買い物帰り、ふと思いついて立ち寄った貸本屋で、懐かしい地名が目に入った。 名所図会伊予西条。 興味本位で手に取って中をざっと流し読み、胸にじんわりと温かさを覚えながら、左之助は大きな片手で書を閉じた。
2014-10-26 19:38:17「悪い、また来るわ」 店の者に声をかけ、食材を入れた籠を肩にかける。 機嫌良く軒下から一歩出て、左之助は「あっ」と声を漏らした。
2014-10-26 19:38:45左之助の気持ちを代弁するような曇天からは、今にも涙が降って来そうだ。 軽い舌打ちと共に、すっかり短さに慣れた髪に指を入れて、力任せに頭を掻く。 帰らないわけにも行かず、気まずさを抱えたまま、左之助は我が家へと足を向けた。
2014-10-26 19:39:22どちらか一方が間違っているとは思わなかった。 左之助の言い分を、千鶴にわかって欲しかった。 千鶴の言う事はもっともで、 左之助はそれを否定するつもりはない。
2014-10-26 19:39:44自分の過去の経験が、そうさせてしまったのは明確なのだが__左之助は着物の上から、傷のあるあたりを無意識に撫でる。
2014-10-26 19:40:34日暮れまでまだ時間はあるというのに、気の早い家から、煮物だろうか、甘辛い醤油の香りが漂って来て、左之助の鼻を刺激した。
2014-10-26 19:40:58家庭の匂いは左之助をひどく哀愁に誘い、ごちゃごちゃと考えるのをすっぱり止めて、 こみ上げて来る愛しさに背を押されるように、速歩で往来の風を切って行く。
2014-10-26 19:41:19左之助と千鶴の慎ましやかな家は、町の外れに借りてある。 騒々しくも充実し、篤い仲間に囲まれた数年間の中で左之助と出会った千鶴には、この静けさが意外だったことだろう。
2014-10-26 19:41:38変わって行く新しい世の中に身を置きながら、変えたくない旧い生き方も捨てられず、最近再会を果たした永倉や斎藤も似たような事を言っていたのを思い出し、こみ上げてくる笑いを、奥歯を噛み締めて堪える。
2014-10-26 19:43:04❀˚˟.‧*✿˚˟.‧*❀˚˟.‧*✿˚˟.‧*❀˚˟.‧*✿˚˟.‧*❀˚˟.‧*
正午を迎える頃、左之助と千鶴が野良仕事から家に戻って来ると、家の後ろから誰かが泣きじゃくる声が聞こえてきた。 不安がる千鶴を制して裏に回った左之助の目に入ったのは、殆ど裸で、膝を抱えて蹲っている少年だった。
2014-11-01 18:44:57少年の体は乾いているものの、水を浴びせられたと思しき痕跡が、乱れた髪から見てとれた。 「おい」と腕を引き上げその顔を見た時、左之助は一瞬にして、少年の身に何が起こったのかを察する。
2014-11-01 18:46:57体の到る処に痣と腫れを持ち、左之助を見上げる瞳の奥には、人を恐れない傲慢さが見え隠れしている。 長身の左之助に見下ろされても物怖じしない態度を、左之助は子供の頃の自分に重ね、妙に納得してしまう。
2014-11-01 18:47:31左之助は少年にその場で待つように言い置き、そっとこちらを伺っている千鶴の方に体を向け直した。背中で少年をかばうように。 「着る物出してやってくれねえか」
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