『マックス・ヴェーバーの犯罪』論争を読む(3章)

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『犯罪』3章での羽入の主張1

宣教師 @sennkyoushi

『犯罪』第3章からはフランクリンの著作を引用した箇所(『倫理』p38~50)にテーマが移る ヴェーバーはまずフランクリンの二つの著作から「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという」「独自な『倫理』」(『倫理』p43)を読み取るがその後(続

2014-12-13 05:45:48
宣教師 @sennkyoushi

続)いったん言を翻し「とは言うものの、フランクリンの道徳的訓戒はすべて、[...]功利的な傾向をもっている」(『倫理』p46)と先ほどの「独自な『倫理』」とは「鋭く相反し合うものと思われる」(『犯罪』p142)解釈を述べる

2014-12-13 05:46:05
宣教師 @sennkyoushi

そしてヴェーバーはフランクリンが単なる功利主義者でないことを論証する際に根拠の一つとしてフランクリンが「善徳が『有益』だということが分かったのは神の啓示によるので、それによって、神は自分に善をなさしめようとしておられるのだと考えていること」(『倫理』p47)を挙げる

2014-12-13 05:46:40
宣教師 @sennkyoushi

これに対してヴェーバーがフランクリンの著書中のどの部分を元にこのようなことを述べているのかを羽入は疑問とし 『倫理』中で少し前の箇所に付された注に引用されているフランクリン『自伝』の一節(『倫理』p49)がそれであろうと考える

2014-12-13 05:47:54

↑「ついに私は、人間関係における真実と正直と誠実が、人生の幸福のためにひじょうに重要だと確信するようになった。そしてその時以来、それを一生涯実行しようと思い、この決心を日記にも書き込んでおいた。私にとって、それが啓示だったことが重要だったわけではない。私の考えでは、ある行為が悪であるのは、それが啓示によって禁止されているからではなく、また善であるのも、啓示によって命令されているからではなくて、おそらくある行為の禁止されているのは、それが本来有害なため、また命令されているのは、それが有益なためであるように思われた」(『倫理』p49)

宣教師 @sennkyoushi

しかし羽入によればこの引用文はフランクリンによる英語原文とは重大な相違が二点あり(『倫理』執筆当時流通していた独訳により違いがもたらされた)他にも一点の理由からヴェーバーが想定しているような意味では捉えられないという

2014-12-13 05:48:33
宣教師 @sennkyoushi

まず引用文中「ついに endlich」および「その時以来 von jenem Augenblick an」は独訳での加筆でありこの二点によってヴェーバーが誤解釈して生み出したのがフランクリンに啓示が下ったことで劇的に「善徳の実践に『改信』した物語」(『倫理』p47)であるという

2014-12-13 05:49:38
宣教師 @sennkyoushi

二点目に引用文中の「私にとって、それが啓示だったことが重要だったわけではない」の部分は(ヴェーバーのドイツ語での引用とその羽入による訳は「啓示そのものは、しかしながら、事実、私にとっていかなる重みもなかった。そうではなくて、私の考えに(続

2014-12-13 05:51:00
宣教師 @sennkyoushi

続)よれば…… Die Offenbarung als solche hatte jedoch in der Tat kein Gewicht bei mir, sondern ich war der Meinung...」『犯罪』p160)であり英語原文およびその羽入に(続

2014-12-13 05:51:45
宣教師 @sennkyoushi

続)よる訳では"Reveration had indeed no weight with me, as such; but..."(『犯罪』p160)「啓示は確かにそれ自体としては私にとって何らの重みも持っていなかった。しかし、私は[...]」(『犯罪』p158)である

2014-12-13 05:52:09
宣教師 @sennkyoushi

このこととこの『自伝』引用部の直前にはフランクリンは若いころにはキリスト教の啓示を全否定していたことが述べられていることから引用部は英語原文の本来の意味では「啓示は私にとって確かに相変わらず重みを持たなかったが、しかし、啓示を完全否定していた十五歳の頃とは違い、(続

2014-12-13 05:54:26
宣教師 @sennkyoushi

続)啓示は我々にとって悪であることを禁じてくれ、また、有益であることを命じてくれているのかもしれない、という以前よりは啓示に対して好意的な意見を抱くようになった」(『その後』p312)のようであると考えられる

2014-12-13 05:54:38
宣教師 @sennkyoushi

対して原文に存在した"indeed...but"の構文が独訳では正確に訳出されていないためにこのような意味にとれなくなっている

2014-12-13 05:57:44
宣教師 @sennkyoushi

このように引用部の「啓示」という語は英語原文では「フランクリンは青年期以降に劇的な啓示が下ったために善徳の実践に改信した」というような意味では捉えられないのでやはりヴェーバーは誤っていると羽入は言う

2014-12-13 05:58:40
宣教師 @sennkyoushi

三点目に羽入はフランクリン『自伝』のオリジナル草稿を持ち出してきてそこでは「啓示は確かにそれ自体としては私にとって何らの重みも持っていなかった。しかし、私は[...]」の主語は元々"Reveald Religion 啓示宗教"で(続

2014-12-13 05:59:12
宣教師 @sennkyoushi

続)あったのが"Reveration 啓示"に書き改められているためこの点からも劇的な啓示が下ったというヴェーバーの解釈は成り立たないという

2014-12-13 05:59:20

羽入に対する批判1

宣教師 @sennkyoushi

以上の『犯罪』第3章に対する批判として茨木がまず「とは言うものの、フランクリンの道徳的訓戒はすべて、[...]功利的な傾向をもっている」(『倫理』p46)というヴェーバーの記述はドイツ語原文では"utilitarisch gewendet"だから正確には「功利的な、(続

2014-12-13 06:01:25
宣教師 @sennkyoushi

続)裏返された形で表れている」という意味であり功利的傾向は「資本主義の精神」の理念型構成に不可欠であり ヴェーバーの主張にとって否定したいものではないという点を指摘する

2014-12-13 06:01:34

↑ただしこの点は羽入の主張を直接攻撃するものではない

宣教師 @sennkyoushi

次に「フランクリンは啓示が下ったことにより劇的に『改信』したのだと」ヴェーバーは考えていると羽入は主張しているが実際にはヴェーバーは「善徳が『有益』だということが分かったのは神の啓示による」(『倫理』p47)とだけ述べており(続

2014-12-13 06:05:08
宣教師 @sennkyoushi

続)ヴェーバーの記述からは劇的な「改信」物語など読み取れないと茨木は指摘する

2014-12-13 06:05:17
宣教師 @sennkyoushi

そしてヴェーバーのいう「啓示」は一体なんだったのかという点についてはフランクリン『自伝』の「私の考えでは、ある行為が悪であるのは、それが啓示によって禁止されているからではなく、また善であるのも、啓示によって命令されているからではなくて、おそらくある行為の禁止されて(続

2014-12-13 06:06:59
宣教師 @sennkyoushi

続)いるのは、それが本来有害なため、また命令されているのは、それが有益なためであるように思われた」(『倫理』p49)という箇所で「禁止」および「命令」の意味上の主語は省略されているが全て「啓示」であるから(続

2014-12-13 06:07:21