享保・寛政・天保の三大改革のおさらい

田沼時代の評価上昇の反面、偏った過小評価をされがちになっている享保・寛政・天保の三大改革のおさらいツイートのまとめです
歴史 松平定信 徳川吉宗 江戸時代 日本史 水野忠邦
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ut_ken @ut_ken
吉宗の享保の改革ですが、経済の発展による構造変化という危機への対応とも、逆に幕藩制の確立期ともとれる。現在では危機対応という解釈の方が主流ですが
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享保に入った頃の主な課題は、綱吉の頃に初めて発生した財政赤字、これまでとは異なる物価問題、政治への信頼回復。 まず年貢増徴政策。これは吉宗引退後に一旦ピークを迎えるが無理があり、その後は再び低下。 一方、生産を伸ばすために有能な代官を起用し、勘定奉行所も大きく強化整備
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また、殖産興業も積極的に進めて、その一貫として漢訳洋書も解禁。 人口や産業などの本格的な統計調査もはじめている。 情報共有や引き継ぎのための公文書システムの整備も進めた
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米だけ安く他だけ高い物価問題に対しては、株仲間の公認による流通改革と統制、堂島米市場の公認などをして、最終的に元文の貨幣改鋳によるインフレ政策で安定をみた。このように試行錯誤しながら貨幣、商品経済の発展にすり合わせていっている
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また、公事方御定書を代表とする裁判の公正効率化。 そして米の備蓄などの災害対策は享保の大飢饉への対処に有効に機能した。
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また、開発が一旦限界に来て問題の方が大きくなり綱吉のころに一旦停止した、民間資本による農地などの開発を再び進めたのも吉宗。 このように現実に合わせざるをえなかったとはいえ、社会や経済の発展の対応した諸政策をやった吉宗政権を年貢を搾り取るだけの保守反動政治扱いするのは誤解も甚だしい
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続いて松平定信の寛政の改革。まず大前提として、天明の大飢饉による大被害と一揆、打ち壊しの直後だということ。
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社会も享保の頃よりさらに変化して、幕藩制との乖離とそれによる危機が以前より格段に大きくなっていた。享保とのさらなる違いとして、欧米諸国の接近による外交、防衛問題もあった。
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まず誤解が多いのですけど、寛政の改革は年貢やその他の負担の増徴はしてません。民政の回復が優先課題だったから。
ut_ken @ut_ken
まず農村と本百姓体制の再建。そのために、都市からの帰農令や、間引き防止の養育金、荒れた農地再開発の公金貸付などを大規模にやった
ut_ken @ut_ken
商業資本に対してはまず、大飢饉の際には結局、流通物価統制にはほぼ役に立たなかった株仲間の抑制。一方で両替商などの大手商人を起用して米価などの調整にあたらせた。
ut_ken @ut_ken
つまり抑商政策でなく、商業資本と流通物価に対して幕府の主体性を獲得するための政策。松平定信が朱子学で凝り固まった経済オンチという俗説は誤解
ut_ken @ut_ken
誤解が多いいのが棄損令。乱暴な旗本の借金帳消しと思われがちですが、実際には無くした債権は一定以上過去の分で、貸していた札差には取り消し分のある程度の補償金を与え、補償金の財源は他分野の商人からの臨時徴収。これで武家の消費が活発になり商人の益になる経済効果も狙っていた。
ut_ken @ut_ken
また、これに続き貸金会所を新設して、札差の金融を統制した。 ……今日はここまで。スマホで長文作成は無理があった
ut_ken @ut_ken
寛政の改革のあらましについての、昨日の続き。飢饉対策として大名領にもコメの備蓄を義務化。江戸では七分積立金という基金を設けて、飢饉のときのみでなく、日常的にも低利の融資や住民救済に活用された。天保の大飢饉のときにこれらは行き、江戸では打ちこわしは起こらなかった。
ut_ken @ut_ken
文教政策も本格化。教育の普及ではありますが政府に都合のいい思想の普及でもある。これまでの漠然とした教化ではなく目的に適した思想を吟味したうえででやっている。明治以降の国民教育のはしりともいえる。また幕藩体制の、理論的整備もしている。大政委任や鎖国政策に自覚的になったのもこのころ。
ut_ken @ut_ken
また中堅以下の幕臣の能力優先の起用、事務や学問を高く評価する価値観を広めるといったこともしている。これまで述べたとおり、松平定信は田沼に対して逆行的な保守政治家どころか、むしろ近代国家につながる様々なことをしている。
ut_ken @ut_ken
鎖国を国是として確認したうえで国防政策の展開が始まったのもこのころ。なお林子平が処罰されたのは、別に防衛に無関心だったわけでなく、在野の論者が政治批判することを封じるため。なおこれも誤解が多いですが、定信は政治批判や風紀の規制はしても、別に蘭学弾圧はしてないし、本人が蘭学、洋画通
ut_ken @ut_ken
ただ、社会構造の変化や、経済力や教育、国家イデオロギーなどを備えていっている徳川政権外の様々なものなどを抑えるのはやはり、根本的に無理がある。藩の自立化や朝廷の権威化・独自の動きも水面下で進行していた。
ut_ken @ut_ken
遅れましたが、天保の改革の解説。はっきり言って享保、寛政と違ってほぼ失敗といえる結果でしたが、50年前の寛政と比べて大幅に詰んでる状況が背景にある。これを幕藩体制を前提に解消しようとしてもとても無理で、最終解決は明治の新体制構築
ut_ken @ut_ken
問題はまず、さらなる経済発展に対応しきれてないこと。またいわゆる大御所時代に改鋳貨幣を乱発して、貨幣経済をさらに発展差させたが、幕府および領主階級および下層庶民にはインフレが負担となった
ut_ken @ut_ken
、なお、そんなに貨幣経済が発展したのなら商業から恒常的な税金を取ればいいのではないかと思えますけど、当時の幕府の官僚などもそのことは考えていても、長年そうした税制がなかったこと、導入すればそれが価格に反映されて物価がさらに上げることなどを考えて、結局踏み切れなかった
ut_ken @ut_ken
また一揆なども恒常的に激化。百姓や商人も経済力をつけていき(経済格差も広がったが)、幕藩体制に抵抗するよう度合いがずっと強くなった。改革の最中には天保の大飢饉が起こり、江戸での暴動は避けられましたが、疎かにされていた大坂では大塩平八郎の乱が勃発。
ut_ken @ut_ken
藩の自立化も進み独自の殖産興業を進めて、それが流通をかき乱すことにもなっていた。幕府も昔のように拝借金を与えるなどの圧倒的力で上に立つ余裕がなくなっていた。また大御所時代の徳川家斉の婚姻政策とそれによる待遇格差に対しても不満が高まっていた
ut_ken @ut_ken
対外問題でも、寛政のころよりさらにいっそう欧米諸国が頻繁に接近していたうえに、清国がアヘン戦争で大敗したという大事件まで起こって、軍事外交ともに非常に深刻になっていた。
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