正教会における「罪」「罰」「原罪」観をめぐって

内容はタイトルの通りです。 「正教会は罪も罰も無く、ゆるめの教派らしいです」と【好意的に】書かれた記事が会話の発端です。悪意の欠片も無く、敬意を欠いて居る問題とかもない記事でしたので、強く突っ込めず…難しい… 元記事の書き手の方には、好意的に書いて下さった事には感謝しております、ありがとうございました。
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涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

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2014-12-13 10:32:24
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

私はその記事紹介しませんでした^^;「好意的に書いてくれているけれど、突っ込み所が結構ある、が、権威は無い一ライターによる感想記事」なので、どう言って良いか分からなくて…。ただ「罪も罰も無いそうです」だったら、ドストエフスキーの「罪と罰」はどうなるのかと続 @Kolya_0207

2014-12-13 10:33:00
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)伝言ゲーム、気を付けなければ…。 ○「原罪という言葉で表される西方教会における罪観と、正教会における罪観は違います。原罪という言葉を使うのを避ける事があります。」 →△「正教会には『原罪』はありません」 →×「正教会には『罪』『罰』がありません」 続 @Kolya_0207

2014-12-13 10:35:45
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)アダムとエヴァの罪による死という結果を「原罪」と呼ぶのであれば、正教会にも「原罪」はあるが、しかし「原罪」と言うと西方教会におけるような「原罪責・罪の遺伝・責任の遺伝」という捉え方がついてまわる、なので正教会では「原罪」という言葉を使うのを避ける(続 @Kolya_0207

2014-12-13 10:38:47
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)しかし一般観光客さんにここまで説明する必要は殆ど無いんですよね…。なので「正教会に原罪という考え方はありません」で済ませる事も多い。でもその中に作家・エッセイストが含まれている場合、その通り書かれるか、悪くすると伝言ゲームに…。難しいですね… @Kolya_0207

2014-12-13 10:41:04
深銀色 @thewhitenotes

@suzutuki1980 @Kolya_0207 たぶんですが「罰の無い罪」というものが想像しづらいのでしょう…「正教会の手引き」を4日ほど毎日全部読んで考えてみたところ、ずっと違和感なしに仏教・西方教会の教えに納得している人にとってはそこが難しいのかなと思ったことがあります。

2014-12-13 10:42:00
深銀色 @thewhitenotes

@suzutuki1980 @Kolya_0207 私が長いこと西方教会に通いながらも不思議な違和感持ってたのがその点だったりするので、理解力は人によりけり、だと思います

2014-12-13 10:43:00
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

うーん…。「罰」と呼び得る現象は正教会にもあります(そこは「罰が無い」まで言うと誤解を呼びます)。ただ「罰(と呼び得るもの)」にも「神の愛」「神の配慮」がある、と捉えます。これを端折って「罰はありません」と言われてしまう事も… @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:44:20
深銀色 @thewhitenotes

@suzutuki1980 @Kolya_0207 そうですね…「テメーのせいだ!(怒)」「因果応報だからアンタが全部責任背負え」って感じの罰を受けるとは考えられないというのが私の持った最大の感想です。

2014-12-13 10:46:32
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

西方教会における「原罪」観と言うのは、何も自虐とか理不尽な話とかではなく、一つの論理的演繹とも捉えられます。「人は死ぬ者として創られなかったのに、アダムとエヴァの罪の結果、皆死ぬ者となった。全員死刑になったようなもの。続 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:50:20
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)なんで罪・責任が無いのに全員死刑にならなければならないんだ。赤ん坊のうちに死ぬ子とか…」という切実な疑問に対する答えとして、「いや、罪も責任もある。遺伝する。それが原罪責なのだ」というのが回答の一つとなるわけです(続 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:51:21
システマ多摩:世界の民俗武術・武器術レッスン受付中 @SystemaTama

個人的には、“縁結びのイコン”云々に懸念を抱きますね… >RT 確かに海外の正教(が優勢な)国には“御利益イコン”の風習が根付いている所もありますが日本では(信者の間ですら)そうでもありませんし、

2014-12-13 10:51:50
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)しかし「『罰』には相応の『罪』『責任』が無ければならない」という発想が、既に西方的というか、ローマ法を編み出した人たちの発想というか…。ですから「原罪観の違い」だけでなく「罪・罰観の違い」が東西間に既にあるのですね。(続 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:52:47
システマ多摩:世界の民俗武術・武器術レッスン受付中 @SystemaTama

そこへ持って来て 「正教会は罪も罰も無いゆるいキリスト教」 なんて言う雑な理解しかない状態で“縁結びのイコン”なんて言う部分だけクローズアップされても、誤解が広まるばかりでしょうねー(;^_^A{正教徒は、イコンに願掛けをする為に聖堂に行くのではありませんので念の為)。

2014-12-13 10:55:56
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)正教会における前提は「罪とは神に向かう道から外れた的外れである。『罰』と考えられる現象にも神からの配慮がある。」ですので、「原罪責」という回答を正教会は必要としないとも言える面があるということになります。 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:56:34
深銀色 @thewhitenotes

@suzutuki1980 @Kolya_0207 どちらかといえば重視されるのが責任を負うイコール行いと思いによって償おうとするそのシステムに不完全さを感じています。信仰によって義と言いつつ、必ずそれがついてくるのが難しいというか何といいますか…言語化すること自体が困難です汗

2014-12-13 10:58:04
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

正教会には「償い」はありません。これは断言できます。「原罪が無い」とかの表現よりもハッキリしていて間違いありません。告解礼儀でも「償い」は一切言われません。そこに「罪観」「罰観」が端的に表れています。(続 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 10:59:18
深銀色 @thewhitenotes

@suzutuki1980 @Kolya_0207 そう、それです!その「的外れである」というメッセージとして受け取るのがリアリスティックに感じるのですよ。神秘的でありながら現実的。

2014-12-13 10:59:50
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

承前)「償い」がありませんので、正教会には「免償符」は出現し得ません。逆にローマカトリック教会では「免償符」は(方法論としては否定されていますが)今でも神学的・論理的には否定されていませんし、され得ません。 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 11:00:23
涼月(Κλήμης) @suzutuki1980

正教において神と共にある生活は全て神秘(機密)であると同時に現実です。ただ、これも「慣れ」ると、特に機密的でも現実的でも思えなくなって来る時期があるんですね…。激辛カレーを毎日食べて居たらそれが日常になるのと同じで(続 @thewhitenotes @Kolya_0207

2014-12-13 11:02:31