2014年11月26日

駆逐艦春雨(初代)の座礁事故

明治44(1911)年に、現在の三重県鳥羽市で座礁沈没した駆逐艦春雨の話です。
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たまや @tamaya8901

明治44年の今日11月24日、三重県鳥羽市の相差沖で初代の駆逐艦春雨が座礁沈没しました。今日はその慰霊祭が現地で行われます。 pic.twitter.com/uZiHf6HpYD

2014-11-24 08:39:18
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11月24日 駆逐艦春雨(初代)の遭難事故慰霊祭の様子。 pic.twitter.com/BsCw7GDo87

2014-11-26 19:50:52
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慰霊祭には予定が合えば護衛艦はるさめも沖に停泊してくるのですが現在アフリカ方面に派遣のため今日は艦長名の献花のみです pic.twitter.com/WsZ4Hn2bQo

2014-11-24 08:42:47
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この柵の下が春雨が座礁した場所です。対岸は安乗崎。 pic.twitter.com/ZLcg3ejtYB

2014-11-24 08:46:51
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今朝ツィートした、103年前の今日沈没した初代春雨の話をいろいろ。 pic.twitter.com/uVhHkrASqI

2014-11-24 21:07:40
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初代の春雨は、明治33年度計画により建造された国産第一号の駆逐艦で、36年6月26日竣工した。要目は垂線間長69.2m、常備排水量375トン、速力29ノット、兵装は8㎝単装砲2門、山内式57mm砲4門、45cm魚雷発射管単装2基である pic.twitter.com/ArnNwESUu8

2014-11-24 21:09:01
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なお山内式57mm砲は、『日本駆逐艦史』では春雨型6番艦の吹雪以降は短8糎砲として砲力を強化し、1~5番艦も後に同様に改正したとする。ところが、春雨沈没後の引き揚げ物品一覧のうち、主要な搭載兵器を見ると、

2014-11-24 21:10:35
たまや @tamaya8901

3吋砲2門、6听砲4門、魚雷発射管2本、三二式魚雷1本、三八式魚雷3本、演習用頭部3個、五○糎探照灯1個といった記録が見え、春雨は砲の改正がなされず喪失した事が分かる。

2014-11-24 21:11:08
たまや @tamaya8901

なお日露戦争当時、春雨は第一駆逐艦隊(春雨、吹雪、有明、霰、暁)の旗艦で、日本海海戦では28日に欝陵島で夜戦を敢行している。余談だが、私の曽祖父はこの時二等機関兵で、同駆逐艦隊所属の春雨型6番艦吹雪の乗員であった。

2014-11-24 21:13:15
たまや @tamaya8901

春雨は、明治44年11月の土佐沖での演習の後、一旦横須賀に集結し、11月23日午前8時に僚艦の綾波・磯波・浦波と共に出航した。そして所属の佐世保に戻る航海の途中に暴風雨に遭遇し、志摩沖で各艦自由行動に移り、退避をはかった。 pic.twitter.com/UNNYtPwXbi

2014-11-24 21:13:54
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春雨は同日夜に的矢湾に避難しようとした。ところが、湾口で安乗崎灯台があまりにも近いことに驚き、後進をかけたが向きと位置が悪かったために、24日午前1時頃、八正道と呼ばれる浜の岩礁に艦尾を陸側にして座礁してしまう。 pic.twitter.com/2Usg7jsSZB

2014-11-24 21:14:56
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安乗村(現志摩市阿児町)では、24日午前5時頃、安乗灯台看守から長岡村(現鳥羽市相差町)菅崎に駆逐艦らしきものが擱座沈没したとの急報を受け、直ちに村長・巡査・青年団らが船で現地に向かい、救助に当たった。写真は安乗側から見た現場。 pic.twitter.com/2Jet7gU6p7

2014-11-24 21:17:46
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乗員は艦の恢復をはかったものの不可能と判断、艦長は全員を甲板上に集めて天皇陛下万歳を三唱して退艦を指示した。この時の乗組員は、駆逐隊指令大滝道助中佐、艦長児玉兼三郎大尉など合計64名である。

