「ベイン・オブ・サーペント」
フルタマ・プロジェクト、第一区画。陰鬱な暗黄色の空を背後に、ずさんな塗装のせいであちこちにひび割れを生じた白色の高層住宅群が立ち並ぶ。
2010-08-03 13:37:34ハイウェイからプロジェクト区画へのジャンクションには、輝かしいネオンで彩られた巨大な看板に「すべてのネオサイタマ市民に暖かい食事と安全を」と誇らしげな字体で書かれている。もちろん、こんな欺瞞を信じるものなど誰一人として存在しない。
2010-08-03 13:42:33企業体による酷薄な再開発によって土地を奪われた人々は、「カンオケ」と呼ばれる黒い窓なしのトラックに乗せられ、最低限の衣食住を保障するこのプロジェクトに押し込められる事になる。
2010-08-03 13:57:56しかし、それでも虐げられた人々は安堵するしかない。少なくとも彼らにはまだ屋根があるし、臓器もある。まだきっと這い上がる余地はある......そう自らにいい聞かせ、汚染された河川に隔てられたオムラ・インダストリの工場へ向かう往復バスへ、毎朝5時に乗り込むのである。
2010-08-03 14:07:04しかしてこの日。「カンオケ」の列をすり抜けるようにして、一台のロードキル・デトネイターがジャンクションを通過し、プロジェクトへ降りて行った。ロードキルは40年以上前に倒産したバイク・カンパニーである。その流麗かつシンプルなデザインは、このマッポーの世においてもはやオーパーツだ。
2010-08-03 14:18:50プロジェクト区画への外部からの出入りは厳しく制限されている。このロードキルは明らかに異物であったが、光学ゲート・セキュリティが咎める事はなかった。
2010-08-03 14:32:46ドライバーは女だった。黒いレザーのライダー・スーツが、しなやかなボディ・ラインを強調している。女はフルフェイスのヘルメットに触れ、ハンズフリー通話をオンにする。「ナンシーよりホゼへ。支障なく通過した、オーバー」「冗談はやめてくれよ、ナンシー」くぐもった、困惑気味の答えが返る。
2010-08-03 14:47:00「何度でも言うが、今やっている事はメチャクチャやばいんだぞ。お前がヘマしたら、俺だって......」「本当に感謝してるのよ、ホゼ=サン。そして、信頼もしてる」ナンシーはロードキルをドリフトしながら停止させた。
2010-08-03 14:51:26ホゼが通信を返す。「当たり前だ。俺の偽装には全く何の問題も穴も無い。でも、俺がどれだけ完璧にこなしたところで、君がやらかしちまったら、それでオシマイなんだからさ」「そこは信頼してもらうしかないわね」
2010-08-03 14:58:52フリージャーナリスト、ナンシー・リーの眼前には、代わり映えのしない白色の高層マンションが列になっていた。「14号棟だッけ?どれ?」「いま場所を送る」ヘルメットのバイザーに簡素な位置情報が点灯する。ナンシーは再びロードキルを発進させる。
2010-08-03 15:05:46「しかし、こんな吹き溜まりに、本当かよッて感じだな?」「そうね。だからこそ今まで気づかれずにきた、消されずにきた、でしょ」「ガセって事は無いのかい?」ナンシーは返事をしなかった。目指す14号棟にたどり着いたのだ。
2010-08-03 15:51:17ナンシーは柳の木の傍にロードキルを停め、フルフェイスのヘルメットを脱いだ。金髪がこぼれ落ちる。ツナミと磁気タツマキに周囲を囲まれ物理的・電子的に完全にサコクしている日本において、「ガイジン」、とくにアングロサクソンの存在は稀である。勝ち気な美貌が目的達成の予感に輝いていた。
