渡邊芳之先生 ynabe39の「事実の認識と自分の価値や意見や感情や願望を区別するというのは以外と難しいことで,何かの訓練を受けないとなかなかできない。」

ある領域で訓練を受けていても別の領域では簡単に「事実と価値の区別がつかない人」になってしまうのは科学者でも人文学者でも同じである。 渡邊芳之
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渡邊芳之 @ynabe39

千の風になって。

北海道帯広市 · twilog.org/ynabe39

渡邊 芳之(わたなべ よしゆき、1962年4月22日 - )は日本の心理学者。帯広畜産大学人間科学研究部門(人文社会・体育学分野)教授。博士(心理学・東京国際大学)。 佐藤達哉、尾見康博との共同研究を中心に心理学論、心理学史、人格心理学や血液型性格分類の批判的検討などの分野に論文・著作を持つ。趣味はレコード蒐集。
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡邊芳之

渡邊 芳之 -帯広畜産大学-
http://www.obihiro.ac.jp/ichiran/watanabe_yoshiyuki.html

 

渡邊芳之 @ynabe39

これは前にも書いたけれど,日本の近代教育が「文系と理系の峻別」という欧米になかったシステムを用いることで非常に合理的に発展したこと,それが現在でも日本の中等高等教育の基盤になっていることを無視して「アメリカでは文系理系などと言わない」と言っても無意味だと思う。

2014-12-07 09:07:07
渡邊芳之 @ynabe39

西周が「科学」という日本語を考えた時には「さまざまな科に分かれた学」という意味で,だからいまでいう自然科学は(それを科学と呼ぶのではなくて)「文学」「法学」「医学」などと並んで「理学」という名前を与えられた。

2014-12-07 13:23:45
渡邊芳之 @ynabe39

戦後の教養課程で「自然科学」「社会科学」にはnatural science,social science(s)の対応語があったけど「人文科学」はhumanitiesまたはartsであってhuman scienceというのはもっと後になって使われるようになったことば。

2014-12-07 13:25:59
渡邊芳之 @ynabe39

ちなみに教養課程の「社会科学」には法学,経済学と並んで心理学,社会学も含まれていた。現在の科研費の分野でも心理学・社会学は「社会科学」になっているが,哲学や文学,史学などは「人文科学」ではなく「人文学」になっている。

2014-12-07 13:28:55
渡邊芳之 @ynabe39

科研費の「系・分野・分科・細目表」が日本の「学問」の一つの代表的な分類表だと考えると,学問は「総合系」「人文社会系」「理工系」「生物系」に分かれているとも言える。

2014-12-07 13:30:55
たいちゃん @daiganjouju2011

分科の意味だったんだぁ! "@ynabe39: 西周が「科学」という日本語を考えた時には「さまざまな科に分かれた学」という意味で,だからいまでいう自然科学は(それを科学と呼ぶのではなくて)「文学」「法学」「医学」などと並んで「理学」という名前を与えられた。"

2014-12-07 13:33:21
渡邊芳之 @ynabe39

だから帝国大学の各「学部」は「分科大学」と言われたわけですね。「帝国大学令」では帝国大学に法科大学,医科大学,工科大学,文科大学,理科大学を置くことになっている。

2014-12-07 13:36:24
渡邊芳之 @ynabe39

文系理系の「分割」の流れは旧制高校に「文科」と「理科」が置かれたことと深く関係している。ただし「文科」の進学目標は帝大法学部であって文学部ではないし「理科」の進学目標は帝大医学部であって理学部や工学部ではなかった。

2014-12-07 13:38:24
Nknk75 @nknk75

@ynabe39 Human Science は、日本語においては阪大に代表される人間科学に相当し、人文科学とはイコールではないようにと思いました。当然重なっていますが。

2014-12-07 13:39:59
渡邊芳之 @ynabe39

これは順番が逆で,戦後かなりしてから human science という「思想」が生まれたのをうけて阪大に人間科学部ができたんです。1972年ですね。阪大には文学部は別にちゃんとあって,そこから分離独立して人科ができたんです。@nknk75

2014-12-07 13:43:23
渡邊芳之 @ynabe39

「人間科学」というのはひとつの「イデオロギー」だったわけですが,その後もずっと「人間科学のアイデンティティ」に悩み続けたんですよね。

2014-12-07 13:45:15
渡邊芳之 @ynabe39

似たものに「行動科学」というのもあります。どちらも「文系理系」に反抗して「文系だけど科学である」を形にしようとしたんですね。

2014-12-07 13:46:02
渡邊芳之 @ynabe39

「人間科学部」はその後おおくの大学にできますが,その「イデオロギー」を明確に意識していたのは阪大と早稲田くらいではないかと思います。

2014-12-07 13:47:00
渡邊芳之 @ynabe39

「人間科学の方法論争」なんてのも懐かしい言葉です。

2014-12-07 13:47:33
渡邊芳之 @ynabe39

文系理系というけど帝国大学でも必ず文理が揃っていたわけではないんです。北海道帝国大学には農学部,医学部,工学部,理学部(設置順)しかなくて,法文学部ができたのは1947年,教育学部ができたのは49年。

2014-12-07 13:52:22
渡邊芳之 @ynabe39

北海学園大学が1952年,北星学園大学が1962年ですから戦前は北海道に文系の大学はなかったことになります。北海道には高等師範もなかったので文系の高等教育は小樽高等商業学校だけですかね。

2014-12-07 13:56:37
渡邊芳之 @ynabe39

帝国大学のできた順を見ると大阪帝大は1931年,名古屋帝大は1939年でこれは京城帝大(1924年)や台北帝大(1928年)より後になります。大阪にも名古屋にも帝大時代には文系学部はありませんでした。いっぽう京城には法文学部が台北には文政学部がちゃんとあった。

2014-12-07 14:03:58
渡邊芳之 @ynabe39

帝国大学は戦争に負けなければその後も設置される予定だったのでさまざまな計画があったようです。だから新潟とか金沢とかはいまだに「世が世ならうちも帝大だった」と思っていたりします。

2014-12-07 14:11:22
渡邊芳之 @ynabe39

京城帝大や台北帝大にはちゃんと心理学研究室ができて東大で学んだ心理学者が教授として赴任します。京城帝大は速水滉,台北帝大は飯沼龍遠。

2014-12-07 14:18:28
渡邊芳之 @ynabe39

いずれにしても各帝国大学の学部構成を見ると日本の高等教育は戦前から「国立大学については理系重視」だったことがわかります。文系の高等教育はおもに高等師範学校と私立大学が担っていた。

2014-12-07 14:23:10
渡邊芳之 @ynabe39

理系は技術者養成,文系は教員養成というのが戦前の日本の高等教育の主軸だったのだと思います。これが戦後の教職課程開放で大きく変化する。

2014-12-07 14:24:56
渡邊芳之 @ynabe39

「国立の総合大学」というのは戦前の学制では帝国大学以外にありえなくて,戦後の学制改革でできた国立総合大学は旧制の師範学校や医学専門学校などを転換したものでした。だから戦前には「総合大学を増設する」という趣旨で帝大の新設が計画されていた。

2014-12-07 14:32:22
渡邊芳之 @ynabe39

国内の大学整備より先に植民地に国立総合大学を作った国というのはやはり珍しいでしょうね。

2014-12-07 14:34:08