利益相反と科学の劣化:科学的とは何か・特別なことなのか?

前のまとめ『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』http://togetter.com/li/698166でのspitzibara氏とのやり取りの続き。 「科学の主流派」「テクノクラート」「医療支配層」や「専門性の権威を守る問題」、自分たちや関連業界(=○○ムラ・村)の権益・利権を守ること、から始まり、"国防のために異分子・非国民を排除"するような「非常時」の「組織防衛」にまで走ろうとする傾向が見られる医療・製薬業界の産官学報の癒着体制について。 更に、研究者や学者が研究対象に関係する企業などから便宜を供与されたり資金援助などを受ける「利益相反」や「科学の不正」の問題。 「研究の不正」によって何が損なわれるか。基礎研究では、主に研究の発展や税金の無駄の問題。医薬や放射能の影響に関する研究などでは住民や消費者・生活者の生命と健康や生活に大きく影響。 続きを読む
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 @hijijikikiの投稿:

大変ご無沙汰しています。@hijijikikiです。
昨年にコメント欄でやり取りしていただいたもののtogetter"まとめ"をやっと作りました。
以下の4つです(コメント欄の下の署名からのリンク、又は題名の検索で見られると思います)。

前のコメントで「近日中」と書いたのが大変遅くなりましたが、お暇とご興味があればどうぞ。

『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』http://togetter.com/li/698166
『援助と政治/大局的な思想:ビルゲイツ氏の慈善vs中村哲氏の支援、三宅洋平氏の選挙フェス』http://togetter.com/li/698196
『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』http://togetter.com/li/698673
『相手の立場が見えない/を決めつけることと、虐待的な親のような場所になってゆく世の中』http://togetter.com/li/698705

2014/7/28(月) 午前 1:19 [ @hijijikiki ]

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上記は、spitzibara氏のブログのエントリー:『「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文』http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63939832.html
のコメント欄へのコメントです。
このコメントの続きのやり取りでの、拙まとめ:『尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛』http://togetter.com/li/698673
に関連する部分は、上記拙まとめの末尾に追加し、このまとめには掲載していません。
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:

 ★「 ワクチン未接種の子どもの入学拒否、裁判所が認める(米) 2014/7/26(土) 午後 10:09 」

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64185721.html

「NYの3家族が、
ワクチンを受けていないという理由で子どもが学校への入学を拒否されたのは
人権侵害である、として訴えた訴訟で、ブルックリンの連邦地方裁判所から
入学拒否を認める判決が出ている。
原告側は上訴。
 
この問題でKlugmanという生命倫理学者がAJOBのブログに書いているエントリーから、
 …… 著者が裁判所の判決を支持する論理の中心部分はこんな感じ。
  (....省略....)

この中で、なんといっても印象的なのは、
the scientific establishment ……。
  (....省略....)

諸々の利権構造とがっちり繋がった
the scientific establishment(テクノクラート?)の支配――。
  (....省略....)  」

 

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リンク 海やアシュリーのいる風景 ワクチン未接種の子どもの入学拒否、裁判所が認める(米) - 海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ NYの3家族が、 ワクチンを受けていないという理由で子どもが学校への入学を拒否されたのは 人権侵害である、として訴えた訴訟で、 ブルックリンの連邦地方裁判所から 入学拒否を認める判決が出ている。 原告側は上訴。 この問題でKlugmanとい...

 

 ● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り

   (spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。影浦氏の名前のみ訂正しました。URLは後で追加)。

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさんがまとめてくださったtogetterの内容が、まさに the scientific establishmentの問題そのもので、読ませてもらっていたら「専門性の権威を守る問題として科学を語る姿勢そのものが実は非科学的である」という言葉で、言いたかったことを捉えることができたので、togetterをお知らせいただいたコメントのエントリーを以下にTB。

2014/7/28(月) 午前 10:42 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

the scientific establishmentですか。すごい言葉ですね。establishmentには主流派という意味もあるようなので、“科学の主流派”という感じでしょうか。(権威=authorityと言ってしまうと、あまりにも露骨なので婉曲な表現を選んだ?)。

