植民地朝鮮における農業政策の問題点について

樋口雄一「日本の植民地支配と朝鮮農民」(同成社)を読んだので、2章以降に書かれている朝鮮半島での農業政策の問題点についてまとめてみました。 1章の内容はこちら http://mikhail-1984.tumblr.com/post/91360619589
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大神 @ppsh41_1945

樋口雄一「日本の植民地支配と朝鮮農民」(同成社)読了。 今回は同書の2章以降で触れられている戦時下における米の飢餓移出と、植民地支配下における農業政策の問題点についてまとめる。

2014-08-22 01:09:08
大神 @ppsh41_1945

植民地朝鮮は総督府が稲作優先政策を採っていたために米の生産量が増加する一方、畑作物に関しては人口増にも関わらず1937年の時点で韓国併合当初の309万町歩からわずか89万歩程度しか増加していなかった。(畑作物は天水田で栽培されている米よりも天候の影響を受けにくい)

2014-08-22 01:10:40
大神 @ppsh41_1945

本来であれば畑地に適した土地であるにも関わらず水田とされ、雑穀の改良は麦の一部に事例が見られるのみで畑作の改良は稲作と比較して格段に遅れていたのである。

2014-08-22 01:10:51
大神 @ppsh41_1945

また水田は自然の降雨に頼る天水田が51%を占めており、前述の畑作物の改良と増産が遅れていた事もあって朝鮮の農業は気候の影響を受けやすい状態に置かれていた。このため1939年に大旱害に襲われ、生活基盤を破壊された朝鮮の農民が炭鉱や鉱山での募集に応じるようになる。

2014-08-22 01:11:05
大神 @ppsh41_1945

大旱害は太平洋戦争勃発後の1942年にも起こり、今度は生産量が1568万石程度であるにも関わらず日本への移出量は577万石にも達し(1939年の大旱害後である1940年度の日本への移出量は60万石程度)、以後1944年まで不作にも関わらず米の飢餓移出が行われるようになる。

2014-08-22 01:12:17
大神 @ppsh41_1945

当然ながら朝鮮の農村は深刻な食糧不足に陥り、1944年5月、平安北道北鎮公立国民学校の児童の一人が空腹に耐えかねて犯罪を犯したとして次のような概要が報告されている。

2014-08-22 01:12:29
大神 @ppsh41_1945

「同地に於ける食料規制に基づく一般の配給量は一日二合にして学童に対する昼食等は充分でなく、従って児童の体育並素行上憂慮すべきものがある」 更に同校の校長は「同校児童1392名の内食糧不足のため昼食を持参しないものが約三分の一の460余名も居り彼等はいずれも活気なく学業、

2014-08-22 01:12:42
大神 @ppsh41_1945

運動とも充分出来ぬという状態である」と発言している。 このような食糧事情は1942年の時点でも総督府がまとめた「経済治安情報」などにも多く掲載されており、戦局が悪化する以前から朝鮮では食糧難に悩まされていた事が伺える。

2014-08-22 01:13:00

この本では書かれていませんが大旱害や米の供出によって離農し、行き倒れて死亡した農民の人数は1939年~1942年までの4年間で2万2651人にも達します。(朝鮮総督府統計年報)

更に朝鮮総督府官報によると餓死及び栄養不良が死因として最も多く、また親族が判明した場合などは官報に掲載されないため実際の死亡者数は更に多かったと考えられます。

大神 @ppsh41_1945

米の出来具合は1943年度と1944年度も不作だったのだが、こちらは天災よりも ・海外から輸入が途絶えた事による肥料の不足 ・鉄の不足に伴う農機具の不足 ・戦時動員による農村の労働力の不足

2014-08-22 01:13:22
大神 @ppsh41_1945

・農業に希望が持てない農民の離村(著者である樋口氏は生産性の低い農家を無くすのが朝鮮総督府の方針だったとしている) といった要因が大きい。特に肥料の軍事転用と太平洋戦争勃発による海外からの輸入の途絶による肥料不足は深刻であり、自給肥料の生産も労働力の不足や、

2014-08-22 01:13:46
大神 @ppsh41_1945

朝鮮農民に伝統的に行われていた方法以外での肥料生産のノウハウが無いといった問題が存在していた。 1942年から三年連続の米凶作を受けて朝鮮総督府はそれまでの農業政策を転換し、米の品種を小肥多収の物に変更したり、

2014-08-22 01:14:09
大神 @ppsh41_1945

天候の影響を受けやすい天水田に水稲畦立栽培法を採用する事で自然災害のリスクを減らし、米の生産の保障を図ったのである。(畦立栽培法は朝鮮在来の農法であり、朝鮮の気候・風土に適応していた)

2014-08-22 01:14:21
大神 @ppsh41_1945

農法の変更と同時に農民に対する米穀の供出対策要綱でも、三反歩以下の農民からは米の供出を行わない事や自家消費文の米の自由処分を認め、農業生産に希望を持てなくなっていた朝鮮農民への救済策を打ち出した。(実際には1945年6月に決定された後の8月に敗戦を迎えたので実施されなかったが)

2014-08-22 01:15:05
大神 @ppsh41_1945

また常習旱魃天水田対策として、常習旱魃天水田50万歩の内10万歩を畑地にする事が決定された。これはそれまでの稲作中心農政からの転換を意味する画期的なものであり、朝鮮総督府は朝鮮農民の米の消費を抑えてその分を日本へ移出しようとしたのである。

2014-08-22 01:15:16
大神 @ppsh41_1945

しかし常習旱魃天水田を畑地に転換するのは容易ではなく、そもそも常習旱魃天水田というのは地力が低下している土地が多かったのに加え、畑作物栽培経験のある労働力の確保や畑作用の農具の確保・その土地に合った農作物の選定など多くの課題が存在しており、

2014-08-22 01:15:30
大神 @ppsh41_1945

戦局が悪化していた1945年当時にこれらの課題を解決するのは不可能に近かった。前述の水稲畦立栽培法に関しても裏付け資料こそ残っていないものの、肥料の不足や労働力の不足からあまり普及しなかった可能性が高く、成果はさして上がらなかったと考えられる。

2014-08-22 01:15:41
大神 @ppsh41_1945

本書では植民地朝鮮における農政破綻の原因を次のようにまとめている。 1.畑に向いている土地までもを水田として米の増産を図ったこと 2.畑作改良をほとんどせずに米の単作化を推し進めたこと

2014-08-22 01:16:21
大神 @ppsh41_1945

3.日本で行われていた平畦栽培法を朝鮮に持ち込み、朝鮮在来の農法であった畦立栽培法を大戦末期に至るまで無視していたこと 4.日本で開発された肥料を多く必要とする品種を朝鮮に持ち込み、朝鮮の風土に合った朝鮮在来の品種を無視していたこと

2014-08-22 01:16:34
大神 @ppsh41_1945

5.商品となる米や綿花の栽培を奨励し、朝鮮農民の必需品である大豆や麦をないがしろにしたこと これらの朝鮮総督府の農業政策が原因で朝鮮の農業は気候の変動を受けやすい体質となり、1939年と1942年の大旱害を招いて多大な社会的混乱を引き起こす事になった。

2014-08-22 01:16:52
大神 @ppsh41_1945

韓国併合後、確かに朝鮮における米の生産量は大きく増加したが、朝鮮在来の農法を無視した事で結局はありがた迷惑に終わってしまった事を本書は示しており、生産量や人口の増加をもって日本の朝鮮統治は善政であったとするリビジョニストの主張を根本的に揺るがす良書であるので是非とも読んで欲しい。

2014-08-22 01:17:28