石亭の戦いは、いまいち目的がわからないね。廬江を得るためだけに、あれだけの大軍を動かすかね? pic.twitter.com/PMITLPejDT
2014-09-05 23:55:46石亭の戦いの時、賈逵は西陽から真っ直ぐ南に夏口に向かったので、潦口というのは西陽近傍にあったのだろう。五将山も西陽から夏口に続く道にある山地のどこか
2014-09-06 14:10:26西陽から夏口までは、山地を通るとはいえ、谷を通って高低差なく夏口まで行けるし、山と言っても精々標高500mくらい。確かに賈逵の言う通り、真っ直ぐに夏口や武昌を突ける
2014-09-06 14:19:28石亭の戦いでは、東莞太守は賈逵に従ったが、他の徐州軍の動向は書かれていない。何にしても、全体の機動としては、晋の呉平定戦の、荊州と揚州のみ切り取ったような作戦になっている。これに建業方面への攻撃と益州からの東下を加えると、晋の作戦とほぼ同じような感じになる
2014-09-06 14:33:33周魴の偽手紙がきっかけで、曹休が南征の話を曹叡のところに持ち込んだとしか思えないんだよな。周魴が降るからもっと先に進みたいという上奏は南征が始まった後だけど。
2014-09-06 21:56:36石亭の戦いは、曹丕の南征にアレンジを加えた作戦。揚州軍の進路が建業方面から廬江方面に変わり、豫州軍は東西ではなく南へ真っ直ぐ夏口を目指す。この全体の作戦は、賈逵の上奏も参考にされて改変されているだろう。建業方面へ行かないのは、曹丕の再三の失敗を受けてのことかもしれない
2014-09-06 22:18:00曹休は呉相手だと結構勝ってる。韓綜の降伏は呉での事情があったとはいえ、曹休の威名も降伏に無関係ではないと思う。曹休を叩くことは国のメンツに関わってたかもしれんな。勿論実利もあるが。
2014-09-06 22:22:10孫権は陸遜に黄鉞を貸し与え、百官がそれに平伏したと陸機は誇らしく書いている。そして孫権は自ら鞭をとって餞をしたとあるが、孫権も長江を下って皖口へ出たとも書いてある。百官がいる以上、餞をしたのは武昌でとなる。見送った後わざわざ長江を下ったの?司馬懿と賈逵の対処はいいのか孫権。
2014-09-06 22:34:33魏の対呉作戦は、曹丕の作戦が全ての原型であり、その後、明帝の時代に賈逵の案を加えて改良される。更に曹芳の時代に王基らの案で荊州方面の作戦が改良される。また、蜀の討伐を経て益州方面からの攻撃を加え、一応の完成を見たという流れだろう
2014-09-06 22:37:45呉主伝で周魴が曹休を騙しておびき寄せたのが5月で、石亭では8月から9月にかけて戦っている。南征が仮に7月に始まってたとすると、5月に騙したとあるのは、周魴が曹休から色好い返事を得て孫権に報告したタイミングのような気がする。
2014-09-06 22:43:48wikiだと石亭の戦いの呉軍は動員数3万ってある。ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3… だが、大将と副将合わせて3人いて、「各督三万人」なんだから9万じゃないかと思うんだが。
2014-09-06 23:05:07朱桓は3万人を指揮する将軍でありながら、「曹休の退路を断ちたいので、私の配下(恐らく3万でなく直属軍)が動くことを許可して下さい」とかいう辺り、チャンスとはいえ責任感を欠くな。
2014-09-06 23:08:42曹休の退路を絶つため、朱桓が断とうとした挂車は、谷を行く道のようだ。現在はダムがあって道がないが、当時はあったのだろう。 pic.twitter.com/Svh6TtK80y
2014-09-06 23:14:56賈逵は夾石まで進んで呉軍を追い払ったとあるけど、朱霊が賈逵軍の先鋒で最初に遭遇したって事かな。朱霊の魏(曹操軍)での活動期間の長さはこの時点では最長か。
2014-09-06 23:53:48賈逵は、曹休の無思慮によって自身の発案した作戦の威力を試す間もなく東行を命じられ、結局自身の案を試すことができなかった。そればかりか、助けた曹休に罵倒され、罪をなすりつけられそうになる始末。非常に不幸である
2014-09-07 00:12:18石亭の戦いを調べて驚いたのは、賈逵が諸軍の督だったこと。しかも麾下には前将軍満寵・後将軍朱霊がいる。でも、賈逵の位は書いてないな。豫州刺史だけでなく、都督も兼ねてたのか?
2014-09-07 00:18:00太和二年の南征の当初計画は、明らかに賈逵の立案したであろう作戦に基づいている。それがいきなり賈逵の担当した方面の攻撃を中止し、曹休への合流へと変更された。この辺は、賈逵の作戦に従うことを不服とした曹休が、無理矢理自身の案に変えさせた感じの印象を受ける。
2014-09-07 00:24:15曹休が周魴の投降を信じたのは、周魴の演技が上手かったのに加え、それを利用して賈逵の作戦を変更させてやりたいという曹休の思いが大きかったからではないか。曹休、これはアカンで
2014-09-07 00:26:07@Jominian 讀史方輿紀要、東関は東興堤であるって自信満々に書いてあり、他の記述でも巣湖のあたりに東関が確かあったと思います。賈逵の言う東関が武昌の辺りにもあったんですかね? 豫州の南にあるって書いてあったので、もう一つあるとしか思えないんですけど。
2014-09-07 00:26:45@Rieg__Goh 東関を東興堤としてしまうと、その後の記述とも合致しませんし、孫権が居たということとも合致しません。これは武昌のことを指していると考えた方が良いと思います。また、賈逵は東関に備えがないから皖城に敵が集結していると予測しました。これを東興とすると説明できません
2014-09-07 00:36:24@Rieg__Goh また、曹休は合肥を経由して南下したでしょうから、その時点で東興の状況は把握できるはず。敢えて賈逵が敵状察知をするのは変ですね。ただ、一方で東興を指して東関と呼んでいることも確かなので、賈逵伝に何か間違いがあるか、東関が武昌にもあったということかもしれません。
2014-09-07 00:51:33