「専門性の権威を守る問題」も大きいと思いますが、それ以外にも自分たちや関連業界(=○○ムラ・村)の権益・利権=ベネフィットを守ることも大きな要因のように思えます。

拙まとめ『ワクチンや予防接種を慎重に考える理由と、ネット上の情報リンク』http://togetter.com/li/473861で「接種の危険と利益が誰にとってのどのような危険と利益なのかが問題」と書いたのですが、この「誰にとっての危険と利益」の“誰”の中に、科学者や医者、役人、製薬会社などの業界=ワクチン村の権威、権益や利権を入れれば、子宮頸癌ワクチンなどなどの接種問題で、“専門家”がなぜあのような言動をするのかが良くわかるように思われます。

2014/7/28(月) 午後 11:39 [ @hijijikiki ]

原発や重化学工業などの特定の製品や産物は、住民や一般消費者の生活や生命に対して不可欠で、代替品がないような場合はあまり多くなく、他方で、原発災害や公害の危険や不利益は極めて大きく、広範囲にわたります。
それに対して、ワクチンや医薬では、住民や消費者の生活や生命に対して大きな/不可欠な利益がある(と感じられる)場合がより多いところが問題を見えにくくしている一因であり、薬害などの厄介な点なのかと。

そして、更にセキュリティや危機管理の名の下に、日常生活を「非常時」化、軍事化する方向があります。
『「『日本版ACIP』や『ワクチン局』の創設を」予防接種推進専門協議会委員長・神谷齊氏』http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20100805/240459/という記事にある
「神谷齊氏:ワクチン接種は国防であるとの考えに基づき、予防接種法を根本的に見直す」
という発言です(前記拙まとめにあります)。
上のエントリーから、この話を思い出しました。

2014/7/28(月) 午後 11:40 [ @hijijikiki ]

上のエントリーの「ワクチン未接種の子どもの入学拒否」というのは、感染症などの伝染病の流行を学校という中間集団内だけでリスク化して、その内部だけで将来あるかもしれない流行のリスクとワクチン接種という対策を、その内部のみの対策だけを取ってあたかも既知の確定的な脅威への絶対的な対策であるかのごとく言い、それに反する者を排除するという「非常時」の「組織防衛」のような考え方を思わせます。

ここでは、日本で言えば指定感染症(旧:法定伝染病)に感染した人を登校禁止にするのではなく、単にワクチン未接種なだけで入学拒否という信じられない権利の制限がされているわけで、“国防のために異分子・非国民を排除”というような戦時下の「非常時」や「戒厳令」にも通じるようで、恐ろしいです。

ワクチンを接種しても感染を必ず防げるわけでもなく、未接種でも必ず感染するわけでもないし、事情によって接種できない人もいるだろう。「感染した場合、または感染の疑いが極めて強い場合に登校禁止にする」なら、場合によっては妥当と思われますが、それとは全く違って、ひどい話だと思います。

2014/7/28(月) 午後 11:42 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。scientific establishment、たまたま最近読んだ本の中に頻繁に出てきていたので「テクノクラート」という言葉が浮かんだんですけど、この秋に刊行予定のA・ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』で共訳者の安藤泰至先生が medical establishment を確か「医療支配層」と訳しておられて、「おー、まさに」と思いました。いずれにせよ、こういう言葉がこういう文脈で出てくると、「ついにホンネをむき出しにしてきた」というか「語るに落ちた」というか、そんな感じになりますね。

「あたかも既知の確定的な脅威への絶対的な対策であるかのごとく言い、それに反する者を排除するという「非常時」の「組織防衛」」と書かれているところ、まさにズバリの分析ですね。そこのところを丁寧に解きほぐすことがなかなかできずにいたのですが、hijijikikiさんのコメントはとても分かりやすいです。

2014/7/29(火) 午前 9:32 [ spi*zi*ara2 ]

