#リフレ派 経済学者の #田中秀臣 教授 「ケインズはデフレ対策で金融政策を最重要視していた」 について
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田中 秀臣(たなか ひでとみ) 早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。 専門は日本経済思想史、経済学とメディア研究、日本経済論、経済政策、経済時論。 上武大学ビジネス情報学部教授。リフレ派の論客。 pic.twitter.com/rVbJEzIlpf
2014-12-20 14:43:00田中教授がご自身のブログ記事のリンクを貼り付けておられますが、そこでは「ルーズベルト大統領への公開書簡」(1933.12)を使ってケインズの主張を説明しておられます。
デフレ不況をいかに克服するか~ケインズ1930年代評論集
(文春学藝ライブラリー)
松川周二 編訳(立命館大学経済学部教授)
「ルーズベルト大統領への公開書簡」(1933.12発表)より抜粋
<「回復」の手段としての物価上昇>
不況期には、第一の要因が十分な規模で生じることは期待できない。第二の要因は、公共部門の支出によって流れが逆転した後、不況の克服が進む場合にのみ生じるだろう。したがって、われわれにとって最初の主たる一撃として期待できるのは、第三の要因(注:公共部門による支出)のみである。
このように、「回復」の初期段階における主要な原動力として、租税を通じての既存所得からの単なる移転ではない、公債によって資金調達された政府支出の購買力の圧倒的な力を、私は強調したい。実際、政府支出に比肩しうるような手段は存在しないのである。
<好況、不況、そして戦争>
好況期のインフレーションは、投機家たちの熱狂を支えるために、無制限の信用拡大を許容することによって引き起こされる。しかし不況期には、政府の公債支出が物価上昇と生産増加を素早く実現する唯一確実な方法であり、戦争が常に生産活動を力強く促進してきたことが、その証である。
この秋に米国が経験した景気後退は、新政権下の最初の六ヶ月間、公債支出の増加を行わなかったという失敗から予想された当然の結果である。これからの六ヶ月間の状況は、あなたが近い将来において、大規模な支出に向けての基礎を固めるかどうかにかかっている。
私がその影響を恐れるいまひとつの誤謬は、貨幣数量説として知られる粗雑な経済理論から生じるものである。もし貨幣量が厳密に固定されるならば、生産と所得の増加は、遅かれ早かれ、阻止されるだろう。これを理由に、生産や雇用の増加は、貨幣量の増加によって生じると推論する論者もいる。しかし、これでは、長いベルトを買うことによって太ろうとするようなものであり、今日の米国の場合は、胴囲に比べるとベルトは十分に長い。単なる制約要因の一つに過ぎない貨幣量を、主たる要因である支出よりも強調することは、最大の誤りである。
金と物価との間に数式的な関係があると信じることも、同じ思考の馬鹿げた適用である。
<望まれる政策>
国内政策の分野では、私がこれまで述べてきたような理由から、政府主導による大規模な公債支出を強く求める。
<潤沢な低利の信用供給>
第二に私は、低利で潤沢な信用供給の維持、特に長期金利の引き下げを求める。
以上、抜粋終わり。
田中教授のブログ記事と、こちらの抜粋を読んで、ケインズがデフレ不況で「金融政策(金利引き下げ)」と「財政政策(公債支出)」のどちらを重視していたか、みなさん各自でお考えください。
ちなみに私は後者だと思います。ケインズが強く求めた金融政策は、貨幣量の不足という阻害要因の解消・信用供給の維持・長期金利の引き下げです。これらが満たされた上での「政府主導による大規模な公債支出」つまり財政政策こそケインズの政策なのです。ケインズが求めた金融政策は今の日本ではすでに十分すぎるほど満たされています。
以下は、編訳者の松川周二教授による解説です。私も同様に解釈してます。
