ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』読書メモ集

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男+鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫、1995)の読書メモをまとめました。
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荒木優太 @arishima_takeo

バフチンがモノローグの特徴に「断言の姿勢」を読んでいる。面白い。逆にいえば対になるポリフォニーとは言い切れなさであり、言い淀みであり、ためらいの事なのではないか。私達が吃るとき、そこには他者の声が混在している。他者を、自同律の亀裂として、〈亀裂としての他者〉として考えること。

2014-08-16 18:54:30
荒木優太 @arishima_takeo

吃りの現象は、意識と身体の不一致を明らかにする、私の身体に宿る他者性の最適な例示だと思う。吃る者は発話の不自由を先取りして、自分の言葉の前に自身がためらう。その時、アンコントローラブルな言葉は他者として現出してるのではないか。

2014-08-16 19:02:14
荒木優太 @arishima_takeo

それ故に、いくら「江戸へ還れ」が批判されようと(そして私自身、批判には同意するものの)、私は「ためらいの倫理学」(内田樹)を切り捨てることができない。

2014-08-16 19:03:42
荒木優太 @arishima_takeo

人間の思想が本当の思想つまりイデエとなるための条件は、それが他者の声に具現化された他者の思想、つまり言葉に表された他者の意識と、生き生きとした接触をすることである。この複数の声と複数の意識の接点において、イデエは生まれ、生きるのである。byバフチン『ドストエフスキーの詩学』

2014-08-17 09:39:48
荒木優太 @arishima_takeo

「ドストエフスキーの作品に、いわゆる金言とか格言とかアフォリズムといった、本来の文脈を外れ肉声から切り離されて非個人的な形をとってもその意味的価値を失わないような、単体としての思想や命題や公式がまったく存在しない」(バフチン『ドストエフスキーの詩学』)。へぇー、ちょっと目から鱗。

2014-08-17 09:43:16
荒木優太 @arishima_takeo

「ドストエフスキーが境界から、つまり敷居から遠く離れた家や部屋の内部空間を利用することはほとんどまったくない。」(バフチン『ドストエフスキーの詩学』)。目からウロコ2nd season。

2014-08-18 20:24:41
荒木優太 @arishima_takeo

「カーニバルとは、過去数千年にわたる偉大な全民衆的世界感覚なのである」(バフチン『ドストエフスキーの詩学』)。カントがスルーしたタイプのコスモポリタニズム。重要。メモ。

2014-08-18 20:27:27
荒木優太 @arishima_takeo

バフチン『ドストエフスキーの詩学』読了。素晴らしき他者論。とりわけ「すべての人が無遠慮な接触に入るべき」、「カーニバル」の概念。それは「全民衆の普遍的な催し」の「広場」。けれども、この広場は古代アテネ的な直接民主制の舞台=アゴラとは違う。哄笑い、不謹慎、冒涜などの無礼講の場。

2014-08-18 22:00:40
荒木優太 @arishima_takeo

カーニバルは、アテネ的アゴラとは異なる公共性を示す。きっと公共性には二種類ある、つまり(これは東浩紀が言ってたことだったか?)、人間的公共性=アゴラ的と動物的公共性=カーニバル的。カントやアーレントは前者の公共性しか公共として認めなかった。しかし、やはりそれだけでは足らないのだ。

2014-08-18 22:02:06
荒木優太 @arishima_takeo

バフチンにとってカーニバルはポリフォニー(多声楽)の舞台でもある。ならばアゴラ的舞台に登場するのは事前のドレスコードをパスした他者達で、彼らの声とはその点でモノフォニーではないのか。対してカーニバルでは「無遠慮な広場の発話」が許される。端的にいえばネトウヨだって他者じゃん、と。

2014-08-18 22:06:19
荒木優太 @arishima_takeo

私(プライヴァシー)と公(パブリック)。この間にカーニバル=動物的公共性を介入さすこと。私の理解では、バタイユの思想は、カーニバルと公私の対立を強調している。逆にいえば、既存の公私の区別など連続性概念の前では殆ど意味がない。どちらも安定化した「自己」の単位を自明にしているからだ。

2014-08-18 22:08:03