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他者に教える授業より、まず自分に教える授業を。

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教育 学び合い 反転授業 教え合い
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福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
「教えさせる授業」。他者に教えるというアウトプットの方法が学習成果を上げるのに有効なのは間違いない。何しろ日々教えている私自身が、自己の成長を実感する。しかし、こと学校で行われる「教え合い授業」では、多くの場合、「きちんと教えられたのか」に対する評定をしていない。教えさせっ放し。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
正確には、教えさせる授業がよいというよりも、アウトプットする授業がよいということ。教えさせる前に、分かったことをノートに書かせるのが先。「教える」というのは、要求が高度過ぎる。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
教えるためには、まず「自分」が整理できていなければならない。かつ、「相手」が何を分かり何を分かっていないかを整理できなければならない。自分も相手も必要。高度過ぎる。まずは自分自身の整理だけで十分。それが、ノートに書かせるということ。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
もちろん「今日の授業で分かったことをノートに書きなさい」なんて言っても無駄。有害。そんな漠然たる指示は指示とは呼ばない。範囲の限定が不可欠になる。たとえば、「対比の型で文章を書くときに気をつけるべき点を2つノートに書きなさい」。あるいは「間違った文例とその修正案を書きなさい」等。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
そのように限定してさえ正確に学習事項を再現するのは難しい。まして他者に教えるなど要求が高度過ぎる。しつこいようだが高度過ぎる。教師にとって必要なのは、教え合いの場を提供することではない。生徒自身が自分の頭の中を整理するためのアウトプットの場を個々に保証し、しっかりと評定すること。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
要するに、他者に教える前に自己に教える。それができないうちに教え合い授業なんてやらせても、有害。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
もちろん、そのようなプロセスを経て、最終的に「他者に教える」ところまでたどりつけば、それに越したことはない。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
教え合い授業が「教えさせっぱなし」になる最大の理由は、そのような授業形態に依存する教師にはそもそも教える力がないから。教える力のない教師は、生徒が他の生徒に教えるところを横で見ていてもその教え方あるいは教えた内容の良し悪しを判定できない。だから評定できず、教えさせっぱなしになる。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
もし、教えることでアウトプットさせる授業をするのなら、一斉形式で黒板の前に立たせ全員の前で説明させ、それを、「教える力」のある教師が評定する、という過程が必要。しかし、キャラクターとしてそういうのが苦手な子には難しい。そういう子でも、自らノートに書くならできるというケースは多い。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
一方、グループ別あるいは個々バラバラに教室を歩きまわるような形態で行われる「教え合い」授業において、教師が個々の子を「見留め(認め)、評定する」ことは不可能。
福嶋隆史/著書60万部超/ふくしま国語塾 @FukushimaKokugo
だから結局、全員に力を保証するために欠かせない授業とは、個々の生徒が個々のノートに個々にアウトプットする授業だということになるだろうな。生徒どうしの関係を持たせたいというのなら、そのノートを発表させればよい。ノートの音読。これなら、キャラクターに左右されず、成立する。

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