エルネスト・ラクラウのヘゲモニー概念について

まとめました。
ジジェク ラクラウ イデオロギー ムフ ヘゲモニー
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げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
ブログ更新しました。ラクラウのヘゲモニーとは何かを解説しようと試みた記事です。 http://t.co/feQC9SX
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 ラクラウ論考拝読させて頂きました。特に異質性についての部分、僕自身ずっと悩んでいたので大変参考になりました。@Gespenst177さんの解釈に依れば、敵対性=現実界とされていますが、僕が読んだかぎりでは、異質性=現実界(のようなもの、と一応留保)
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 だと思うのですが、いかがでしょうか。(ラクラウ自身もそう位置づけていたと思います。)そのかぎりで僕は敵対性の位置づけそのものをずっと考えていました。HSSで客観性/対象性の限界として導入された敵対性ですが、これは必ずしも表象/代表空間の外部ではなく、
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 むしろそれを前提としているかぎりで、広い意味で言説のうちに位置づけられうるのではないか、と。あと「純粋な敵対関係」と呼ばれているものですが、@Gespenst177さんも指摘されているように、純粋な等価性が差異の論理によって掣肘されている以上、
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 純粋な敵対性もまたありえない、と思われます。この辺り僕は,Lasse Thomassenの解釈にしたがっています。やはり140字で切られる議論は難しいですね、それではいったんこれにて失礼します。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto わざわざ読んでいただきありがとうございます。議論の内容についてですが、基本的に認識に齟齬はないと思います。まず、差異の論理による制約による純粋な敵対関係の不可能性ですが、こちらはラクラウもハッキリ述べているので特に問題ないと思います。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 次に<現実界>と敵対性と異質性の関係についてですが、確かに敵対性=<現実界>という言い方は一面的で、誤解を招くものだったと思います。まず、ラクラウの<現実界>という用語法ですが、基本的には象徴化に抗うものということでいいと思います。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 例えばポピュリスト本のジジェク批判のところで、ジジェクが資本はいつも回帰するから<現実界>だといっているのに対して、それなら寒さも<現実界>じゃないか、<現実界>と言いたければ、象徴化を超えていることを示せといっています(p235)。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto もっと直接的には、『偶発性』の第一論文のⅢで<現実界>は<象徴界>の失敗のことであるといっているし(邦訳p97)、さらに、Ⅳでは<象徴界>を「言説」と同一視しています(p107)。つまり、<現実界>とは<象徴界>=「言説」に回収されないものです。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto さて、ポマ主義本(HSS)では、「言説」に抗うものが二種類導入されていたと思います。それが一つには、間テクスト性といった「要素」の「契機」に還元されない部分、「「超越的記号内容」の連続した遅延」で、もう一つには「敵対性」です。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto そういうわけで、第一に、自分としては敵対性を<現実界>といっても間違いではないと思います。実際、『偶発性』の段階では完全にそうで、ラクラウは敵対性と<現実界>の重なりを指摘しています。第一論文Ⅲp101、Ⅳp106。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto しかし、第二に、<現実界>は「言説」の外部という意味なので、敵対性に限定されるわけではないし、ご指摘のとおり、実際ポピュリスト本では、敵対性はそうはいっても表象空間への書き込みを前提としており、
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 実は敵対性よりもっと外部的なものがあるのだ(p140あたり)として異質性が「Real」(p141)と呼ばれていますよね。ここである意味「敵対性」の外部的=<現実>的な地位が切り下げられているともいえるかもしれません。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 自分もLasse Thomassenという方の論文「From antagonism to heterogeneity」がネットにあったのでさっと読んだのですが、彼は、異質性はHSSの間テクスト性/意味の過剰と類似したものだと言っています。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto だから自分としては、「言説」の外部=<現実界>として、「間テクスト性」と「敵対性」があり、ラクラウの分析の重点が、(敵対性の変容を分析するために?)後者から前者に移っていったと考えれば分かりやすいかな、と思います。(以上で一連のツイートを終わります)
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 返信有り難う御座いました。やはりポイントは「言説」をどう捉えるか、ということでしょうか。@Gespenst177さんが示した『偶発性』のラクラウ論文では象徴界と言説は「大まかに」一致する、と言われています。
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 この「大まかbroadly」にどれだけアクセントを置くかによって立場が変わってくると思います。たとえばラクラウは最近のインタビュー(2010)で「象徴界を「言説的なもの」と同義に捉えることは避けなければならない」と述べていますが、
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 ここから僕はラクラウにおいて言説は象徴的なものより広い外延を持っていると理解しています。第二に敵対性は言説化に抗うものなのでしょうか。僕の理解では敵対性はむしろ「言説の外部」ではあるにせよ、それはまた別の言説以外の何ものでもありません。
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 ラクラウのヘゲモニー闘争、およびRDが節合的実践を通じた対抗言説の構築を意味しているとすれば、敵対関係を言説の外部=現実界とするのは難しいと思うのです。(HSS 195頁では敵対性が言説的現前形態と言われています。)
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 むしろThomassen路線で行くならば、敵対関係は欠如を覆い隠すファンタジー、ジジェク的な意味でのイデオロギーという解釈を僕は興味深いと思っています。(この点ジジェクの”Beyond Discourse Analysis”という論文が秀逸です。)
Kyamamoto @Keiyamamoto
@Gespenst177 だからこそ異質性が言説-外のXとして重要にならざるをえない、だろうと。(以上です。頭痛を悪化させないことを祈ります。おやすみなさいです。)
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 返信どうもありがとうございます。さっそく内容について。はじめの「言説」と<象徴界>の関係については、ちょっと勉強不足で自分はあまり判断がつきません。ラクラウの今年のインタビューをいずれ手に入れて読んでみようと思います。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto それにしてもラクラウはまだ元気でやっているんですね。素直にすごいです。
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 次に、敵対性の<現実>性の問題ですが、ブログでのイデオロギー幻想との同一視もそうですが、ある種二重だと思っています。一方で敵対性は、社会を記述しつくすこと、社会の全体性が失敗する「限界」として導入されるので、<現実>的だと言っていいと思うのですが、
げしゅ☆ぺんすと @Gespenst177
@Keiyamamoto 他方で、その記述しえなさ、分裂そのものが「個別性から名前を借りる」(第一論文)、つまり「否定性そのものに現実的存在」(HSS)が与えられる、つまり表象/言説に書き込まれることで、逆説的に社会がヘゲモニーの全体性を持つ。「それを排除すればいい」という話です
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