正しい気象情報があれば……60年前の洞爺丸の悲劇

60年前、気象衛星の無かった時代に起きた悲劇、洞爺丸事故について連投したツイートをまとめました。
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なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

9月26日。60年前の今日は、「洞爺丸」ほか計5隻の青函連絡船が台風により遭難するという未曾有の海難事故のあった日です。写真は、北海道北斗市七重浜にある「台風海難者慰霊之碑」 pic.twitter.com/JJBos6tCuX

2014-09-26 00:01:12
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なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

洞爺丸。戦災で壊滅状態となった青函連絡船の再興のため、GHQの許可を取り付けて建造された4隻の大型車載客船のネームシップ。1947(昭和22)年11月21日就航。戦後の混乱期にあって、いち早く新造船による快適な船旅を提供した同船は「海峡の女王」と呼ばれました。

2014-09-26 00:02:29
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

運命の日、1954(昭和29)年9月26日。同日未明に九州に上陸し中国地方を通過し日本海へと抜けた台風15号は、強い勢力を保ったまま110km/hもの猛烈な速度で日本海上を北東に進んでいました。台風は同日夕方には津軽海峡に接近すると予想されていました。

2014-09-26 00:04:03
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

この日の午後、洞爺丸は函館港国鉄第一岸壁で出港準備を進めていました。台風接近前に陸奥湾内に達すれば青森まで航行可能と判断し、14時40分の定時出港を予定していました。

2014-09-26 00:06:18
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

同日昼頃から津軽海峡では波風が強まり、航行を断念した僚船が函館に引き返してきました。出港する予定であった洞爺丸は、先を急ぐ乗客や貨物を受け入れる必要があります。乗客と貨車の移乗に時間を取られ、洞爺丸の出港予定はズルズルと遅れてゆきます。

2014-09-26 00:08:19
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

迫り来る台風と津軽海峡の只中で遭遇することは何としても避けねばなりません。一刻も早く出港して陸奥湾へと退避したい、しかし遅々として進まぬ出港準備。このまま出港するか、安全を取って出航を見合わせるか、洞爺丸船長は決断を迫られていました。

2014-09-26 00:10:20
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

15時10分、ようやく出港の段になって、貨車搭載のために船尾に架けられた可動橋が停電のため上げられない。いつになるやも知れぬ停電復旧を待って出港し台風迫る海峡に乗り出すという選択肢は常識的にあり得ません。船長は出港見合わせを決定しました。

2014-09-26 00:12:25
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

洞爺丸を足止めした停電は2分で復旧し可動橋も上げられましたが、出航見合わせは取り消されませんでした。もしこのとき出港していれば、難航はしただろうが洞爺丸は間違いなく無事に青森に着いていたであろうと言われています。僅か2分間の停電が、洞爺丸の運命を変えました。

2014-09-26 00:14:22
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

午後から激しい雨に襲われた函館でしたが、17時過ぎ、風雨が嘘のように弱まり晴れ間が姿を見せました。「台風の目だ」誰もがそう確信するに十分でした。嵐はもうじき去る。洞爺丸船長は出港を決断します。この後多少の吹き返しはあるだろうが、最新鋭の洞爺丸なら乗り切れる、と。

2014-09-26 00:16:23
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

しかしながらこのとき台風は大方の予想に反して、急速に速度を落とし更に勢力を強めながら北海道西方の日本海上にありました。そして台風に押し上げられた雲が閉塞前線となって函館を通過しました。洞爺丸が見た晴れ間は、この閉塞前線が創り出したまやかしだったのです。

2014-09-26 00:18:10
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

18時39分、洞爺丸は乗員乗客1337名を乗せて約4時間遅れで出港。そして函館港外で洞爺丸を待ち構えていたのは、地獄でした。

2014-09-26 00:19:26
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

19時過ぎ、函館港防波堤を出たところで猛烈な風と波に襲われた洞爺丸は航行困難と判断しダブルアンカーで停泊するも、瞬間最大50m/sを超える強風と波浪により錨が十分に利かず、船体は徐々に七重浜の海岸へと流されてゆきます。

2014-09-26 00:21:45
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

更に悪いことに、船尾の車輌甲板開口部から浸入した海水により機関室が浸水、排水困難に陥り21時50分には左舷主機が停止、22時05分、右舷主機停止。動力を失い錨の利かない洞爺丸には、砂浜に座礁させて嵐をやり過ごす他に手段は残されていませんでした。

