顕教にも越法罪!?~上座部仏教における「禁他見」
- BirdOfPotalaka
- 3454
- 0
- 0
- 0
ITの効用もありテーラワーダ仏教についての情報アクセスが加速した反面、ダンマの見解が無闇に拡散することを賛成する人ばかりではない。大般涅槃経に説かれるācariya-mutthi<師の握拳>をダンマの説明の無制限な情報開示の現れと理解する向きは、テーラワーダでも100%ではない。
2014-10-01 01:02:36Pāṭimokkha(227条の比丘戒)のsekhiyā (比丘のなすべき振る舞い方)で「帽子を被ってる者に法を説いてはならない」とか、比丘が法を説く時に守る規定がありますからね。ネットとかでの無差別な拡散は破戒につながる危険があるんですよね。>RT
2014-10-01 08:02:42法に対して尊重する気持ちのない人が法を聞くとその人が悪業を為すことにつながります。聞く人が悪業をなさないようにという慈悲の意味合いで確かそういうルールがあったはずです。情報のソースがパッと出てきませんが…。
2014-10-01 08:09:37アビダルマ理解の不十分さ、差別への助長とTweetで、直接の関係は分からないが、一つ言えることとして、アビダルマがもともと出家に向かれて説かれていたという理解が僧の間に一定に存在すること、そしてアビダルマについては、律蔵とセットで、常に戒律との兼ね合いへの意識があったということ。
2014-10-01 01:06:48ただそのあたりも、学術的なオープンさを求める波に押され、またタイやミヤンマーの一時出家の慣習とも相まったこともあったろうし、もともと釈尊が教えを秘匿することに重心を置いたわけではないから、そのあたりは在家の人たちの好意によっていたというところがある。それが見える例はいくつかある。
2014-10-01 01:21:05これは法華経にも残っていることであるが、「法を説くべきでない相手」について、律蔵に規定がされているということである。他の部派は今は参照しえていないが、少なくともパーリ律蔵では、セーキヤ・ダンマという基本条項に触れられている。
2014-10-01 01:24:11更に、モスリムとの関係が紛糾している現代の状況で、ある瞑想道場では、モスリムにはダンマの本を公開しないという旨が、手引に明記されている。とあるミャンマーの有名道場である。
2014-10-01 01:30:23しかし、僧侶の考え方が時代とともに大分リベラルになっていったという傾向はあるようだ。批判もあっただろうし、仏教を宣伝するためでもあったろう。だが大般涅槃経のācariya-mutthiだけを典拠にして「本来の仏教」が全く無制限なダンマの公開を奨励していたとはいえないということ。
2014-10-01 01:33:45マハーカルナー禅師はPāṭimokkhaのsekhiyāルールについては結構厳密ですね。「比丘の戒律に、相手が受け取れるだけの量しか法を説いてはならないという決まりがあります」。paauk.jp/2_1_uposatha.h…
2014-10-01 08:16:12「アビダンマや一部の法話など、「禁他見」のテキストと音声の内容は、高度なダンマであり、修行者名簿を提出された方々にのみ、師からその方に直接、伝授されたものです。瞑想指導者として任命された方を除いて、複製、他人への流布、ネット等への掲載は許されていません」
2014-10-01 08:17:24こういう注意喚起がなされているところが既に日本語であるとは知らなかった。しかし、一部のテーラワーダ仏教が喧伝に躍起になっている中、一方で粛々と淡々と立ち位置を護るところがやはりある。>RT
2014-10-01 10:12:19ただ、Abhidhammatthasaṅgahaにおいても、実はマズいのではないかというのが、先のTweetの一連の趣旨ではあった。
2014-10-01 10:13:35私もブログで、Vīthi(心路過程)とか突っ込んだAbhidhammaの話を書いてみたいのですが、戒律上の問題で書けません。ただし、Abhidhammatthasaṅgahaの内容くらいなら、本が市販されて一般公開されてますし、書いてもいいと思ってます。
2014-10-01 08:32:34Abhidhammaの知識は衒学趣味というよりも、将来的にVipassanāで対象を識別する際に実践で必要になってくるんですね。Abhidhammaは「煩瑣哲学」と言われるこももあり、そういう一面もありますが、あれは哲学書というより、瞑想のテキストだと思ったほうがいいと思います。
2014-10-01 08:43:57