その背景にあるものは実際、ご指摘の二つだと私も思います。グローバルなワクチン村の利権と、危機管理を名目に強化される監視コントロール社会。この前、監視社会の問題を追いかけてこられた斎藤貴男さんの著作を、ちょっと訳あって集中的に読んだんですけど、日本の軍備がいつのまにかここまで進んでいたことに愕然としました。その斎藤さんが子宮頸がんワクチンの問題に興味を持ってくださっているのは、やはり構造的な問題として必然だなぁ、と思います。

そうですか。ついに「国防」という言葉まで出てきましたかぁ。やはりワクチンは医療や保健の範疇をはるかに越えた、政治経済の問題ですね。

2014/7/29(火) 午前 9:32 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

「その背景にあるものは…グローバルなワクチン村の利権と、危機管理を名目に強化される監視コントロール社会」>この2つの要素は大きな問題だと思います。

後者に関しては、マスコミは地震や噴火に対しては喉元すぎればそれほど騒がないのに、隣国の脅威や未知の感染症の大流行などは、その実態を見ずに危機感を過大に煽って書き立てて、政府が「非常時」を口実に「戒厳令」のような体制を作るのを後押しする恐れを感じます。

前者のワクチン村を初めとする業界の利権を守る産官学の癒着=○○ムラに関しては、spitzibaraさんの過去のブログ記事「HPVワクチン論文の利益相反」などで取り上げられていた「利益相反」、すなわち研究者や学者が研究対象に関係する企業などから便宜を供与されたり資金援助などを受けること、が大きな問題であると思います。

2014/7/30(水) 午前 0:52 [ @hijijikiki ]

ネット上で御用学者といわれている唐木英明氏の論文「科学の不正と利益相反」https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj/130/4/130_4_275/_article/-char/ja/(ネット上で見つけました)には、
「主要な医学雑誌(Annals of Internal Medicine,Journal of American Medical Association, Lancet,NEJM)に掲載された臨床試験の2/3 から3/4 が製薬産業の資金で実施されたものであるが(15),製薬企業が資金を提供した研究では,それ以外の資金で行われた研究よりも,4 倍も製薬企業に有利な結果が出ている(16).」
とあります。
このように、「利益相反」があると、即ちスポンサーが資金提供すると、4倍も有利な結果が出るという様な具体的な数字は重要で、説得力があると思われます。

2014/7/30(水) 午前 0:53 [ @hijijikiki ]

また、この論文を引用している尾内隆之「利益相反を直視する」http://researchmap.jp/joqv3qrap-1863252/(これもネット上にあります)には、
「早くから産学連携が進んだ諸外国の利益相反マネジメントでは,まずは利益相反に関わる情報を可能な限り開示するよう求められ,授受される金銭の額や兼職等に関わる職務規定が細かく定められる」
とありますが、spitzibaraさんの前記記事では、「開示するよう求められ」ても開示しない(多分罰則もないように思われる)ような実態も見られるということで、この様な現状で、倫理規定の制定や倫理教育(前記唐木論文で書かれている対策)などの半端な対応では、利益相反による「科学の不正」が無くなるとは思えません。

なので、利益相反を規制するための法制化や少なくとも内規で企業などからの利益供与を報告・開示する義務を規定してそれを公開すること、更に提供資金の限度やそれを越えたときの罰則の制定などをしなければ、捏造や不正、データの操作が疑われるような論文が次々に発覚している現状が改善されるとは思えません。

2014/7/30(水) 午前 0:54 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、いろいろご教示ありがとうございます。唐木氏も尾内氏も知らなかったので、今度、読んでみます。唐木氏の論文の一節の元情報は、拙ブログでもどこかのメモで拾っていると思うんですけど、最近びっくりしたのは、台湾の研究者の論文撤回から明らかになった、論文の査読システムそのものの腐敗のニュース。STAP細胞問題への研究機関や教育機関の対応を見ていても、科学研究を科学的であらしめてきたはずの構造そのものがもはや崩壊しているんじゃないかと考えさせられます。それを引き起こしているのはやっぱり、カネとそれにまつわる政治、ということになるんでしょうね。

