「フタバスズキリュウと福島県いわき市」http://togetter.com/li/709894の続き。
しかし、こんな地域理解は日本中、どこでも、本当に古くまで遡れるのであって、別に福島県とかいわき市とかに限った話ではない。日本中どこでも。京都なんて実に新しいというべきだ。なぜなら、昔は京都も大阪湾の続きで、海だったからだと思う。人が住んでいなかった。それが京都の実態だ(笑)。
2014-08-23 04:08:13@y_mizuno 些末ですが、縄文海進のピークでも海岸線は現在の東大阪あたりで、少なくとも最終氷期以降、京都が海だった時期はないはずです。貝塚が見つかる最も内陸寄りが、ヒトが住みだして以降の海進の目安となります。
2014-08-23 05:14:35@y_mizuno 逆に海退の時期には大阪湾はなく、淡路島まで陸続きでした。現在の大阪湾から大阪平野にかけては何度も海進と海退を繰り返しているため、沖積層は砂(陸の時期)と粘土(海の時期)の互層状態になっています。
2014-08-23 05:24:10@f_zebra 京都が海の一部だったというのは、(正確ではありませんが)何十万年も前のことで、そういう地図(地質的な想像図か)を見たことはあります。「大阪の歴史」、みたいな本です。最後の氷河期との関連で起こった、縄文海進、海退のことではなくて。でもそうすると人が問題ですか…。
2014-08-23 09:37:04@f_zebra (京都地域に)誰も住んでいなかったというのは、恐竜もいなかった、ということに解釈したとしても、大阪では待兼ワニなんていましたから、似たようなものですか。ご指摘、ありがとうございます。それでも京都で古代遺跡が出たということは聞きません。
2014-08-23 09:41:27あまり知られないが、京都はかつて(数十万年以上前)海だったこともあり、京都盆地の岩盤は今の地面より約60mほど下にある。実はこれこそ伏見の美味しい酒の理由(盆地での伏流水の湧き水)。この時代の大阪湾を古大阪湾、京都盆地は古京都湾と呼ぶ。dpri.kyoto-u.ac.jp/nenpo/no46/46b…
2014-08-23 12:33:24京都の平安時代には、右京の方は湿地が多かったらしくて、応仁の乱の後、一帯が放置されると、右京のあたりは湿地で使えなくなった。平安京が出来た頃の条里が、今より相当左(右京側)にずれていたのもこのため。京都の南には昭和16年頃まで巨大な池もあって、これを巨椋(おぐら)池と呼んでいた。
2014-08-23 12:44:33平安京は最初から左京ばっかりが繁栄して右京はずっと寂れたままの一千年ですよ。RT @f_zebra: @y_mizuno 平安京の朱雀大路が今の千本あたりでしたっけ。左京なんて外れもいいとこですね。
2014-08-23 13:16:11@ishiiakira @y_mizuno @f_zebra いまの桂川の左岸地域(右京区の一部)は秦氏の系譜が現在に至るまで地主さんの地域ですね。寂れていたと云うよりも農村地区として御所や上京下京へ食料等の物資を提供していた地域です。また、貴族らの別荘地でした。
2014-08-23 13:26:272008年夏、京都で「第9回地震火山こどもサマースクール」というのが、地震火山学会共催で開かれ、私もたまたま引率者として参加した。その時の実習課題にも、この京都盆地の(数十万年前の)地下の立体構造の3次元模型を作ろう!という極めて興味深いテーマもあった。これは非常に面白かった。
2014-08-23 12:50:10京都盆地の3次元模型の作り方は次の通り。1)コンビニ弁当の透明な蓋を数枚準備、2)京都盆地を地下方向にレイヤーに分け、それごとに岩盤の深さ(マイナス方向の高さの)等高線を色分けした地図を作る(専門家が準備)。3)各弁当の蓋に、各地図を色分けして写しとる。4)それらを重ねて完成!
2014-08-23 12:58:282008年夏の京都での「地震火山こどもサマースクール」に(私は講師でなく)各班の指導者というか子どもと遊びたい人として(笑)参加した時に、実習で作った、京都盆地の地下方向の3次元模型。作成過程。plus.google.com/u/0/photos/111… ここで最後から2枚目が私でございます。
2014-08-23 13:05:172008年8月、「第9回地震火山こどもサマースクール」のホームページ。kodomoss.jp/ss/kyoto/ 火山噴火小説家(クライシスノーベル)の石黒耀先生と出会ったのも、この時。なつかしい。それと同時に、日本地震学会と日本火山学会の関係者各位のご努力には頭が下がる。
2014-08-23 13:16:04