菌糸の天才の研究

カタツムリの脳を乗っ取る微生物は知ってたけど。最近はアリの脳を乗っ取るキノコが居るらしい。
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badco @wdribein

薄くて真っ白い自動ドアが開く。ゴム靴をギュムギュムと鳴らして眼前の空間に入ると背後でドアが閉まった。壁から滅菌スプレーを吹きかけられる。着ている白衣が、手袋が、マスクが、ゴーグルが、改めて殺菌された。さらに目の前の扉が開き、研究室へと足を踏み入れた。

2014-09-03 00:11:31
badco @wdribein

まず、部屋中に設置されたアクリルのケースが目に入った。中身の一つ一つが白っぽい明かりで照らされている。中に居るのは博士の研究対象である茸だ。各ケースに一種ずつ栽培されている。生物的な…グロテスクなそれらが、無機質なケースと人工的に固められた苗床に根を張っている。

2014-09-03 00:19:12
badco @wdribein

「やあやあよく来たねえ」酷い嗄れ声がした。この部屋の主である博士だ。自分と同じように帽子、ゴーグル、マスクに覆われていて人相はわからない。しかし小柄で痩せこけた体つきとその声は博士が高齢であることを感じさせた。確か70を越えていたはずだ。詳しく知らないが病気も患っているとか。

2014-09-03 00:24:12
badco @wdribein

「いやはや嬉しいよ」声は上機嫌だ。「あの研究発表をみてこんなに若い子が見学に来てくれるなんてねえ。自分で言うのも何だが、ずいぶん物好きだ」「とんでもございません」いや、自分は物好きだ。しかし一応否定しておく。「あの研究は独特で、医学に新しい切り口をもたらしてくれると感じました」

2014-09-03 00:31:51
badco @wdribein

「余所行きの言葉だねえ」博士は応えながら、研究室を歩きだした。ついていく。「余所行きでは事実からやや外れることにもなるよ」「はあ…どういう意味でしょう」「あの発表は世間への影響を考慮して、多くの事実を伏せてある」博士はデスクにたどり着き、椅子に腰を下ろした。「掛けなさい。話そう」

2014-09-03 00:37:19
badco @wdribein

「細菌や微生物の多くは、何か他の大きな動物の体内に取りついて生きている。理由はいくつもある。動物の体内は栄養に満ちていて湿潤で、暖かい。移動し運搬されることで繁殖範囲を拡大できる。もちろん動物は体内へも抵抗力を示すが、それを乗り越えれば、動物の体内は移動するスイートルームなのだ」

2014-09-03 00:42:35
badco @wdribein

「先日研究し発表したのは、アリに寄生するキノコだ。こいつはアリから栄養を貰うだけでなく、脳で成長してそれをコントロールし、新たな繁殖環境…他のアリを探すのだ。脳に寄生されたアリはアリとしての知能を失い、生かされた肉体を操られるのだ。ゾンビのように」

2014-09-03 00:46:36
badco @wdribein

「まるでSFのようだろう。だがそういった微生物は他にも例がある。カタツムリの目と脳に寄生し、わざと鳥のエサになるよう目立つ所へ移動させ、鳥に食われ、どこかでフンとして排出されることで生息範囲を広げる。そういうことをする微生物が居る。」

2014-09-03 00:49:01
badco @wdribein

「私が着目したのは、他の生物をコントロールするキノコの自我についてだ。」「…自我、ですか?」私は訝しんだ。「そうとも。他者の肉体をコントロールし動かす。これには何等かの自我がなければ不可能だ。間違いない、このキノコはアリを操るだけの自我を有している」

2014-09-03 00:53:38
badco @wdribein

「いや…菌類のような単純な生物が、アリとはいえ、自分よりずっと大きく複雑な生物を操るだけの自我をお持ちだと?」「操っている、という事実がある。」「…………。」「だが君の言うことももっともだ。だから私は仮説を立てた。彼らは自身の自我の大部分を、宿主の脳から借りている、と」

2014-09-03 00:59:48
badco @wdribein

「脳から借りる?」「そうだ。この菌糸類は、脳のごく一部のみを支配することで、あとの大部分が持つ知性を間借りしているのだ。この写真を見給え。」博士はデスクの中から写真を取り出した。「寄生された動物の脳だ。色を変えてある部分が菌糸だ。まるでニューロンだろう」

2014-09-03 01:03:13
badco @wdribein

「はあ…。」さすがに微妙に嘘臭い。「これが本当にアリの脳ですか?」「いいや違う。ハツカネズミだ」何?「それはラットで実験した際に顕微鏡で撮影したものだよ。」「待ってください…ラットで、ですか?」「ああ。」博士は頷く。「実験は成功している。この菌糸は天才だよ」

2014-09-03 01:06:20
badco @wdribein

「そこのケースに今も飼育しているよ」博士は一つのアクリルケースを指し示した。白い毛並に覆われたラットが数匹、ゆったりと動いている。頭の毛が異質だった。私にはわかる。これは頭に生えた菌糸だ。

2014-09-03 01:09:49
badco @wdribein

「私が研究し、改良した彼らの自我と知性はすさまじいよ。もはや日光や新たな宿主を求めることだけでなく、宿主を操って食物をたべさせるようにもなった。さらに最近はラットに、フン等で簡単な苗床を作らせていたよ!この菌糸たちは自己の環境を整えさせる知性をラットから得ている!」

2014-09-03 01:16:40
badco @wdribein

「なるほど…よく理解しました。」私は軽い怖気を覚えて立ち上がった。「この話が学会で聞ける日が楽しみです。菌糸の天才、いや天才の菌糸たちがどこまで進化するのかもね」「ありがとう。君のような研究者に会えて嬉しかったよ。ところで」

2014-09-03 01:22:00
badco @wdribein

博士は私を見つめた。「君はこの菌糸たち、どこまで進化すると思うね。」「さあて」考えたくもなかった。

2014-09-03 01:23:12
badco @wdribein

「それはね。自身の品種改良だよ。安定した宿主と協力して自己の改良を行う。」「そんな…。こんな単純な生物が、自身の生存を放り出して、研究を始めると!?」

2014-09-03 01:26:15
badco @wdribein

「もう始まっているよ」博士は自分のゴーグルとマスクに手をやった。「見せてあげよう」それを引きはがした。

2014-09-03 01:27:15
badco @wdribein

しわだらけの顔。皮膚が壊死して、崩れた穴から白緑色の菌糸が覗いている。口を開けた。粘菌が咥内を満たして糸を引いている。鼻からは呼吸のたびに埃のような煙のようなものが噴出している。あれは。

2014-09-03 01:29:29
badco @wdribein

……………私は駆けだした。滅菌スプレーを浴び、途中で施設内にある殺菌消毒液などを出来るかぎり掴み、走りながら使った。なんとか施設から逃げ出し、病院に駆け込んだ。

2014-09-03 01:32:43
badco @wdribein

しかしあのおぞましい菌糸の発する胞子を殺せたかどうか自信はない。寄生生物は宿主の中に居れば、外部からの影響をシャットアウト出来るからだ。私は彼らを殺すフリをしながら、その実は厳重に防護しながら研究室の外界へ持ち出したにすぎない。私はあとどれだけ私で居られるだろう。

2014-09-03 01:36:52