2014.10.16 印度洋一郎氏、「聞き書き日本人捕虜」読了後の随想を呟く

稲葉振一郎さんからRTされてきたのをまとめました。
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印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

「聞き書き日本人捕虜」読了。実際、大戦中に捕虜になっていた人や捕虜をは管理する米軍側だった日系人にインタビューした面白い本。なかなか生々しい証言が多くて面白い。表紙がふんどし一丁でホールドアップしている日本兵という、ある種の雑誌みたいな写真なのも、ちょっとインパクトがある。

2014-10-16 11:02:35
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

中には捕虜関連ということで「戦陣訓」作成に関わった方のインタビューも載っていた。この件でよく名前が出る島崎藤村は最後の方に来て、ちょっとコメントしたりした「監修」みたいな立場だったらしい。

2014-10-16 11:05:35
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

中国戦線での、軍規紊乱が余りにも激しく、特に下士官層の士官への不服従、反抗、暴行などが頻発し、日中戦争前半の数年間だけでも数千人が軍規違反の咎で「銃殺」されていた。その他、戦地での住民への暴行、略奪、殺人も多く、士官層はなかなか下士官や兵を統制出来なかった。

2014-10-16 11:09:19
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

まぁ、要するに止め時を見失った戦いを続けている内に、先も見えない兵達が荒んだり、自暴自棄になって、憂さ晴らしをするようになっていったという事か。上の方もそれを承知しているから、強行に粛清とかも出来なかった。下手すると反乱になる。

2014-10-16 11:12:01
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

戦いは止められないし、兵達をすぐに宥める方策も無い。そこで弥縫策ながらも当時の日本の国力で出来る現実的な対策の一つとして、例えば慰安婦の増強などもあったのだろうか。

2014-10-16 11:14:30
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

で、件の戦陣訓の作成者は「むらむらした時には、故郷の女房の顔を思い出せ。自分の女房にそんな事が出来るか」という文を「兵士にもわかるから」という理由で作成したが「陸軍大臣の名で発布する文にふさわしくない」と却下された。結局、お役所仕事というのか、各方面で作っていると抽象的な内容に

2014-10-16 11:17:05
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

実際には、正式な戦陣訓の他にも士官の種本があったのだが、あんまり効果は無く、結局「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケス」の部分だけが具体性があったのでフィーチャーされてしまった。「どうしてあんな事になったのか」と作成者が涙ぐんでいるのが、当時の日本という国の限界を示しているようで哀しい。

2014-10-16 11:19:29
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

フォトジャーナリストの名取洋之助も、中国戦線で日本兵が色々しているのを目の当たりにして、「犯すな、殺すな、奪うな」とか壁にペンキで書いたり、チラシを配ったりしたらしいが、多分馬の耳に念仏だったのでは。財閥の係累でもあるアッパーな名取に、当時の兵のメンタリティなど理解出来ないだろう

2014-10-16 11:26:41
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

この戦陣訓の作成者は、「兵隊にもわかるような内容にする」事を強調しているが、この本人は一般大卒の士官だった。戦前の日本人の知的レベルや価値観の格差の大きさを垣間見せているような気がする。

2014-10-16 11:31:42
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

ウチの町にも、隣の町にも何故か戦時中捕虜収容所があった。町の黒歴史みたいなものなので、詳しい事はわからない。少年時代に勤労奉仕に行ったおじいさんの話を少し聞いたことがあるが、食堂で食事していると捕虜が監視兵の目を盗んで、「こっち来い」という手つきをする。最初は警戒して行かなかった

2014-10-16 11:50:10
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

しかし、ある日好奇心に負けてとうとう側へ行った。すると、捕虜は食事についている漬物をくれたという。鼻をつまんで「臭い、食べられない」というしぐさをした。食べ盛りの少年のこと、ありがたく頂戴すると他の捕虜まで我も我も漬物を持って来る。よほど漬物が嫌だったのだろう。

