国民皆保険制度の成立 (未完)

戦前の段階で中断していたものをまとめました。おいおい追加することにします。 吉原健二・和田勝著『日本医療保険制度史』(東洋経済新報社,1999)より抜粋し。
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Pochipress @pochipress

TPP受け入れで皆保険制度が崩壊する方向なのは確かとして、では受け入れなければ崩壊しないのかと思い、健康保険制度の歴史をひもといて見る。

2011-10-30 07:53:50
Pochipress @pochipress

日本の健康保険の前身は「工場法」で、明治後半に農商務省が頑張って制定し、大正5年に施行された。

2011-10-30 08:03:51
Pochipress @pochipress

「工場法」によってはじめて年少労働者の就業時間が規制され、事業主には業務上の傷病に療養が義務づけられた。

2011-10-30 08:43:55
Pochipress @pochipress

工場法案が起草された同時期に、内務省でも疾病保険法案が起草されていた。ドイツの疾病保険法をもとに内務省衛生局長となった後藤新平が推進した。諮問機関である中央衛生会はこれを否認、後藤の台湾民政局長移動によって立ち消えとなる。

2011-10-30 09:06:18
Pochipress @pochipress

明治40年ごろから官民の工場鉱山に共済組合ができはじめる。武藤山治の鐘紡共済組合、八幡製鉄所の八幡共済組合、帝国鉄道庁現業員共済組合(のちの国鉄共済組合)。事業主と労働者の共同出資で疾病給付、死亡給付、養老年金、廃疾給付を行なう(鐘紡の場合)。

2011-10-30 09:20:09
Pochipress @pochipress

大正10年(1921)の全死亡128万人のうち乳児死亡33万人。明治大正期の平均寿命は42~3歳で推移しほとんど変化なし。ちなみに参考文献は吉原健二・和田勝著『日本医療保険制度史』(東洋経済新報社,1999)です。

2011-10-30 09:33:27
Pochipress @pochipress

明治時代はコレラ、痘そう、赤痢などの急性伝染病の流行時代だった。明治30年に伝染病予防法が制定、32年に海港検疫法、33年に下水道法および汚物清掃法(清掃法の前身)が制定されて明治の終わりには大流行も終息していった。

2011-10-30 10:05:03
Pochipress @pochipress

結核は繊維産業が盛んになった明治30年代から問題化した。発病した女工を田舎に帰すことで、都市の病が農村部に広がっていった。明治37年(1904)に結核予防法令である「肺結核予防に関する件」が制定され、喀痰伝染説に従って公共の場所にたんつぼを設置した。

2011-10-30 10:28:48
Pochipress @pochipress

大正5年(1916)政府は保健衛生調査会を設置し、急性伝染病対策から結核性病らいなどの慢性疾患と食生活栄養、居住環境など国民の健康保持増進対策に衛生行政の中心を転換した。

2011-10-30 11:27:44
Pochipress @pochipress

大正時代は乳児死亡率を先進国並みに低下させようという対策が進められた。母子衛生対策、主要都市に小児保健所や小児保健相談所が設置された。

2011-10-30 11:56:20
Pochipress @pochipress

明治7年(1874)衛生行政および医療制度の基本方針を定めた「医制」発布。ドイツ医学による。東京、大阪、長崎に医学校を設立、各府県に公立の病院と医学校を併設。明治10年(1877)東京医学校は東京開成学校と合併して東京帝国大学医学部となり、医師養成の中枢機関となった。

2011-10-30 12:07:44
Pochipress @pochipress

明治39年(1906)「医師法」制定で、医師免許は資格免許となり、同時に歯科を独立させて「歯科医師法」が制定された。これ以前は開業試験を受けて開業免状を取得しており、開業医の子弟で医業をもって家名相続する者には無試験開業が特例であった。とにかく医師が不足していた。