2014/7/30(水) 午前 8:47 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

科学研究が特別、というよりも、現代では科学技術と経済や利権が最も大きく絡んでいる(と思われている)ので、他の分野よりも目立つのでは、と思います。

not invented here (ここで発明されたものではない(から取り上げるに値しない))という言葉があります。このような身内(ひいき)主義・組織防衛/排外的態度や対応は、私自身の経験や、見聞きしてきたことからも、大学の研究室でも企業でも、科学技術に関係していてもしてなくても同じように普通にありました(クローニー資本主義の科学技術版という感じも)。

問題は、「研究の不正」によって何が損なわれるかが重要かと。STAP細胞などの基礎研究では、主に研究の発展や税金の無駄の問題でしょうが、医薬や放射能の影響に関する研究などでは、研究の不正のもたらす結果は住民や消費者・生活者の生命と健康や生活に大きく影響し、ことの重大さのレベルが違うのではないかと思います。

そして、利益相反による不正によって事実をねじ曲げて利益が得られるのは、主に後者の製薬会社や、公害や災害の発生源の大企業が多いでしょう。

2014/7/31(木) 午前 1:37 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。最先端基礎研究から流される華やかな先走り情報が人々の期待や夢を煽って「コントロール幻想」を広げ、それがマーケットを創出し、そのマーケットに科学とテクノ関連企業やそこにつるんだ経済政策の思惑が砂糖にたかる蟻のように群がっては、マーケットそのものを次々に消費していく……というふうに、両者は「コントロール幻想」を介して不可分の関係にあるというのが私の捉え方なので、基礎研究の構造的腐敗はいわば科学が科学であることを支えている構造の崩壊であり、その意味ではある種の大きな社会インフラの崩壊といってもいいほどの重大事なんじゃないかという気が、私にはしていたりします。それは、一方では科学の権威がドグマとして振りかざされて人々を支配するツールとなりつつあることと表裏でもあるような。

2014/7/31(木) 午前 9:43 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

「基礎研究の構造的腐敗」が問題であることは同感で、原爆開発など基礎研究の社会に与える影響が極めて大きくなってから、「科学者の社会的責任」が注目されました。
しかし前に引用した唐木氏の論文にあるように、科学の不正はずいぶん前から似たような不正が繰り返されているようで、「科学が科学であることを支えている構造」が崩壊しているのならずいぶん前から崩壊しているのではないでしょうか。

「科学とは何か」について。前にご紹介いただいた、影浦峡『信頼の条件 原発事故をめぐることば』の11頁に、
「科学とは何か、を巡っては多くの議論があり」…「ほとんどの人が一応は合意するであろう」として、以下のような属性が挙げられています:

① 科学は新しいことを扱う。…これまで十分に説明できなった現象や例を重視することになります。
② 科学的な主張を…支えるデータや関連する知見を…提出する責任を負います。
③ 科学における主張は…他の科学者が妥当性を検討できるような明確さと論理性を備えている…。

2014/8/1(金) 午前 1:31 [ @hijijikiki ]

影浦氏が「科学とは何か」に関して挙げている属性は、とりあえず妥当であると思われますが、これらの属性は科学論文の査読システムなどに適合するだけではなく、例えば、裁判や論争における挙証の正当性や義務、適切さを巡る法令や実践や常識などでも、その内容やめざすところはほとんど同じではないでしょうか。

①はともかく、裁判や論争などに於いても、②「主張を…支えるデータや関連する知見を…提出する責任を負い」③「主張は…他方が妥当性を検討できるような明確さと論理性を備えている」ことが求められ、これを満たさない場合には、裁判や論争などで「科学とは別」のこととされるような場合でも、その正当性や妥当性が疑われると思います。

このように「科学が科学である」ための“属性”は、科学以外の分野での、例えば「裁判が裁判である」「論争がまともな論争である」ための属性と共通する部分が大きく、決して科学だけに固有な要素(思いつくものとしては“再現性”ですが、これは③に含まれます)ではないと思われます。