2014-10-16 11:52:42
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

もしかして、戦後になって「異臭を放つ野菜を食べさせられた」という捕虜虐待案件になっていたかもしれない。

2014-10-16 11:55:06
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

ウチの町の収容所にいたイギリス兵の回顧手記を、ウチの町の人が翻訳して自費出版で出したので一冊頂いたが、戦時下の日本の捕虜収容所を内部から見た大変貴重な証言。短波ラジオの部品を分散して隠し持ち、夜宿舎で組み立てて、毎晩BBCを聴いていたとか映画みたい、ってこっちが元ネタか。

2014-10-16 11:57:51
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

食べ物が粗末で、石灰岩を採掘する重労働をさせられて、毎日毎日監視している日本兵に「バカヤロー!」とビンタをくらう。一番聞いた日本語の単語は当然「バカヤロー」。戦後も、レストランの隣の席に日本人がいて、日本語を聞くとPTSDの症状が出たというのも無理ないか。

2014-10-16 12:02:02
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

「聞き書き日本人捕虜」によると、戦時下の東京で捕虜への食料として豚を運搬していたら、それを目撃した市民から「我々は御国のために耐乏生活しているのに、敵の捕虜なんぞに貴重な肉を食わせるのか」と非難が相次ぎ、軍当局が説明に追われた事もあるらしい。

2014-10-16 13:14:22
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

総じて、国内の捕虜収容所は戦後思われているよりも捕虜の待遇を配慮していたらしい。只、何と言っても当時の日本の生活水準そのものと英米のものとは隔絶した差があったし、敗色が濃くなると当然物資も乏しくなる。

2014-10-16 13:16:25
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

そして、ここが重要だが責任者クラスの士官が配慮していても、中間の下士官や末端の兵士による暴行や物資の横取りが多かった。この辺は、当時の外国人と接しない日本の庶民と英米人との価値観の相違もあるだろうし、現場で毎日接していると軋轢もあるだろう(理解が進んだこともあるらしいが)。

2014-10-16 13:18:04
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

日本が勝ち戦の時には、まだ日本側にも捕虜に対する気持ちの余裕もあったようだが、負けが込んできて、本土が空襲されるようになると、気持ちも逆立ってくるだろう。そこに「俺達は死ぬまで戦うのに、こいつらは降伏してのうのうと生きて、俺達から飯をもらている」と思えば・・・自分だったら?

2014-10-16 13:21:23
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

だから、空襲される一般人なんかだとB29のパイロットに対する憎悪も一方ならざるもので、被弾して脱出したが地上で民間人にリンチされて殺される米兵も少なかったようだ。新潟県内でも、降下した米軍のパイロットを村人達が竹槍でメッタ突きにして惨殺したという事件もある。

2014-10-16 13:25:25
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

もし「戦陣訓」に「婦女子を暴行するな、自分の女房がそんな目に遭ったらどう思う」という一文を載せたとしても、哀しいかな、それを理解しない層もいただろう。例えば、小作の次男、三男は家を継いだ長男の厄介になりながら部屋住みで下男のように働き、一生を終わり、結婚する機会もほぼない。

2014-10-16 15:50:45
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

そして、娼婦を買う経済的余裕も無ければ、行動の自由も無い。そんな男性が戦地に行けば、もしかしたら戦場だけが人生で勝ち組として振舞える唯一の場所だったかもしれない。そして、女性とどんな形であれ、触れ合える唯一の機会だったかもしれない。そう考えると、日本兵の行動の理由の一端も・・・

2014-10-16 15:54:16
印度洋一郎 Yoichiro Indo @ven12665

こういう事を考えていくと、歴史を理解する事の複雑さがわかるような気がする。そりゃ「戦争の悲劇」とか「戦場の狂気」とか、ざっくり総括したくなる気持ちにもなろうというものだ。

2014-10-16 15:55:12