- misonikomioden
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いつになく珍しく、鑑賞されるものとしての作品について考えてみたい。誰一人いない月面に屹立する自律的芸術作品ではなく、無数の人々の視線に晒され踏み込まれその間で常に遊動している作品とやらについて。
2014-10-01 20:40:34起伏に富んだひとつの地表としての作品。その地形はその場の全ての人々に分有される。起伏は人々の足取りを囲い込む訳ではないが、それでもそれらを「大体のところ同じ」コースへと誘導する。個々人に知覚されるコースは少しずつ異なり、また望めばそれを大きく外れたコースを選ぶこともできるのだが。
2014-10-01 20:54:45作品という以上その背後には作者がいる。しかし作者は飽くまで「自分の意図するコースで進みうる地形」を作るのであって、一般に言われるようにルートそのものを作るのではない。作者とは最初の読者のことだ。
2014-10-01 21:05:27これはすなわちエクリチュールの話だ。ある単一の書かれてあるものから出発して、複数の読まれ方がそれぞれ正当な手続きを踏んでぶら下がってくる。その複数性はあたかもそれらが単数性に先立ってあったかのように誤解されるが、そうではない、始めに物言わぬ地表があったのだ。
2014-10-01 21:24:15そしてこれはグリッチの話だ。あるひとつの電気信号を前に、あるものはそれを光として、あるものはそれを音として、また文字列として、それぞれ自身が依って立つ形式に忠実に、その地形に経路を知覚する。 ひとつの地表に複数の形式が働きかけた瞬間それらの間に生まれるモアレがグリッチだ。
2014-10-01 21:49:01先に最初の読者としての作者について記したことからもわかるように、グリッチとは伝言ゲーム的な劣化のプロセスではない。それゆえそれはもとより制御できるものではない。しかしまたそれは個々の形式による演算の愚直な遂行の結果の産物であり偶発的エラーではない以上、決してカオスの類いでもない。
2014-10-01 22:02:58そして撒種とかグリッチとか称されるこのズレに対しては権力の抑圧が働きかける。「そうは言えども私たちは現に同じ地表に立っている以上、見ているものも同じな筈だ」という訳だ。部分欲動はファルスのもとに、近代的主体は法と科学の中立性のもとに。
2014-10-01 22:24:38このようなズレの抑圧は、場所=語の特権化という形をとる。 「貴方と私は、たしかに空に、青という語に、違う色を見ているかもしれない。しかしそれでもそれは空の色だし、青と呼ばれている。」 住所さえ共有していれば、その語、その場所の内容が何であれ、ビルであれ公園であれ、会話は成り立つ。
2014-10-02 20:56:56ハイデガー曰く「言葉は存在の家である」。不動産という分割不可能なシニフィアンの内側に穏やかに退隠するシニフィエ。 すなわち彼らは都市計画家だ。 彼らは地表を街区の格子に切り分け形式化する。分割を拒むその輪郭線の内側は任意の数値の代入に開かれた変数として判断停止に処せられる。
2014-10-02 21:25:51固有名詞を刻印(=権力)が摩滅してなお幾多の意味付けを引き受けるコインに喩え、寧ろ権威からの逸脱の契機として捉えたミシェル・ド・セルトーのように、 場所=語の特権化に抗う者もいる。しかし彼自身のパリ6月革命について語るように、「転用」の戦略は結局その土地の境界を再生産してしまう。
2014-10-02 21:56:54「哲学者の鼓膜を破裂させながらも、哲学者について言われることを彼になおも聞かせ続けることはできるだろうか。」とデリダは問う (『哲学の余白』) 。 語でありながら翻訳を拒否する絶対的他者として、都市計画家たちのユークリッド幾何学に、斜交いから、語の輪郭を歪ませ分割せしめること。
2014-10-02 22:21:20「哲学者の鼓膜を破裂させながらも、哲学者について言われることを彼になおも聞かせ続けることはできるだろうか。(『哲学の余白』)」というデリダの言葉。 相手の言葉を吹き飛ばしながらもなおも相手に「伝える(我は他者なり、と)」狡知が必要なのです。
2014-11-21 00:59:13