2014/8/1(金) 午前 1:33 [ @hijijikiki ]

むしろ問題なのは、「科学的である」というラベルを貼ることで、その内容を問わずに無批判に受け入れる風潮や、“科学的”とされる主流派が自分(たち)に都合の悪い主張に対して「非科学的である」「科学的に証明されてない」というラベルを貼ることで多くの人がその主張の内容を吟味せずに悪い印象を抱くような風潮ではないでしょうか。

このような「科学的である」や「非科学的である」というレッテル貼りが、社会的に大きな影響を与えるような「科学信仰」とも呼べるような事態や状況こそが恐ろしいです。

科学の不正は、前述のように古くから同じように繰り返されてきて、そのたびに影浦氏らのように不正を告発し、改善しようとする人たち(「科学者」とは限りません)が出てきて、
(拙まとめ『医療や科学の権威と責任/過剰反応やパニックそして能力主義と差別』を参照)、事態が改善され(またはされず)、ほとぼりが冷めるとまた不正が、という繰り返しが実情だと思います。

ここにも、前に述べた、ぐるぐる回りの、同じ所を回っているようで、少しずつ前進しているらせん状の運動があるのでは(と思いたいです)。

2014/8/1(金) 午前 1:36 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、おはようございます。「科学信仰」はズバリですね。それは私が「コントロール幻想」と呼んでいるものと、たぶん同じか、とても近いものですね。

確かに科学の不正は昔からあったけれど、そこにはやはり「グローバル強欲ネオリベ人でなし金融(慈善)資本主義」(書くたびに順番が変わるような気がしますが・笑)による「変質」が起こっているんじゃないでしょうか。その変質によって、大きな政治経済的な仕組みの中に取り込まれて構造的に起こり始めているという点で、不正はもはや単発的なエピソードの単なる「繰り返し」ではなくなっているという気がします。その点で、いつも同じことになりますが、hijijikikiさんが「事態はそれでも前進している」と捉えようとされるのに対して、私は「事態はどう制御も修復もしようがなく、もはや自動加速的に悪化していく螺旋に突入してしまっているのでは」と希望のない観測となってしまいます。

2014/8/1(金) 午前 8:06 [ spi*zi*ara2 ]

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 @hijijikikiの投稿:

ご指摘のように、私の「少しずつ前進…と思いたい」とspitzibaraさんの「希望のない観測」との違いは、たびたび出てきますね。まあ個人的な感覚や人生観・世界観?の違いで人それぞれ違って当然かと思います。
ただ、そこに至る物事の見方や把握のしかたや考え方などで、前にも書きましたが、同じ所もあり違うところもあるその両方が、やり取り・意見交換する上で重要だと思っています。
ネオリベ化で科学技術の変質がひどくなったことは同感ですが、科学とその他の人間活動の異同についての考え方は若干違っているのかと。

その違うかもしれないと思われるようなことについて(そんなに違ってないかもしれませんが)。
「科学が科学であることを支えている構造」が、影浦氏が「科学とは何か」に関して挙げている属性などから見て「科学だけではなく人間の活動一般(例えば裁判や論争など)を支えてる構造」の重要な部分であり、その意味で科学が特別のものではない、と私は考えてます。
(専門知識やその解釈など科学に固有・特有な問題もあるとは思いますが、それはまた別に考えた方がよいと思っています)。

2014/8/2(土) 午前 0:52 [ @hijijikiki ]

むかし流行ったという「科学の進歩でバラ色の未来」という期待が、環境破壊や公害や薬害や核兵器・原子力災害などで幻滅に変わり、「本来の科学から外れてしまった」から「本来のまともな科学」を取り戻す、という考え方がありますが、それは妥当なのでしょうか?