2014-09-26 00:24:37
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

22時26分、洞爺丸は陸地を右舷に見つつ海岸に並行する向きで、右舷に45度傾斜した状態で七重浜沖の海底に座礁。これで最悪の事態は去ったかに思われましたが、船長以下多くの乗員乗客の願いも空しく、座礁してもなお船体の傾斜は止まりませんでした。

2014-09-26 00:26:14
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

座礁地点は、本来ならば洞爺丸が座礁することのあり得ない水深でしたが、この時は海底の砂が猛烈な波で動かされ漂砂となって堆積し水深が浅くなっていました。右舷船底のビルジキールが漂砂に引っかかり、これが支点となって船体を横転転覆させる方向へ作用したものと考えられます。

2014-09-26 00:28:17
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

22時39分、洞爺丸SOS発信。しかしこれを受信した誰しも、4000トンもの船が座礁後更に転覆するなどという事態を想像することはできませんでした。国鉄青函局へ宛てた「本船、500キロサイクルにてSOS発信、よろしく」の電文を最後に、洞爺丸からの無電は途絶えました、永久に。

2014-09-26 00:31:06
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

22時43分、船体の傾斜を繋ぎ止めていた左舷錨鎖が切断。車輌甲板の積載車輌が横転する轟音と共に、洞爺丸は急激に傾きを増しました。横倒しになっても横転は止まらず、4本の煙突を海底に突き刺すように転覆沈没、終に動かなくなりました。七重浜沖約600mの地点でした。

2014-09-26 00:33:43
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

混乱の中で脱出できず船内に閉じ込められ息絶えた者、荒れ狂う海に呑み込まれ波間に消えた者、運よく海岸に打ち上げられながらも救助される前に力尽きた者……洞爺丸のみで、乗員乗客合わせて1155名が帰らぬ人となりました(犠牲者の数は諸説あり)。

2014-09-26 00:35:56
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

後に「洞爺丸台風」と呼ばれることとなる台風15号は、一夜にして洞爺丸・第十一青函丸・北見丸・日高丸・十勝丸の5隻もの連絡船を海の藻屑へと葬り去りました。死者・行方不明者は5隻合計で1430名。英国豪華客船「タイタニック」沈没に匹敵する規模の、平時の日本における最悪の海難事故です。

2014-09-26 00:38:01
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

もしも2分間の停電が無かったら、もしも夕刻の晴れ間を台風の目と誤認することがなかったら、もしも台風の正確な位置を知ることができていれば……歴史にifは禁物ですが、それでも「もしも」を言いたくなるほどに、あまりにも残酷な運命に翻弄された洞爺丸には涙を禁じ得ません。

2014-09-26 00:40:33
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

洞爺丸事故からちょうど4年後の1958(昭和33)年9月26日には狩野川台風が、更にそのちょうど1年後の1959(昭和34)年9月26日には伊勢湾台風が日本を襲いました。特に後者は全国で5000名を超える犠牲者を出し、国内における観測史上最大の台風被害をもたらしました。

2014-09-26 00:43:25
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

大自然の猛威の前にあまりに無力な国民を守るべく、気象庁は気象観測技術の向上に乗り出します。1965(昭和40)年3月、富士山レーダー運用開始(1999年運用終了)。そして1977(昭和52)年7月14日、静止気象衛星「ひまわり」が打ち上げられました。

2014-09-26 00:45:40
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

「ひまわり」は決して日本だけの気象衛星ではありません。米国のGOESシリーズや欧州のMETEOSATシリーズ等と共に、世界気象機関と国際学術連合会議による地球大気開発計画の一環として打ち上げられたもので、その観測データは東アジアおよび西太平洋地域の各国へ提供されています。

2014-09-26 00:47:18
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

現代の技術をもってしても「絶対に沈まない船」「絶対に墜落しない航空機」が実現不可能である以上、荒天による遭難を防ぐ最も有効な手段が「気象衛星をはじめとする、気象観測と予報の技術」であることは、いくら強調してもし過ぎることはありません。

2014-09-26 00:50:22
なりたまさひろ@C103 2日目・12/31(日)東サ-03a @naritamasahiro

気象衛星が当たり前に存在する現代ではその有難味も忘れられがちですが、かつて気象衛星のない時代、タイタニックに匹敵する悲劇が日本の海で起きたこと、正しい気象情報が得られていれば救えていたかもしれなかった1430名の命のことを、決して忘れて欲しくはありません。

2014-09-26 00:52:44