2011-10-30 12:18:53
Pochipress @pochipress

明治10年(1877)西南の役の傷病兵士の治療を目的として創設された博愛社が20年に日本赤十字社と改名。37年以降(つまり日露戦役後)各府県に支部病院を設立した。明治44年(1911)には御下賜金により恩賜財団済生会が設立され、貧民に診療券を発行して公立病院等に救療を委託した。

2011-10-30 12:35:51
Pochipress @pochipress

明治44年(1911)鈴木梅四郎が京橋に社団法人実費診療所を開所。大正に入って同様の病院、診療所が全国に出来はじめ、開業医との間で摩擦を生じ、各地で医師会の反対運動が起きた。

2011-10-30 13:21:14
Pochipress @pochipress

農村部は明治33年(1900)に制定された「産業組合法」による産業組合が病院や診療所をつくりはじめて開業医と摩擦を起こし、「国民健康保険法」ができるとき医師会と産業組合の対立は政治問題化した。

2011-10-30 13:32:23
Pochipress @pochipress

【内務省社会局の所管変遷】 内務省地方局救護課(傷病兵・軍人遺族の救護と一般貧困者の救済事務)→社会課(+社会・福祉問題)→社会局(+職業紹介・失業対策)→社会局を内務省外局にして社会局長官を置く。(ここで農商務省所管だった労働行政を統一的に所管)

2011-10-30 16:20:14
Pochipress @pochipress

大正8年(1919)の社会課改称から部局の変遷を経て社会・福祉問題の統括部署としての形をなし、11年(1922)に農商務省が制定した「健康保険法」も実施は内務省社会局が所管することになる。労働保険が社会保険と呼ばれるようになったのもこのときから。

2011-10-30 16:34:13
Pochipress @pochipress

大正11年(1922)3月、農商務省は労働保険調査会の答申に基づき、健康保険法案を議会に提出した。たいした議論もなく、法案提出後10日余りの3月25日貴族院で可決された。高橋是清内閣(政友会)。

2011-10-30 20:45:12
Pochipress @pochipress

「健康保険法」は工場法や鉱業法適用の製造業や鉱業の被雇用者を強制被保険者とし、電気、土木建築、鉄道、陸上輸送などの従事者には包括的な任意加入の道が開かれた。

2011-10-30 21:07:41
Pochipress @pochipress

昭和の恐慌と、医療過疎で疲弊する農村部は兵隊の供給源としても健康増進の対策を必要としていた。内務省社会局が農山漁民など一般国民を対象とする保険制度についての研究をはじめたのが昭和8年(1933)ごろであった。翌9年、国民健康保険制度要綱案(未定稿)を発表した。

2011-10-30 21:23:20
Pochipress @pochipress

おおむね好評だったので、内務省は全国で12の国民健康保険類似組合を作り、このモデル事業が成功したので昭和10年(1935)要綱案を社会保険調査会に諮問。昭和12年(1937)3月国民健康保険法案を議会に提出したが、(つづく)

2011-10-30 21:40:25
Pochipress @pochipress

貴族院本会議で可決成立する直前の議会最終日に林内閣によって衆議院が解散され(食い逃げ解散)、貴族院も停会となって法案は不成立になった。

2011-10-30 21:42:31
Pochipress @pochipress

政府は法案の再調整を行い、昭和13年(1938)1月第73議会に再提出した。このとき内務省の社会局衛生局を中心とした厚生省とその外局保険院が誕生しており、国民健康保険法案は厚生省保険院の第1号の法案として議会に提出された。今回は順調に成立し、4月1日から公布された。

2011-10-30 21:50:48
Pochipress @pochipress

「健康保険法」の対象は2~300万人の工場労働者。「国民健康保険法」は国民の約6割を占める農山漁村の数千万人を対象とする桁違いの制度だった。しかも諸外国に前例のない事業。

2011-10-30 21:57:51
Pochipress @pochipress

「国民健康保険法」の成立までたどりついた。あとはあらためて継続しよう。

2011-10-30 21:59:56