茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1331回「ドルが新札でないと受け取ってもらえない話」
- toshi3636_1
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朝日新聞に、ミャンマーではドル札が真新しくないと受け取ってもらえないという記事が出ていた。似たような経験は、ぼくも、20年前くらいのインドネシアでしたことがある。端が折れていたり、よごれていたりすると、「お札」として流通しない。旅行者は、かなりとまどう。
2014-09-24 07:54:15今、東南アジアのどのくらいの地域で、ドル札がどのような状態で受け取ってもらえるのか(流通しているのか)わからないが、お金の抽象的な価値と、モノとしての価値がどのような関係を持つか、という点において面白い現象だと思う。もちろん、米国ではくちゃくちゃでも受け取ってもらえる。
2014-09-24 07:55:19最近は見ないけれども、子どもの頃は、切れたところをセロテープでとめているお札とか、計算したあとがあるお札なんか、よく見ていた。最近見かけなくなったのは、日本銀行の方で、そのようなお札は早めに回収して、新札に変えているからだろうか。
2014-09-24 07:56:50モノとしてのお札の価値と、抽象的な貨幣価値がずれている、というのは、日本でも儀礼的な文脈では時折見られる。たとえば、結婚式のご祝儀は、新札がいいとされたり、逆にお通夜やお葬式の時は、旧札がよいとされるのは、その一つの表れであろう。
2014-09-24 07:57:54江戸時代の大判小判は、象徴的、儀礼的な役割もあり、取引や決済の際にいつも、というのではなく、たとえば何枚かが紙に包まれたまま流通していたという話も聞いたことがある。ヤップ島の石貨もそうだが、お金は、もともと、抽象的な貨幣価値ではなく、モノとしての存在感があったのだろう。
2014-09-24 07:59:33むかし、ある漫画で、卒業した学生が、卒業証書を「こんなもん!」と破って、周囲があっぱれと思っていると、あとで、「破った方はイミテーション」というコマがあった。今は、卒業は「コト」としての事実であって、卒業証書自体にモノとしての価値を見いだす風潮は、むしろ廃れているだろう。
2014-09-24 08:00:46ミャンマーの話に戻る。ドル札が真新しくないと受け取ってもらえない、というのは、現代の合理主義から見ると奇妙に見えるけれども、案外、人類のモノに対する畏れの気持ちというか、そもそも貨幣が由来するところを考えさせて興味深い。中学や高校でレポートの課題にしたら、面白い答えがきそうだ。
2014-09-24 08:02:06