2010-08-03 16:50:24「六階だ」ホゼが告げた。ナンシーは慎重に階段を上がっていく。各階の壁には住民間で情報交換を行うための掲示板が備えられている。『おいしいお肉ですか?』『安いと思います。』被写体のマイコが無機的な微笑みを浮かべる色褪せたポスターは何年も前の商品の広告で、住人の無気力、無関心を物語る。
2010-08-03 16:56:27「ヤンバナ・サシミ事件」。ナンシーが半年にわたる取材で情報を積み上げて居場所を特定し、今まさに目と鼻の先に迫りつつある人物は、二年前に政財界を震撼させた、かの疑獄事件のキーパーソンであった。
2010-08-03 17:06:33発端はある偽装事件。国内の食料品シェアの87%を握っていたヤンバナ・サシミ・プロダクト&ディストリビュート社が、十年にわたって、ハマチ粉末に違法なブリ粉末を混ぜ、あまつさえ、コクをごまかすために、危険性が指摘されるプロテインすら混入させていた事が明らかになった。
2010-08-03 17:42:58ヤンバナ・サシミ社は事実を隠匿するために、政府関係者に現金をばら撒き、摘発を逃れていた。しかもその献金は政府の毎年の予算に組み込まれていたのである。
2010-08-03 17:52:36この事実が明らかになったことで、大臣の約半数がセプクし、ヤンバナ・サシミ社は解体、国民の主要な栄養源であったハマチ粉末の供給システムが崩壊した事で、スシが食べられず餓死する人々が前年比30000%をカウントした。
2010-08-03 17:56:11事件に前後し、不可解な動きがあった。疑惑の中心にいた司法大臣、ダイタロウ・モジモトの潔白が最高裁の判決で確定。事件発覚後わずか4日間のスピード裁判である。そして食料品業界のシェア22位の位置にあったドンブリ・ボン社が急激な成長を遂げ、二ヶ月後には業界トップの座についたのである。
2010-08-03 18:17:47ナンシーはこの動きに不可解なものを感じ、動き出した。彼女の執念深い調査は、ついに、当時の捜査最高責任者であった男が突然に職を辞し、行方をくらませていたという事実、そして彼の現住所をも、突き止めたのである。彼の名はアラキ・ウェイ。彼はいったい何を知り、何を恐れて、姿を消したのか。
2010-08-03 18:28:13「六階についた。部屋番号は606よね?」ホゼからの返事を待つが、無言である。「ホゼ=サン?」仕方が無い。ナンシーは部屋番号を目で見て確かめ、606の扉の前に立った。表札に名前は無い。ナンシーはドアノブに手をかけ、ゆっくりとひねった。「開いている」ナンシーは呟いた。
2010-08-03 18:44:14ナンシーは鉄製の扉を押した。錆びた鉄が軋み、ナンシーは顔をしかめた。606は無人のようだった。工場からアラキ=サンが戻るのを待つとしよう。ナンシーはリビングへ足を踏み入れる。「!!」
2010-08-03 18:49:59眼前の光景に、ナンシーは凍りついた。殺風景なリビング。開け放たれたベランダの窓から吹き込む風で、ベージュのカーテンが揺れている。そして、床に倒れて動かぬ初老の男と、その傍にしゃがみ込む赤黒い人影......ニンジャである!
2010-08-03 18:59:16赤黒いニンジャ装束の男はナンシーを睨みつけた。ナンシーは足がすくんだ。ニンジャの顔を覆うクローム色のメンポには、恐怖を煽る字体で「忍」「殺」と彫金されている。初老の男の口からは濁った血液が一筋、床に流れ落ちている。......そんな、なぜ、こんな事が!
2010-08-03 19:11:22ナンシーは弾かれたように606号室を飛び出した。「ホゼ!大変よ、アラキが......」あの初老の男がアラキだ、間違いない。ニンジャがアラキを殺したのだ、よりによって、ナンシーが真実にたどり着くほんの数分前に!だが今はそれどころではない。ナンシーは廊下をダッシュした。早く!階段を!
2010-08-03 19:34:34