2014-11-24 21:15:32
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その頃相差側でも、村人の小崎喜蔵が薄暗いうちに家を出て、菅崎の海岸に向かっていた。嵐の後の海岸で海藻などを拾うためだった。この道すがら、負傷して衰弱した水兵1名を発見、春雨が座礁したことを知る。水兵は伝令であった。

2014-11-24 21:18:46
たまや @tamaya8901

水兵の救護を妻に託した後、喜蔵は長岡村役場に走って報告する。役場では、ほら貝を吹いて村内に緊急事態を知らせた。

2014-11-24 21:19:10
たまや @tamaya8901

現地に立つとよくわかるが、座礁地点の目の前は断崖である。登るのは場所によっては不可能ではないが非常に困難で、滑落すれば命の保障はない。水兵は、ここを強引に登ったか、岩礁を越えて近くの谷間から登ったらしい。 pic.twitter.com/q6oJByKYeh

2014-11-24 21:20:21
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救助隊が着いた時、マストは折れ、煙突4本と艦橋の上部、後部8糎砲が水面から頭を出している状況で、煙突に数名の生存者がしがみついていた。ところが、嵐の後の大荒れで周囲はうねりが大きく、近づくことが困難であった。 pic.twitter.com/weleFYEboM

2014-11-24 21:21:07
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そこで、志願者を募って命綱をつけ、荒れる海に飛び込んで泳ぎ着き救助した。最初に入ったのは太田忠兵衛、中村藤助、大田三吉の3名であった。生存者には褌の三つ合に縄をかけ、海に飛び込ませて船に揚げる方法をとったという。 pic.twitter.com/PDunlDu11Z

2014-11-24 21:24:02
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この後、流された水兵を助けるため上村仙吉が飛び込み、その妹で当時18歳の海女の上村わさ が飛び込んで救助に向かったのに続き、同じく海女の世古はな も続いて救助にあたった。

2014-11-24 21:24:21
たまや @tamaya8901

最終的に生存者は20名で、相差の救助隊が10名、安乗救助隊は6名を救助した。救助者のうち、体温低下が著しく衰弱していた者は、地元の女性が抱いて人肌で温めて助けた話が語り草になっている(男たちの肌で、とする資料もあるが…)。 pic.twitter.com/n24T6y5ZwA

2014-11-24 21:25:01
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24日昼頃、沖合いに避難していた綾波が湾口に入ってきたが、状況がわからず戸惑っているのが遠望された。この時、救助された春雨の下士官が村民から菅笠を借り、手旗信号の要領で綾波に状況を伝えた。 pic.twitter.com/OJu4SrOdko

2014-11-24 21:25:46
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なお、海軍省へ磯波駆逐艦長により安乗局から発せられた第一報が入ったのは24日午後1時1分であった。 二十四日午前一時的矢港ニ避難ノ為メ入港ノ際春雨擱坐シ菅﨑附近ニ沈没生存者海軍兵曹長一、下士卒十九、其他不明捜索中

2014-11-24 21:27:19
たまや @tamaya8901

この後、潜水漁に長けた相差・安乗の海女が中心となって献身的な犠牲者の遺体の捜索作業が12月6日まで2週間にわたって行われ、生存者への炊き出しと手当て、遺体の安置と火葬など、全村挙げて生業を捨てて救助作業を行った。 pic.twitter.com/FNalAa05fI

2014-11-24 21:28:02
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最終的に殉職した44名全員の遺体が収容され、大滝指令は一番終わりになって発見された。児玉艦長は救助当初息はあったものの、残念ながら介抱の甲斐なく死亡した。 pic.twitter.com/KzIJcBhodJ

2014-11-24 21:28:43
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翌年、海軍大臣から救助隊に感謝状と金一封が贈られた。このうち相差の上村仙吉は、時事新報社発起の義勇表彰会からも表彰と金一封が贈られたが、救助時海面に流れていた油を飲んだらしく、後に病魔に犯されてわずか27歳で没している。

2014-11-24 21:29:25
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