前段_木蘭塞進軍についての疑問
晋書宣帝紀に記載された、太和元年末から二年にかけた孟達の反乱に際して呉軍が木蘭塞に出たという記述は、合理性に欠ける。
しかし、あえてそれを考えることで、戦役全体が見えてくるかもしれないと思い、考え始めることとした。
晋書宣帝紀にある、司馬懿の孟達討伐の時に、呉軍が木蘭塞に出たって言うのはにわかに信じ難いが、それが正しいと仮定して考えると、何か見えてくるかもしれない。
2014-08-04 23:26:29孟達討伐まとめ。呉の進軍については、やはり疑問が残る。何か解決する解釈を閃くのを待つ pic.twitter.com/mfrbNUup3Y
2014-08-04 23:53:41@HAMLABI3594 いや、経路的には、房陵を呉が得ていると仮定すればいけるんだよね。でも、想定される経路の優先度や、戦略的意義が小さいんだよ
2014-08-05 00:47:20@Jominian 房陵からだと木蘭塞に向かう意図がわからんけど、襄陽西からなら漢水を遡上したと仮定すれば一番近いのは木蘭塞だから行ける気がするが、よくわからんな。
2014-08-05 01:09:13呉の意図についての仮定
呉が孟達支援のために木蘭塞に出たという話は、経路を考慮すると、それが呉の房陵領有の証左になる。呉が巫から北上したなら申儀を無視して木蘭塞に行けないので、必然的に房陵からとなるからだ。後は、その行動の、当時の呉にとっての合理性を考えればよい
2014-08-05 14:24:35@Jominian 呉の孟達救援については、孟達救援のための行動と考えるから分からないのだろう。呉が木蘭塞に出ることが、呉の覇権拡大にどう寄与するかという視点で見た方が良い
2014-08-05 14:31:16上庸の地理、孟達の目論見の再検討
孟達討伐について、司馬懿は孟達が決起してから八日で上庸城下に到達した。これは考慮する必要がある。仮に巫県から木蘭塞に向かう場合、その行程は500kmにも及ぶ。これは、孟達が決起してから向かったのでは間に合わない。巫県からなら、呉軍が魏の支配地域到達する前に孟達が敗れているだろう。
2014-08-05 20:01:07房陵から木蘭塞に向かう場合、その行程は最短の道で250kmほどである。宛から上庸は、沔水沿いを進む場合、孟達の言葉通り480kmほどの距離がある。仮に呉軍が孟達決起直後に移動を開始した場合、日に40里(16km)進むとして、8日後には約130km進む。丁度沔水に出た辺りである。
2014-08-05 20:13:42司馬懿は8日で上庸に到達したとあるが、晋書宣帝紀を読むと、孟達を手紙で油断させつつ密かに進み、孟達決起後8日で到達しただけである。恐らく司馬懿は通常の倍の速度で軍を進めたので、日に80里(32km)ほどだろう。孟達決起時には武当を越え、現在の鄖県の辺りまで進んでいただろう。
2014-08-05 20:19:24呉軍の房陵から木蘭塞への行軍、司馬懿の宛から上庸への行軍を考慮すると、仮に呉軍が房陵から木蘭塞へ沔水沿いに進んだ場合、呉軍は司馬懿の行軍の痕跡を把握していただろう。或いは、輜重を守る部隊と遭遇していた可能性も高い。強行軍は得てして後方に多数の軍を残置してしまうものだからである。
2014-08-05 20:23:47房陵から沔水沿いに木蘭塞に向けて進んだ場合、呉軍は魏軍と遭遇していた可能性が高いとすれば、魏軍を妨害するためにも、自軍の安全のためにも、これを放置して木蘭塞へ進むのは合理的ではない。したがって、呉軍が沔水沿いを通って木蘭塞へ向かった公算は低いだろう。
2014-08-05 20:26:24巫からは遠すぎる、房陵から沔水を経由した場合の戦略的合理性が著しく低い、とすれば、呉のとったであろう行動は一つである。房陵から上庸を経由して西進し、北へ出て木蘭塞へ向かう道である。これは、孟達の思惑を考慮しても、合理的な選択であろう。
2014-08-05 20:35:07結論
想定されうる孟達討伐の推移。孟達が決起するに当たり、一番の問題は不仲の申儀である。これを排除すれば上庸地域に邪魔者はいなくなる。孟達は以前から蜀呉と策を練っていたようなので、決起の第一段階として申儀討伐があった可能性は大いにある。 pic.twitter.com/jQqinv8bqf
2014-08-05 20:49:06孟達は、まず蜀呉と共に申儀を排除した上で、東より来る司馬懿に備えようとした。申儀が撃ち破られ、呉蜀が戦力を上庸に集結できるなら、山地で守りやすい上庸において司馬懿を撃退するのは比較的容易だろう。また、司馬懿不在の期間が長くなるとするなら、当然、野心に溢れた孫権が動いていただろう
2014-08-05 20:51:27