剣術指南の変遷 - 戦国時代と江戸時代の違い

兵法(剣術)指南といえば、主なイメージは、「道場を構えた道場主が弟子たちに教授する」というものですが、では、実際のところはどうだったかについて、ざっくり書いたのをまとめてみたり。 追記:流派の相伝や正統についても追記しました。
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発端はこちら

神無月久音 @k_hisane

【江戸時代の剣術稽古で徳川家光などの身分の高い弟子への配慮について】 togetter.com/li/726009 そういや昨日まとめて頂いた話を読み返してて、兵法教授の方式の変遷とかも合わせて書いた方がいいかしらんと思ったり。後で気が向いたら書きますかね。

2014-10-02 00:25:38
神無月久音 @k_hisane

まあ、その辺は前にこの辺で書いてはいますが、戦国期の兵法教授と江戸期の兵法教授の違いや、その背景についての話はまだしてないなーと。 【剣豪と石高について】 togetter.com/li/359587 【柳生宗矩の剣術指南と出世】 togetter.com/li/360135

2014-10-02 00:30:18

戦国期と江戸期の兵法教授の違いについて

神無月久音 @k_hisane

そういえば疋田豊五郎は細川家に二度仕官したとありますが、もしかすると、最初に仕官してたのは豊臣秀次だった可能性もあるのかなーと思ったり(実際、豊五郎が秀次に召抱えられてた逸話もありますし)。それなら、文禄四年、唐突に廻国修行に出たことの理由も秀次事件のせいだと説明がつきますし。

2014-10-07 01:44:38
神無月久音 @k_hisane

あるいは、特定の家に仕官したのではなく、あくまで芸道者として滞在し、複数の大名家を渡って兵法を教授して生活してたのかもしれんなーと。師匠である伊勢守からして、兵法者としては、特定の家に仕えて指南をしたというわけではありませんし。

2014-10-07 01:48:19
神無月久音 @k_hisane

それでも伊勢守は武将としては上泉家当主として長野家に仕えてた訳ですけど、豊五郎にはそういう所領や城なんかはありませんから、必然的に兵法教授主体で生活せざるを得ない訳で、複数の家を廻る都合上、特定の家に仕官するのは避けてたのかもしれんなと。まあ、あくまで仕官してなかったらの話ですが

2014-10-07 01:51:08
神無月久音 @k_hisane

実際、戦国の頃だと、兵法者の兵法教授と言えば、特定の家に仕えず、自ら廻国して兵法教授をする方が多かった訳ですしね。石舟斎にしても、自領に定住はしてますが、どこかの家で指南役を務めたというのはない訳ですし(家康の時も、宗矩を推挙するに留まってますし

2014-10-07 01:54:36
神無月久音 @k_hisane

つか、この辺、戦国期と江戸期では、兵法教授の在り方も違ってきてますし喃。戦国期だと、兵法者自身が諸国を廻って兵法教授をしてた訳ですが、江戸期は、逆に道場構えた兵法者のところに弟子が来て、おまけにその兵法者は特定の家に指南役として仕えてることも多いですし。

2014-10-07 01:58:28
神無月久音 @k_hisane

どちらにも例外はありますが、概ねの傾向としては戦国期:放浪型で自ら諸国を廻り、行く先々で兵法教授して生活する 江戸期:定住型で道場を構えてやってくる相手に兵法を教授する という感じに分けられるかなと。

2014-10-07 02:04:44
神無月久音 @k_hisane

あと、江戸期に関しては、更に「仕官型」「浪人型」に分けられま砂。どちらも定住して兵法を教授する訳ですが、 仕官型:特定の家に仕えて、家中の指南役として兵法を教授する 浪人型:特定の家には仕えず、自ら道場を開いて兵法を教授する まあ、前者も道場を持ってることが多いのですが。

2014-10-07 02:15:54
神無月久音 @k_hisane

あと、江戸時代も半ばを過ぎると、仕官型が更に「宗家型」「師範型」に分けられるなーと。 宗家型:自流派の宗家として、自前の道場で兵法を教授 師範型:藩校や藩道場などで職務として兵法を教授 この辺は、時代が過ぎるほど後者の比率は上がっていってるんじゃないかなと(推測ですが