「科学をまともな物にしてゆく」ことは重要な課題ですが、「科学の本来の姿」などというものは存在せず、他の人間の活動と同様に、不正や利益相反は最初から当然のようにあって、それに対して批判し・是正しようとする人たちが現れて、その闘争によって事態が改善されたりされなかったりして、今に至っているのではないのでしょうか。

このプロセス・歴史を考えると、民主主義や民主化ということに似ている、というか民主化の過程そのものなのでは。

2014/8/2(土) 午前 0:53 [ @hijijikiki ]

具体的な物事の決定や取り扱いに関する民主的でまともな対話や論争による問題解決のやり方は、前記の影浦氏の「科学とは何か」の②「主張を…支えるデータや関連する知見を…提出する責任を負い」③「主張は…他方が妥当性を検討できるような明確さと論理性を備えている」ことが求められ、それらを満たしてない場合には「民主的」「公正」「まとも」な対話や論争ではないとされる場合が多いと思います。
(とはいえ、現実には産官学報の癒着で、このような対話や論争による決定がなされず、更に、そうされなかった事実すら隠蔽されることも多いのですが)。

仰られた「コントロール幻想」について、よく把握できていないのですが、「科学には他の人間の活動にはない独自の長所が元もとあって、それによってよい結果が生じる」ということならば、そんなものは存在せず、不正や利益相反などによる腐敗と、それに対する人々の不断の闘い(spitzibaraさんのこのブログの活動なども)によって、科学や社会の歴史や変遷があり、そしてこのような現在の状況になったのだ、と思います。

2014/8/2(土) 午前 0:55 [ @hijijikiki ]

また長くなってしまいましたが、やり取りしていただいて、ぼんやり考えていた「科学的とは何か」ということと、その他の人間の活動、民主主義や民主化との関係について、関連が少し見えてきたように思います。ありがとうございました。

2014/8/2(土) 午前 0:56 [ @hijijikiki ]

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 spitzibara氏の投稿:

hijijikikiさん、こちらこそ、ありがとうございます。

「コントロール幻想」ですが、科学とテクノロジーの発達によって、あたかも人の体も能力も命もいかようにも操作・コントロールが可能になったかのような幻想が世の中に広がっているということ、その一方で、新薬の開発研究や最先端医療の研究の情報がまだまだ臨床応用どころか緒に就いたばかりという段階から先走り敵に華々しく流されて、人々の夢や期待をおあり、そうした幻想を意図的にふりまいて、そこに新たなマーケットを創出しては、それらのマーケットが次々に消費されていく……。そういう国際的な経済の仕組みが出来上がってしまっているのではないか、各国の政治や経済で起こっていると見えるあれこれは、実はそうしたグローバルな経済の「大きな絵」の中の中に位置づけて捉えなおさなければ、その本質は分からないのではないか、といったようなことなどを、去年の拙著『死の自己決定権のゆくえ』で「コントロール幻想」という言葉をキーワードに書いてみた、というものです。

今後ともよろしくお願いいたします。

2014/8/2(土) 午後 9:17 [ spi*zi*ara2 ]

 ■上記のやり取りと関係する/参考となるエントリー ↓

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■関連するエントリー
●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:

 ★『 「薬、薬、今の世の中、なんでもかんでも薬で簡単解決バンザイ」の副作用 2014/8/3(日) 午後 8:32 』

http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64197774.html

「 7月26日のエントリーのコメント欄での
hijijikikiさんとのやりとりで、昨日、
「コントロール幻想」について、以下のように書いたところ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
科学とテクノロジーの発達によって、
あたかも人の体も能力も命もいかようにも操作・コントロールが可能になったかのような幻想が
世の中に広がっているということ、

その一方で、新薬の開発研究や最先端医療の研究の情報が
まだまだ臨床応用どころか緒に就いたばかりという段階から先走り敵に華々しく流されて、
人々の夢や期待をおあり、そうした幻想を意図的にふりまいて、
そこに新たなマーケットを創出しては、それらのマーケットが次々に消費されていく……。

そういう国際的な経済の仕組みが出来上がってしまっているのではないか、

各国の政治や経済で起こっていると見えるあれこれは、
実はそうしたグローバルな経済の「大きな絵」の中の中に位置づけて捉えなおさなければ、
その本質は分からないのではないか、といったようなことなどを、

去年の拙著『死の自己決定権のゆくえ』で
「コントロール幻想」という言葉をキーワードに書いてみた、というものです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そうしたら、
まさに、その「コントロール幻想」の一端である
「なんでも薬で簡単解決バンザイ」とでもいった幻想について、
問題の本質を鋭く突いた論文がMNTで取り上げられていた。

        
            -------

痛みの緩和、感染症治療、ダイエット、慢性病の治療も
それからセックスも運動のエンハンスメントも、
何でもかんでも薬が中心的な役割を果たす社会。

  (....省略....)

