結城浩さんの「人間関係に対して個人的に考えていること」
- ebc_2in2crc
- 2161
- 0
- 1
- 1
自分は、他人に対して怒ったり、恨んだりすることは極端に少ないと思う。恨んでもいいような状況がないわけではない。しかし、そういうとき、私はこんなふうに考えることが多い。
2015-01-19 22:28:19私は、この人が嫌いだ。この人が私に影響を及ぼすこと自体が嫌いだ。もしも私がこの人を恨んだなら、私はこれからの人生で、この人のことを何度も思い出し、何度も呪詛を吐き、何度も自分の大事な時間を消費するだろう。私はそれが嫌だ。だから、
2015-01-19 22:31:01だから、私はこの人を恨んだりしない。むしろこの人の幸福を願い、この人の未来を祈る。そうすることによって、私は自分の時間を、大事な時間を、この人を恨むことに費やさないですむ。もしも私に悪意を持っているこの人が悪人なら、神さまからの裁きがあるだろう。そして、
2015-01-19 22:33:44そしてもしもこの人が善人で、悪いのが私であるとしても、私がこの人を恨まずに赦し、幸せを祈ることで、私が神さまから裁きを受ける気遣いもない。恨み続けることでの私のメリットは何一つなく、相手を赦すことによるメリットは無限大だ。私は、
2015-01-19 22:36:47私は、人間関係において、特に相手から害意を受けたときには以上のように考えることにしている。私にとって大事なのは、この世での自分の時間と、死後、無限の時間を目の前にしたときに神さまになんと弁明するか、である。もしも、
2015-01-19 22:39:05もしも、私が他人を赦さなかったなら、「同じ秤」によって私も裁かれるだろう。厳しく人を裁く者は、同じ基準で神に裁かれるからだ。だから私は機会あるごとに人を赦す。赦したい。憎むとしても必ず「行い」や「タバコの煙」である。相手の人格は憎まないように心掛けている。なぜなら、
2015-01-19 22:42:11なぜなら、あなたが人を裁く裁きで、あなた自身も裁かれるからだ。私はこれをとても大事なことだと思っている。厳しく人のことを裁く人は注意せよ。同じ基準であなたも裁かれる。しかし、
2015-01-19 22:44:19しかし、自分が誰をどれだけ裁いているかは、誰にも知られない。心のうちの問題だからだ。口で赦しても、何度も何度も心のうちで相手を責めているなら、赦しているとはいえまい。そして自分の心のうちは、自分と神さまだけが知っている。死後、その申し開きをするのは自分自身だ。
2015-01-19 22:46:38そしてもう一つ。相手を恨む気持ち、相手を裁く気持ちは、赦さない限り、自分自身を蝕む。恨む相手がこの世を去っても、気が晴れることはない。つまりは、赦さない限り、自分の人生は相手に…自分の恨み心に…縛られ、支配されているのだ。もちろん、
2015-01-19 22:48:52もちろん、誰かからつらい仕打ちを受けたのに、第三者が「赦してやりなよ」なんて軽々しく言えない。決して言えない。だから、こわい。責任は(選択は)本人にある。赦すか、赦さないか。恨みの手形を自分で捨てるかどうか。すべて、本人次第である。
2015-01-19 22:51:11私も人並みに、人から恨まれたり、人を恨んだりする機会はあった。でも、ここに宣言できるけれど、神さまのゆえに、イエスキリストのゆえに、少なくとも私の側からは恨みを捨てます。裁きは私の領分ではなく、神の領分だから。
2015-01-19 22:53:29私は相手を裁きません。だから、私を同じ裁きで裁かないでください。と私は死後、神さまに言います。そして「私は罪深い、自分勝手な者ですが、イエスキリストの十字架の救いを信じる者です」と神さまに弁明する用意をしています。あとは神さまの裁きにお任せするしかありません。
2015-01-19 22:56:05以上が、人間関係に対して、私が個人的に考えていることです。私はこれを誰にも強制しませんが、私自身は毎日、平安と喜びに満たされていることをお伝えします。2015年1月19日、結城浩の小さな証しです。
2015-01-19 22:58:55