歴史的仮名遣い:奈良・平安初期の畿内語に即した表記法。 現代仮名遣い:昭和中期の東京語に即した表記法。 ・・・で大体合うてるやんね。
2010-11-27 11:16:02どこどこ方言と云ふものは、その背後により一般的な日本語と云ふものを想定する必要があります。そこから一部の語彙が特に目立つやうになつたり、發音がずれたりして、特殊化して方言が成立してゐます。
2010-11-27 14:15:28@nozakitakehide ええ、さうですね。まさか東京方言=一般的な日本語で、特殊化された方言ではないと仰るわけではありませんよね?
2010-11-27 14:16:53特殊の語としての方言は、一般的な語としての日本語から、發音がずれてゐるわけですが、そのずれ方は規則的である筈です。となると、發音の違ひを捨象する歴史的假名遣では、最う方言の觀念そのものが意味を持たなくなるわけです。
2010-11-27 14:17:16方言における特殊な語も、文法的には大元の語からの變化として大體説明出來るわけで、さうなると歴史的假名遣としては、その大元の語に基づいて表記を定めるとか、發音の變化の度合から音便として處理するとか、出來るやうになります。
2010-11-27 14:21:10@nozakitakehide 現代仮名遣ひが各地方言の音韻を表現しきれないやうに、歴史的仮名遣ひも当時の平安京での発音しか反映してゐないと私は思ひます。
2010-11-27 14:21:22@owmist 抽象的な日本語の語の觀念から、どの方言も何らかの規則に從つてずれてゐるものと想定して良いと思ひますが如何。と言ふより、各地方で全く無關係に發生した言語ならば、ずれではない語の差異はあるでせうけれども、方言が方言である限り吾々はすべて日本語と認識します。
2010-11-27 14:23:47@nozakitakehide もしかして、「畿内語」「東京語」といふ用語がややこしかったでせうか。「畿内方言」「東京方言」と同義ですよ。
2010-11-27 14:25:25@owmist 畿内の言葉も、觀念としての日本語が現實に現はれた一つの具體的な事例であると考へます。
2010-11-27 14:25:51@owmist 「現代仮名遣」も實際に東京で話されてゐる言葉の發音記號をそのまゝ表記としたものではありません。觀念的な「東京語」を創作し、その觀念的な「東京語」の發音記號を即座に表記に――さらにそれが歴史的假名遣の規則を一部に殘してしまつたからわけがわからなくなつてゐる。
2010-11-27 14:28:17@owmist と言ふか、發音を表記に持つて來る時點で、既に一種の抽象化が行はれてゐるんです。「私は」と云ふ意味で「わたしは」と云ふ音韻の言葉を發した積りの人のその音聲を、聞いた人間が「わたしは」なる音韻であり「私は」の意味であると認識するのは、最う抽象化にほかならないです。
2010-11-27 14:30:58「私は」と云ふ觀念を音韻にして發聲した――その音聲と、音聲を認識した音韻と、その音韻を「文字」にした表記とは、直結してゐると皆思つてゐるのですが、實際には相當の精神的な働きが介在してゐます。
2010-11-27 14:32:36@nozakitakehide つまり、(一般的な)歴史的仮名遣ひも、「平城京語」の表記を残しつつ、観念的な「平安京語」を創作し、その観念的な「平安京語」の発音を即座に表記しようとしたもの、なんぢゃないでせうか。
2010-11-27 14:32:45實際、外國人の發する音聲を、何の意味も判らない人が音韻として認識する、なんて事はありません。さらに、音韻を文字に表はす事も出來ません。となると、そこには最う「意味を知つてゐる」=「言語を知つてゐる」事が必要になる。その言語が、書き言葉ではより抽象化される……。
2010-11-27 14:35:23@nozakitakehide アルファベットをどう発音するか、は典型的な例ですよね。「chi」といふ一つの表記でも、話者によって「ち」「てぃ」「き」「し」など様々に認識・発音されるといふ・・・。
2010-11-27 14:35:51@owmist 語彙としての京都の言葉なのか、京都における發音の體系なのか、それが解らないです。
2010-11-27 14:36:32發音する時の一定の規則=音韻と、文字と、その關係についても、實は意外と曖昧に吾々は議論してゐます。
2010-11-27 14:37:34