なんで、そんなことになっているのか?
飲む薬を減らすメリットは?

「『薬を飲みなさい』:現代医学における薬の役割と幻想」という論文が
The Journal of Alternative and Complementary Medicineに。

元論文はこちら ↓
http://online.liebertpub.com/doi/full/10.1089/acm.2013.0447

アブストラクトはこちら ↓
(全訳ではなく、概要です)

  (....省略....)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
20世紀以降の製薬業界の急成長につれて、
世の中、なんでもかんでも錠剤(ピル)を飲んで問題解決という文化が蔓延している。

そこでは、
消化吸収できる、効果がある、再生可能、小さく作れる、という4つの特性が
ピルを広く売れる理想的な消費財とし、同時に、
テクノロジーの恩恵の象徴的な「装置」にもしている。

しかし、ピルそれ自体に副作用があることのほかにも、
「誇張されたピル幻想文化(exaggerated cultural fantasy of the pill)」の副作用もあり、

ピル幻想によって、我々は
病気や症状のありかについて、もっと全体としてホリスティックに理解することから
目をそらされてしまっている。

本来、薬は
身体のプロセスや心と頭の「意味づけるという反応」を手助けするものなのに、
そうした薬効のメカニズムが忘れられ、別もののように思い込まれてしまう。

治療効果のある薬も多く、それを決して軽んじるわけではないが、
もっと賢く薬を選択し、少ない薬でより効果的な薬の飲み方ができるよう
ピルの周辺の文脈を捉えなおすことを試みる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

著者の一人、デューク大のMitchell Krucoff医師は、

……like most powerful things, their place in modern culture can be unbalanced when the healing context is subverted by priorities like financial gain.

大きな力を持つものの大半にそういうところがありますが、
薬の病気を治すという文脈よりも金銭的な利益のようなことに優先順位がシフトすると、
薬が現代文化の中に占める位置が本来のバランスを失ってしまいかねないのです。

Pills play a central role in today’s society
MNT, August 1, 2014

この問題は前のブログの主要テーマでもあったので、
関連エントリーは、もう数え切れないほどありますが、
その一部をざっと、話題ごとに、以下に。
  (....省略....) 」

  (....省略....)

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リンク 海やアシュリーのいる風景 「薬、薬、今の世の中、なんでもかんでも薬で簡単解決バンザイ」の副作用 - 海やアシュリーのいる風景 - Yahoo!ブログ 7月26日のエントリー のコメント欄での hijijikikiさんとのやりとりで、昨日、 「コントロール幻想」について、以下のように書いたところ。 科学とテクノロジーの発達によって、 あたかも人の体も能力も命もいかようにも操作・コントロール...

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■ 参考となるエントリー

● 影浦峡氏の『「科学的」であること』

 【川内原発再稼働審査書(案)への私のパブコメ(一部)】 影浦峡

http://researchmap.jp/jop1zbij6-111/#_111
から引用:

『(b) 「科学的」であること

図式的に捉えるならば、現在私たちが理解している「科学」は、本質的に以下の二つの要素を含みます。

1.認識及び思考の一般的な手続きに課されるいくつかの要件、および、近代以降の社会においてそれを制度的に反映させたもの
2.科学的手続きに従って獲得され、共有されてきた知見

以下で、明示的に両者を区別することが望ましい場合には、「科学的手続き」「科学的知見」という言葉でそれぞれを指し、その具体的な内容はその都度示すことにします。同様に、「技術的知見」といった言葉も用います。』

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