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伊月遊 @ituki_yu
狼と香辛料 Side Colors XX 「狼と松本人志」2
伊月遊 @ituki_yu
「本当に、なんとお礼を申せば良いのか……。ありがとうございました、ロレンスさん」 そう言って目の前の女性は丁寧に頭を下げた。 長い黒髪を後ろで結わえた、若い女性である。 その女性に、ロレンスは「いえいえ」とにこやかな笑みを返す。
伊月遊 @ituki_yu
「倒れている人間をそのまま見捨ててしまうなど誰が出来ましょうか。これも神の思し召しですよ、ミズ・シノハラ」 「まあ、そう言って頂けると、こちらも気が助かりますわ」 そう言ってシノハラと呼ばれた女性は、口元に手を当てながらロレンスの言葉に救われた様に顔をほころばせる。
伊月遊 @ituki_yu
ロレンスもまたその表情に合わせた様に商売用の微笑みを張り付かせながら、しかしその細い目は、彼女の右胸に光るブローチをしっかりと見つめていた。 大鷲がフォークを咥えた意匠のブローチである。銀の下地に、ルビーで出来た鷲の目の赤い輝きが印象的だ。
伊月遊 @ituki_yu
恐らく人によっては、あのブローチだけで一財産の価値がある事であろう。 その鷲の印は、女性の背後に掛かっている大きな壁掛けにも、全く同じ意匠として施されていた。 壁掛けにもまた贅沢な細工が施されており、この校章が表すシマント調理学校の資金力がそのまま伺えるというものであった。
伊月遊 @ituki_yu
「ところで、一つお聞きしても良いでしょうか」 「ええ。コージ。コージ・イマーダ。彼の事でしょう」 とロレンス。そのままの笑みですぐさまシノハラは口を開く。 コージとはロレンスが助けたあの眉の太い青年の名前らしい。ロレンスは「はい」と短く切って頷く。
伊月遊 @ituki_yu
「一介の料理人が何故あのように商人の真似事を、と、お考えなのでしょう。ロレンスさんは」 「有り体に言ってしまえば」 「まあ、そうですよね」 言いながら紅茶で口を湿らせるシノハラ。 ロレンスも同じ様に一口。 口の中に紅茶独特の芳醇な香りが広がる。かなりの上物である。
伊月遊 @ituki_yu
「良い物ですね」 「あら流石、分かりますか。アムール地方の初摘みです」 初摘みとはその年に初めて取れた茶葉の事である。 昔から初物というものは喜ばれる風潮にあり、また古い物より風味が良く、結果として値段はそれ相応に上がっていく。
伊月遊 @ituki_yu
特にアムール地方は紅茶の名産地として有名であり、その初摘み茶葉の価値は推して知るべきと言った所であろう。 「料理人は目利きも大事な仕事です」 カップを傾けながら、湯気の向こうで彼女の目が静かに開かれる。
伊月遊 @ituki_yu
「先ほどの答えですよ。私どもは、自分の料理に誇りを持っています。そして誇りには責任が伴うのです」 「なるほど、それで自分達で仕入れを?」 「使われている材料の出所も知らずにどんな責任が持てましょうか」 「素晴らしい心掛けです」
伊月遊 @ituki_yu
自分達で全ての仕入れを行う料理人とは些か珍しい話ではある。 しかしこの部屋を見ると、その話も不思議と納得の出来ることであった。 シマント調理学校は名の通り学校なのではあるが、全国的にはレストランの経営組織としての面の方が有名である。
伊月遊 @ituki_yu
様々な国に支部を持ち、優に20を越える支部のそれぞれが多くの生徒たちを抱えているらしく、そこで磨かれた技術はシマントの系列店で存分に振るわれている。 それら全ての規模を合わせると、大商会もかくやと言うものだという。
伊月遊 @ituki_yu
彼女は先ほど誇りや責任と言っていたが、それらは最終的に味へと昇華し、そしてその結果へと繋がっているのだろう。 それはこの口に広がる芳醇な紅茶の味が、雄弁に物語っていた。
伊月遊 @ituki_yu
「コージですが、医師の話ですと単なる疲労だという事ですわ。二・三日安静にしていれば大丈夫という事です。彼ってば、張り切りすぎたのね」 「それは何より。若輩者の私が言うのも何ですが、誰しも若い時分には無茶をしてしまう物です」
伊月遊 @ituki_yu
ロレンスがそう言うと、シノハラは「あら」と口元に手を当てて面白そうに笑みを浮かべる。 「彼、実はそれほど若くありませんのよ。ロレンスさんよりも十歳は歳上ですの。それにああ見えて、実は進行役ですし」 「なんと」とロレンスの口から思わずさく出た語を聞いて、シノハラは小さく笑った。
伊月遊 @ituki_yu
年齢もだが、それより続いて出た単語に驚いた。進行役とはシマント調理学校での役職の一つだった筈である。 詳しくはロレンスも良く知らないが、その地位は高く、数多くのひな壇達(これもシマントの役職と聞き及んでいる)の中で特に優れた、一握りの者しかなれぬのだそうだ。
伊月遊 @ituki_yu
「皆さんそういう顔をされますわ」 「えっ」 と言われてロレンスは初めて、自分が呆気にとられた顔をしていることに気が付く。 「失礼。これでは商人失格ですね」と苦く笑いながらロレンスが頬を掻くと、シノハラは「仕方がありませんわ」と言った。
伊月遊 @ituki_yu
「ですがコージはああ見えて非常に優秀な人物なんですのよ。今回倒れたのは、さっきも言ったかしら、張り切りすぎたんですって。本人が言っていたわ」 「張り切りすぎた?」 「ええ。あの食材は来週の放送に使う物なんですの。それで彼ったら」 「なるほど、それで……」
伊月遊 @ituki_yu
と言って、紅茶のカップを口元に傾けるロレンス。 紅茶で唇を湿らせながら、くゆむ湯気の向こうでロレンスは、表には出さずに考える。 『放送』とはなんの事であろうか。今までに聞いたことのない単語である。 シノハラ嬢の話しぶり的には、何か重要な行事?という雰囲気だが。
伊月遊 @ituki_yu
「ですがなんとか食材は手に入りました。これも全てロレンスさんのお陰ですわ。何かお礼をしなくてはいけませんわね」 微笑むシノハラ嬢の声で思考を止める。 それはロレンスの待ち望んでいた言葉である。
伊月遊 @ituki_yu
しかしそれを表に出すような事は絶対にしない。そんな事をしたらたちまち見くびられてしまうだろう。商人とはそういう生業である。 そのためロレンスは、逸る心中を抑えつつ、商売用の微笑みを顔に張り付かせ、ただ「ありがとうございます」とだけ言うのだった。


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