2014-10-07 02:23:08
神無月久音 @k_hisane

兵法教授のパターンをざっと書いてみましたが、やはり時代の変遷が結構影響してま砂。よく戦国期と江戸期では型が違うという話がありますが、この辺、教授方法についても同じことが言えるんじゃないかと思うところ。

2014-10-07 02:26:21
神無月久音 @k_hisane

社会自体が不安定な戦国期では、特定の家に仕えても、そこが何時滅びるかわかりませんし、仕官しなかったとしても地域情勢は頻々と切り替わるため、それこそ石舟斎のように自前でそれなりの所領を持ってない限り、安定自体が難しかろうと(まあ、石舟斎も散々苦労した挙句、所領没収される訳ですが…

2014-10-07 02:30:56
神無月久音 @k_hisane

あと、己の兵法を広めたい、と願うなら、自分の足で諸国を廻るしかなかった、というのもありま砂。何しろ治安は最悪ですから、座っててもそうは来てくれない訳ですし。ただ、兵法の需要自体はそれなりにあったでしょうから、腕さえ確かなら、廻国してても割と何とかなってた面はあるのかなと。

2014-10-07 02:33:20
神無月久音 @k_hisane

これが江戸期になると、まず社会自体が安定して、戦も起きないし、家が潰れることも(戦国と比べれば)減りましたし、定住はしやすくなっただろうなと。逆に、戦国期と比べれば、兵法の必要性自体は減って、実力だけでなく、それなりの箔がないと、弟子が入らず食うに困ることになったでしょうけど

2014-10-07 02:40:11
神無月久音 @k_hisane

で、江戸期も半ばを過ぎると、兵法の必要性が更に下がる分、自ら兵法を学ぼうとする熱心な者の比率も同じく下がっていくわけで砂。「元禄御畳奉行の日記」の筆者なんか、弓術師範の娘目当てに通ったりしてる有様ですし(なお、当の娘を嫁に取った後、あっさりと弓の修練は辞めた模様)

2014-10-07 02:45:13
神無月久音 @k_hisane

【元禄御畳奉行の日記(抄)※pdf注意】japanpen.or.jp/e-bungeikan/no… リンク先の5~7Pに筆者である朝日文左衛門重章の武芸修行の様子が書いてありますが、元禄の頃となれば、一般の武士の兵法修行はこの程度だったのかなーと。これじゃ教授する側も変わらざるを得んわなと。

2014-10-07 02:50:57
神無月久音 @k_hisane

ともあれ、こんな連中が増えたものの、武士というのは文武両道が建前ですから、藩としては最低限、面目が保てる程度には武芸を修めてもらわないと困る。てな訳で、藩が作った藩校で兵法も教授することになり、そこに腕の立つ者を師範とし、教授させた訳で砂。自営型の道場だと行かない奴も出ますし

2014-10-07 02:57:37
神無月久音 @k_hisane

これの面白いところは、人より藩校まずありき、というところ。戦国期から江戸期初期ならば、基本、兵法教授をする人間と言うのは、自流派を立てるのが珍しくなく、定住している兵法者なら、自前の道場を持ってる人間も多かった訳ですが、この場合役職が先にあって、指南役はそこに当て嵌められる訳で砂

2014-10-07 03:01:52
神無月久音 @k_hisane

だから、藩校の師範役は、家中で腕の立つ者を据えた訳ですが、適当な者がいなかった場合、とりあえず教授する人間がいないと困るから、ということで、実力不足だけど兵法教授する人間もいた様子。上手いこと縁があれば、浪人がここで職を得るチャンスもあったかもで砂(なお、仕官できるかどうかは別

2014-10-07 03:06:34
神無月久音 @k_hisane

あと、江戸期の特徴としては、「江戸」という人間と情報の集約地が存在したことで砂。ここで名声を得れば、地方にも伝播する訳で、全国に普及した流派は、江戸が根拠になってることが多い。江戸柳生はその嚆矢にして典型例。

2014-10-07 03:11:27
神無月久音 @k_hisane

大名から依頼された流派宗家が、弟子を指南役として推挙する、という形式も、宗矩辺りから固まってきてますしね。細川忠利の手紙でも宗矩に指南役推挙を依頼している話がありますし。その辺は前にスレで書いた通り。【やる夫で学ぶ柳生一族(その40)】tagenmatome.blogspot.jp/2010/10/40.html

2014-10-07 03:17:31
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