「政宗が殺せなかった男」 国分盛重の実像

「政宗が殺せなかった男」の主人公、国分盛重。前に感想をまとめたこの本、物語性が強いです(=俗説ベースです)。 では、実像はどうか。研究論文からまとめました。
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武水しぎの @takemi_sigino

#政宗が殺せなかった男 の主役、国分盛重。この本は、いろいろ調べてあって面白いのですが、前にtweetしたとおり、アカデミックを期待しちゃいかんです。 #国分盛重

2014-10-27 22:44:08
武水しぎの @takemi_sigino

じゃ、アカデミックな方は、といいますと、「仙台市史(平成版)」と「「国分盛重」と国分氏の滅亡」(仙台郷土研究 復刊第18巻2号通巻247号 菅野正道)にまとまっています。#国分盛重

2014-10-27 22:59:15
武水しぎの @takemi_sigino

#政宗が殺せなかった男 の眼目である「松森合戦」が俗説であることを踏まえた上で、「「国分盛重」と国分氏の滅亡」に依って、国分盛重の実像をtweetします。 #国分盛重

2014-10-27 23:00:18
武水しぎの @takemi_sigino

国分盛重は、伊達晴宗の5男、天文22年生まれ、母は岩城氏栽松院。初めの名乗りは「政重」。天正5-6年ごろの伊達輝宗書状に「政重」という記述があり、その後天正14年の政宗書状に「盛重」があるので、改名はその間。 #国分盛重

2014-10-27 23:04:05
武水しぎの @takemi_sigino

(「政重」といい、留守「政景」といい、「政宗」といい、輝宗ひょっとして「政」の字になんか思い入れあるのかしら)#国分盛重

2014-10-27 23:05:17
武水しぎの @takemi_sigino

天正5年、国分氏の名跡を継ぐことになるが、国分氏内部に反発があり、「輝宗次男が生まれたら、その子を国分の養子にする。盛重はそれまでの代官」という形で話がついた。その後約9年間は記録がない。#国分盛重

2014-10-27 23:08:17
武水しぎの @takemi_sigino

天正14年7月に政宗から盛重へ仙道の動向を知らせる書状があり、天正15年3月に盛重から政宗に進物が届いた記録がある。ところが、その翌月、天正15年4月に国分氏に内乱が勃発。重臣堀江長門守と盛重が対立して武力衝突に発展した。 #国分盛重

2014-10-27 23:11:51
武水しぎの @takemi_sigino

留守政景の介入と政宗のてこ入れで、盛重は危機を逃れ、堀江長門守は国分領から北目城の粟野大膳のもとに退去した。ここまでが天正15年6月末までの出来事。 #国分盛重

2014-10-27 23:20:25
武水しぎの @takemi_sigino

しかし。実は堀江氏はもともと盛重の入嗣の時に骨を折った親伊達派。堀江長門守の退去先の北目城も、政宗のこの騒動への調停活動の根拠地である。堀江は盛重と対立しているが、伊達とは対立していない。 #国分盛重

2014-10-27 23:25:09
武水しぎの @takemi_sigino

天正15年秋になって、再び堀江長門守と国分盛重は衝突する。盛重に対して不満を持つ国分家中が粟野や堀江を頼って盛重に離反。政宗は今度は堀江を支持し、盛重の国分「名代」を取り上げ、自ら武力調停に乗り出す意思を示した。 #国分盛重

2014-10-27 23:29:50
武水しぎの @takemi_sigino

天正16年1月の大崎攻めに国分盛重は参加していないこと、同3月~5月に国分氏所領の各城に伊達家直臣が在番していること、同年秋~冬に国分氏の家臣であった者に政宗が直接所領安堵の朱印状を与えていることから、 #国分盛重

2014-10-27 23:37:06
武水しぎの @takemi_sigino

天正15年冬に盛重は国分を退去し、その後、新たな当主は置かれず、国分氏はこれをもって滅亡した。 #国分盛重

2014-10-27 23:38:54
武水しぎの @takemi_sigino

ちなみに俗説の国分氏滅亡の松森合戦は、文禄の国分盛重出奔とセット。実際にはこの時には盛重は既に、国分にはおりません。 #国分盛重

2014-10-27 23:47:17
武水しぎの @takemi_sigino

国分を退去した盛重は、母・栽松院のとりなしもあり、伊達宗澄・伊達宗清・小梁川盛宗らと共に、政宗の側近として活動しますが、文禄・慶長初期の伊達家中の動揺期に出奔して佐竹氏を頼り、秋田伊達氏の祖となります。 #国分盛重

2014-10-27 23:55:40
武水しぎの @takemi_sigino

天正末期に政宗側近として活動した盛重は、米沢留守居始め重要な役を務め、文禄3年の秀次事件の際の重臣連署状にも4番目に「伊達九郎盛重」と署名。佐竹に移ってからも横手城代と、決して凡庸では務まらない経歴です。 #国分盛重

2014-10-28 00:00:53
武水しぎの @takemi_sigino

ところで、国分を退去した盛重の立場ですが、「「国分盛重」と国分氏の滅亡」では、「状況証拠」のみと断りながらも、おもしろい仮説が提示されています。 #国分盛重

2014-10-28 00:02:10
武水しぎの @takemi_sigino

天正15年11月14日付宛所欠の、「しゃめんのうへ、むら田みゃうせきにたて可申事」で始まる政宗覚書を、盛重の処遇について記したものとします。すなわち、盛重は国分退去後、村田宗殖(伊達稙宗息)の養子に入ったという仮説です。 #国分盛重

2014-10-28 00:06:09
武水しぎの @takemi_sigino

状況証拠としては、この覚書の文言が、盛重のその時期とほとんど一致していること、同日の伊東重信宛書状にこの覚書を示唆する記述があること、村田宗殖女が盛重に嫁いだ記録があること、#国分盛重

2014-10-28 00:10:06
武水しぎの @takemi_sigino

慶長元年の村田宗殖没の前後、村田家の知行がわずか300石に減らされていることが、盛重の出奔と対応すること、天正19年以降の村田宗殖所領・桃生郡永井にほど近い桃生郡中島城に、盛重居住の伝承があること。が、挙げられています。 #国分盛重

2014-10-28 00:12:42
武水しぎの @takemi_sigino

(村田家の名跡は、最終的には伊達鉄斎宗清次男の宗友が継ぎます。鉄斎さんの長男は白石宗実の養子になった宗直。慶長年間に養子に入ったような記憶。梁川家もからんでなにやらフクザツ……)#国分盛重

2014-10-28 00:16:39
武水しぎの @takemi_sigino

(村田家の本領は万石クラスというのも、初めて知った。持ってたイメージと違った。思い込み、よくない。この辺いろいろ妄想していくと、鉄斎さんや宗直のイメージも変わりそうな気がする……。いや妄想じゃなくてちゃんと勉強して……やっぱり妄想するのだ) #国分盛重

2014-10-28 00:19:12