「回復」の具体的手段としての「物価上昇」について、「物価の上昇なくして生産の増加はあり得ないので、増加した取引額を支える貨幣量が不足することによって『回復』が阻害されないように保証することが、絶対に不可欠」と指摘しつつも、「生産や雇用の増加は、貨幣量の増加によって生じると推論する論者」に対して、「これでは、長いベルトを買うことによって太ろうとするようなもの」と巧みな比喩で、貨幣数量説を厳しく批判する。すなわち「単なる制約要因の一つにすぎない貨幣量を、主たる要因である支出よりも強調することは、最大の誤りである」と。その上でケインズは、「不況期には、政府の公債支出が物価上昇と生産増加を素早く実現する唯一確実な方法であり、戦争が常に生産活動を力強く促進してきたことが、その証である」とし、「これまで戦争と破壊という目的にのみ貢献してきた手段を、平和と繁栄のために用いる自由がある」と、ルーズベルト大統領に向かって、政府主導による大規模な公債支出を強く求めるのである。
ケインズがルーズベルトへの公開書簡を発表した1933年12月の経済状況について
※F・D・ルーズベルトは1932年11月の大統領選挙で当選し、翌年の1933年3月4日に大統領に就任した。
以下、秋元英一「世界大恐慌~1929年に何がおこったか」(講談社選書メチエ)より
p.204
『ケインズは1931年1月のイギリス金本位制定の直後、その決定を支持し、この後は、貿易と通貨価値の変動を通ずる「競争上の不利益」が金本位制にとどまっている国に集中するだろうこと、したがって世界経済と世界の景気回復のためにフランスや、とくにアメリカがイギリスにならって金本位制を離脱する必要を訴えた。彼は翌年ドイツを訪れた時にも、ドイツがなるべく早く金本位制離脱国の仲間入りをするよう説いている。イギリスが自分の力だけでは恐慌脱出が困難であることは明白であり、そのためケインズの議論には最初から「国際的パースペクティブ」がともなった。1932年1月のある講演でケインズは、現在の世界は金本位制を離脱した諸国のグループと、金本位制にとどまっている諸国のグループの二つにわかれていると述べ、後者のグループが金本位制を離脱することが経済均衡を回復する方策の第一歩だと述べている。世界金融恐慌が本格化してしまったあとは、むしろイギリスの指導のもとに、世界各国が資本投資の拡大と物価引き上げに向けて一致して行動するしかないだろうと示唆した。』
p.207
『ローズヴェルトが政権についた1933年四月頃には、ケインズが主張していたような主要国同時的な経済拡大政策の実践に対して一定の支持が見られると同時に、当面の難題である物価の急落に対する多角的な取り組みに対しては広範な支持があった。しかし、ニューディール初期のローズヴェルト政府内外での通貨拡大論者の影響のすごさに気を取られていると、ケインズ主義的な議論をする人々が、やはりある一定の影響力を持っていたことを見逃してしまう。』
p.210
『ローズヴェルトのほうは、実際上は赤字になっていたにせよ、財政均衡ドクトリンを放棄することは出来ず、1936年大統領選挙でも財政の収支均衡の大切さを訴え続けた。』
p.216
『大恐慌下では、最初に一次産品輸出国が、次にイギリス及びイギリス連邦ショックが金本位制を離脱して、通貨の切り下げを行った。これが1931年末までの動きである。その後1933~1934年にアメリカが金本位制離脱、ドル切り下げを行い、それからだいぶ遅れてフランスなど金ブロック諸国が通貨切り下げに動いた。一般的に言って、資本主義世界が金本位制国と非金本位制国とに分かれている状況では、先に金本位制をやめて、通貨を切り下げた諸国のほうが輸出面での有利さもあり、景気回復が早かった。ところで、アメリカでは主要資本主義国と比べて、いかにも失業率が高い状態が長く続いた。救済事業に「雇用」されている人々を失業者と見なせば、1939年においてもなお17%が失業していたのである。工業生産指数やGNPは1939年に1929年の数字を回復しているのだから、アメリカの場合は「失業吸収が思うように進まない景気回復」だったともいえる。』
おまけ)
Wikipedia「アメリカ合衆国の経済史」より
『国際経済面では1933年4月19日の金本位停止と平価の切り下げにより通貨価値の高騰(つまりデフレ)はようやく安定を見せ、1934年1月には金平価を1オンス35ドルと旧平価の59%水準に切り下げた金準備法を制定し金本位制から離脱、ドル安方向に為替を誘導』