ●『差別的デモ・街宣に抗議する会「ヘイトスピーチ・デモの排除を目指して、新大久保から。」』http://anti-discrimination-action.tumblr.com/ についてのやり取りを追加しました。更に追加しました。 ●まとめ『「しばき隊/仲良くしようぜ」的な 反在特会カウンター を擁護する高林敏之氏への批判』http://togetter.com/li/476388 と、まとめ主@Bene.. 16321 pv 190 10 users 3

●『(続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか』

まとめ (続)がんばりすぎる障害児の母たち:家族を介護するケアラーをどう支援するか 本まとめは、まとめ「がんばりすぎる障害児の母たち‥」http://togetter.com/li/410117 からの続きです。 まとめ『「どうして障害児を生むことをそんなに恐れるんだろう」から始まったやり取り』 について、重度心身障害児の母のspitzibaraさんとの、同氏のコメント欄でのやり取り。 『母親仲間が「がんばっていない母親」を批判する時に、その口調は何故こんなに激烈になってしまうのだろう』などの観点から、家族を介護するケアラーへの支援をどうするのか、などなど。障害児の母のmomongazetさん、なんさんのコメントも加えました。 コメント欄に書き込めなかったリンクを付加しました。 ■長くなったので2つのまとめに分割しました。 ●追加しました。 ●本まとめのやり取りを、コメント欄から引用した.. 5312 pv 40

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 ● 【 まとめ後の追加 】

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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:

 ★「「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文」

2014/3/25(火) 午前 11:05
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63939832.html

2011年に創刊された『人間と医療』という雑誌の創刊号に掲載されている
永嶋哲也『尊厳の変容―卓越、価値そして自尊へ』という論文が面白いと
お知らせいただいたので、早速に読んでみた。

最近、death with dignityのスタンダードが
「救命不能性」や「終末期」から「許容できないQOL」へと急速にシフトしていることについて、
それを「尊厳」概念の「世俗化」と捉え、批判的に考察するもの。

以下から読めます。
http://pe-med.sakura.ne.jp/kyushu/?page_id=190

  (....省略....)

終盤では、
「尊厳」が「死」と結びついた「尊厳死」(death with dignity)では
「尊厳」の世俗化によって「尊厳」が「自尊感情」を意味するようになったことを
映画『ミリオンダラー・ベイビー』と
2008年にディグニタスで自殺した米国人のALS患者Craig Ewertさんの事例から
明らかにする。

  (....省略....)

この論文の結論の最終部分は、

 さて、以上のような考察を踏まえれば、「尊厳死」という言い方は、不適切とは言わないまでも、正確な理解を導くのに最適な用語であるとは言いがたいとわかるであろう。「尊厳死」という考え方は、人間としての尊厳を保って終末期を生き死を迎えることを理想的には定義できるだろうが、実際には自尊感情を守るために自ら死を選択することとでも表現すべき内容になっているからである。

 

「尊厳」という語は長い伝統を持ち、宗教的な理想や人権思想の根本も担ってきた非常に格式のある言葉である。何やらとても立派でありがたそうな語感を持った言葉である。その言葉を用いて「尊厳死」と表現することで重要なそして同時に非常に微妙な事柄が覆い隠されてしまっているのではないだろうか。言うまでもなく自尊心はキリスト教倫理ではいわゆる「七つの大罪」と呼ばれる罪源の一つであった。「尊厳死」というなにやら厳かな表現を捨て、いっそ「自尊死」という身も蓋もない言い方をしてみてはどうだろうか?その上で、それがわれわれにとって望ましいものかどうか議論すればよい。そうすれば今よりも少しは話の噛み合う議論になるのではないかと思う。

  (....省略....)

 

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リンク 海やアシュリーのいる風景 「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文 - 海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ 2011年に創刊された『人間と医療』という雑誌の創刊号に掲載されている 永嶋哲也 『尊厳の変容―卓越、価値そして自尊へ』という論文が面白いと お知らせいただいたので、早速に読んでみた。 最近、death with dignityのスタンダー...

 ● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り

   (spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。

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 @hijijikikiの投稿:

大変ご無沙汰しています。@hijijikikiです。
昨年にコメント欄でやり取りしていただいたもののtogetter"まとめ"をやっと作りました。
以下の4つです(コメント欄の下の署名からのリンク、又は題名の検索で見られると思います)。

前のコメントで「近日中」と書いたのが大変遅くなりましたが、お暇とご興味があればどうぞ。

『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』http://togetter.com/li/698166
『援助と政治/大局的な思想:ビルゲイツ氏の慈善vs中村哲氏の支援、三宅洋平氏の選挙フェス』http://togetter.com/li/698196
『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』http://togetter.com/li/698673
『相手の立場が見えない/を決めつけることと、虐待的な親のような場所になってゆく世の中』http://togetter.com/li/698705

2014/7/28(月) 午前 1:19 [ @hijijikiki ]

3つ目のまとめ
『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』
で「尊厳死」についてやり取りしましたが、その後のspitzibaraさんの
永嶋哲也氏論文http://pe-med.sakura.ne.jp/kyushu/?page_id=190の「自尊死」を取り上げた上のエントリーで、他にも「尊厳死」の尊厳という言葉の使い方に違和感を持った人がいる、ということを教えてもらいました。

前記論文の
『…「尊厳死」というなにやら厳かな表現を捨て、いっそ「自尊死」という身も蓋もない言い方をしてみてはどうだろうか?その上で、それがわれわれにとって望ましいものかどうか議論すればよい。そうすれば今よりも少しは話の噛み合う議論になるのでは…』
はシンガーらの尊厳死派の主張に対するとても見事な返し技だと思います。
前記まとめでの私の「尊厳ではなく、負い目・負債を負いたくない、迷惑をかけたくない」という動機で尊厳死やPPKに賛成してしまう、ということとも関係し合うところもありそうです。

ということで、永嶋哲也氏論文のご紹介ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

2014/7/28(月) 午前 1:21 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、お久しぶりです。togetter、ありがとうございます。

ちょうど先週末に某所でこういう問題についてお話させていただいたんですけど、その折に「生きていることを幸せだと感じることの出来ない人にとってのいのちの尊厳とは何か」といったご質問があって、その方と後で個人的にお話した際にこの「自尊死」論文のことに触れたら、とてもやり取りが噛み合いました。そういうことがあったばかりなので、このエントリーにコメントいただいて、とてもしっくりきます。

またtogetterで、いろいろもう忘れていた考えの断片がよみがえってくると、そこにある、例えば「批判に過剰反応する専門家」の問題、つまり「専門性の権威を守る問題として科学を語る姿勢そのものが実は非科学的である」という問題は、ちょうどここのところ考えている scientific establishment の問題とぴったり重なっているなぁ、と。togetterにしてもらうと改めて見てくるものがありますね。ありがとうございます。

2014/7/28(月) 午前 8:59 [ spi*zi*ara2 ]

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