Hikasuke333氏による歩兵射撃戦術発展史第一次大戦編~「戦闘群戦法」の誕生~

Hikasuke333さんが、歩兵の射撃戦術がいかにして発展してきたかについて解説してくれました。
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なつき @Hikasuke333

第1次大戦前における歩兵射撃戦術は「歩兵の最有効距離は中距離であり、それ以内では効力がかえって減滅する」方式を基礎としていた。これは1877年の露土戦争の教訓から生まれたもの。

2014-08-02 00:29:09
なつき @Hikasuke333

中距離、すなわち700-800mで射撃の効力を発揚しようとしたら、個人では目測距離・照尺など一致し難いので集束弾道により射弾を目標に導くようにし、歩兵射撃は部隊射撃を本則とした。そしてその一変形として一斉射撃の方法を用いる軍隊もあらわれた。

2014-08-02 00:29:29
なつき @Hikasuke333

歩兵中隊長の一号令により射弾の集散を適用にしようとしたためである。 日露戦争では、日本が前者、ロシアが後者を採用していた。 小沼大佐の論文では、日本軍の陣地攻撃は一般に500m前後で頓挫している。 アジ歴C13110412900

2014-08-02 00:31:32
なつき @Hikasuke333

日本軍はドイツ式、ロシア軍はフランス式だったので第1次大戦の初頭でもこれが反映されていた。

2014-08-02 00:32:44
なつき @Hikasuke333

しかし、大戦では両軍ともに砲兵の数がいちじるしく増しただけでなく砲兵技術が進歩したために300m内までは砲兵のほうが有利で、超過射撃のできない300m内が歩兵が真に独特の戦闘力を発揮できる距離になった。

2014-08-02 00:33:18
なつき @Hikasuke333

くわえて、防者はなるべく体を現さないようにしたために射撃効力は中距離ではなく近距離で効果を表すようになった。 西部戦線が陣地戦となるやこの傾向はますます増し、もはや中隊をもってする部隊射撃は特別の場合となり、漸次射撃単位は低下していき、個人射撃が採用されていった。

2014-08-02 00:33:50
なつき @Hikasuke333

ことに接戦が多くなるやこの傾向は顕著になり、歩兵唯一の兵器は手榴弾であるとまで言われ、小銃射撃は第二位となった。

2014-08-02 00:34:33
なつき @Hikasuke333

射撃単位が低下すると同様に突撃単位も減少。1914年末には、すでに突撃は歩兵半小隊の一群をもって実施される傾向を呈した。しかしこれはせまい鉄条網の破壊口を通過する必要にかられたためで、やむをえずの処置と考えいまだ突撃単位を低下するに至らなかった。

2014-08-02 00:35:04
なつき @Hikasuke333

防御陣地が大戦初期一線であったように攻撃歩兵の突撃隊形もさいしょ濃密な一線だった。ドイツ軍が数線陣地を占領するに至っていたにもかかわらず、1915年4月16日付フランス軍教令によれば、一挙に敵船を突破することを夢見て依然中隊をもって濃密な一線の散兵となすことを規定していた。

2014-08-02 00:35:32
なつき @Hikasuke333

1915年9月のシャンパーニュ戦でフランス軍は大損害を被ったので、この後は必要により中隊を二波以上の縦長区分に配備することを認めるに至った(1916年1月16日付教令)。

2014-08-02 00:35:48
なつき @Hikasuke333

ドイツ軍側では、1915年4月14日の独第3軍の策定した攻撃要領によれば、第一線中隊は4-6層の波状を形成するをよしとした。1916年のヴェルダン戦では、三波以上の突撃部隊をもって突進し、突撃単位は半小隊または小隊に低下することになった。

2014-08-02 00:36:25
なつき @Hikasuke333

1916年のソンム戦で、フランス軍は軽機関銃を大量に使用するようになり、1916年2月23日の教令では軽機関銃の使用法を重機関銃の使用法に準拠している。

2014-08-02 00:44:20
なつき @Hikasuke333

軽機関銃は、"突撃に任ずる第一波"や"塹壕の掃蕩に任ずる第二波"に同行するのではなく第三・第四波に付し、第一波が停止するや奪取陣地確保のために第一線に進出して支点を形成する。また、攻撃部隊がふたたび前進するときは前方地区を火制し、その前進を援護した。

2014-08-02 00:48:42
なつき @Hikasuke333

(ココマデ『世界大戦の戦術的観察(第2巻)』kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid…

2014-08-02 00:50:12
なつき @Hikasuke333

1916年までの英仏軍の歩・砲兵は以下のように推移している。

2014-08-02 00:58:36
なつき @Hikasuke333

フランス軍1916年9月27日発布の教令では、従来"第二線"に使用することを本則としていた軽機関銃を"第一線"に使用し、他の兵器と協同して局地の戦闘をなすことに改正している。

2014-08-02 01:02:47
なつき @Hikasuke333

「攻撃においては、軽機関銃は第一波に使用し、擲弾兵が追い出した敵を軽機関銃により射撃し、また逆襲がある場合にはただちに火力を発揚する。そして突撃兵たる軽歩兵は第二波に位置し、第一波により損害を与えた敵を撃滅する」

2014-08-02 01:05:09
なつき @Hikasuke333

しかしその指揮系統は歩兵小隊長の統一指揮下にあり、歩兵下級指揮官の独断能力を無視し、これを機械的に動かそうとすることは前と同じであった。

2014-08-02 01:07:25
なつき @Hikasuke333

1917年9月10日発布フランス軍大本営教令により歩兵半小隊をもって歩兵の最小戦闘単位とし、この内に軽機関銃手と小銃手を編入した。これら小単位の機宜に適する敏活な運動ならび戦闘により、某小範囲の戦闘を独力で遂行しようとするにいたり、歩兵戦術はここに根本的に変化するに至った。

2014-08-02 01:12:10
なつき @Hikasuke333

「これすなわち(第1次大戦)戦後の一新原則とする"戦闘群戦法"の最初の教令とす」(と旧軍は書いている)

2014-08-02 01:14:08
なつき @Hikasuke333

この教令による戦闘群は、 軽機関銃x1(弾薬手とともに3名をもって一組とする) 擲弾銃x3(ライフルグレネードを発射する小銃) 擲弾歩兵x7(小銃と手榴弾を携行) より成り、下士官が隊長となった。

2014-08-02 01:24:42
なつき @Hikasuke333

例を挙げれば、敵の一機関銃の抵抗を受けた時はまず軽機関銃でこれに応じ、その間に戦闘群内の他兵は地形をぬって接近する。擲弾銃の有効射程(150-200m)に入り、なお敵が抵抗する場合は、擲弾でわが軽機関銃火を増援して敵機関銃の制圧を図る。

2014-08-02 01:31:29
なつき @Hikasuke333

この間に擲弾歩兵はさらに接近して手榴弾の有効射程に入る。敵がなおも抵抗していたら、手榴弾をもって爆殺あるいは制圧し、機を見て白兵をふるって突入する――これが理想的な戦闘要領だった。

2014-08-02 01:31:41
なつき @Hikasuke333

戦闘群戦法は、形式上から見るときは縦方向に柔軟性を与えある波状隊形を横断して個々に分断し、もって微細な好機をも直ちに捕えて機宜に適する戦闘をなさしめんとするにあった。

2014-08-02 01:39:19