竹貫氏と精強な弓隊について

鉄砲が主流となった時代、精強な弓隊を従えた伊達氏などと戦った竹貫氏について自身のブログに2005年に下書きしていたものを掲載。
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さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

ただいま帰宅。 今日は以前話していた竹貫氏について私のブログにずいぶん前に下書きで書いて未公開だったものがあったのでそれを紹介していく。

2015-01-23 17:17:49
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「石川系図」によると竹貫氏は石川氏の一族であるとされている。永承七年、源満仲を祖とする石川有光は、前九年の役の際に源頼義に従い、後に陸奥石川の地を与えられたという。三代石川基光の三男石川季康に竹貫の地を与え、そこで竹貫性を名乗ったことに始まるという。

2015-01-23 17:18:14
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それから時は経ち、時期は不明だが竹貫氏は岩城氏の配下となり、天文十年に佐竹氏と白川氏との間で領地をめぐる争いが行われると、不利と見た白川氏は岩城氏に調停依頼をする。当主の岩城重隆はこの調停依頼を竹貫氏に命じて実施させ、佐竹氏と白川氏の間に調停が結ばれた。

2015-01-23 17:18:33
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

内容的には白川氏の東館城を破却ということからも佐竹氏が有利だったことが窺える。

2015-01-23 17:18:38
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天正六年三月、白川氏が赤坂に侵攻してくると岩城氏はこれを迎え撃つ形となった。この合戦において竹貫氏の活躍が感状及び比較的信憑性の高い「白河古事考」の「塙羽黒城主大塚氏由緒」にあるので紹介する。

2015-01-23 17:18:51
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まず感状としては岩城常隆から竹貫三河守、水野大学にあてられたものが ある。「羽黒之城主越前方 水野大学 同但馬両人致討捕申事 乍謂数度之高名 此度之儀は不及是非 仕合共候」とあり、竹貫氏の家臣水野大学と水野但馬が白川方の大将格である羽黒城主大塚越前を討取った功績を讃えている。

2015-01-23 17:19:05
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次にこの戦いを記した「塙羽黒城主大塚氏由緒」を見ると「竹貫か郎等水野勘解由左衛門は無類の精兵にて 五人張矢は猫くぐりと名付 八寸の矢根にて二人三人充一矢に射殺す故 白河勢我先にと引返す 大将大塚大膳吉久も射られて死す」とある。

2015-01-23 17:19:32
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

軍記なので誇張されている部分もあろうが、用いた弓は五人張という非常に剛弓で、その矢も三寸以上で巨大と言われる中で「猫くぐり」と称する八寸という巨大な矢これは猫が潜れるほどの大狩又という意味と思われる。その真相は抜きにしても、水野勘解由左衛門が相当な強弓使いであることはわかる。

2015-01-23 17:19:38
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

さらに「白河古事考」を見ていくと、天正十三年の人取橋の戦いで伊達氏が竹貫氏に苦しめられた様子がある。「竹貫三河守は猶予もせず一陣に進て 己か精兵の手たれ共に下知しけるは 敵の真先へ進むは足軽の雑兵也 必表なる者に目も懸そ 唯繰矢挙高に指上 翔鳥を射様に飽迄引て一度に放せと

2015-01-23 17:20:13
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前後左右に心を賦て下知したり 本より握りに余りたるかもほこ弓につく打て 猫潜りなと云大狩又の矢束普通に勝れたるを 矢つき早に射出す程の手利共六百余人 一度にはつと放ちける

2015-01-23 17:20:26
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

敵も物おぢして今迄勇進たる者共 早後ろさき成て見ゆれは 竹貫すわと下知して 抜連て切て掛る 中にも窪田十郎と云者は 茂庭左近を追掛て組たるか 安々と取て押へ首を掻く 三河守能敵討てけり」と。

2015-01-23 17:20:31
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人取橋の戦いにおいても竹貫氏が弓の扱いに長けた集団であることが垣間見える。

2015-01-23 17:20:59
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特にこの戦いでは飛ぶ鳥を撃ち落すような形で上に指向して一斉に矢を放っている点が興味深く、さらに弓勢を増すために竹ひごを何枚も張り合わせた「かもほこ弓(かまぼこ弓)」が使用されている点からも相当練度が高かったことが窺える。矢に関しても先の白川氏との戦いと同様に大狩又が使用されている

2015-01-23 17:21:16
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本来狩又は狩猟用で鳥や獣の足や翼を射切るためのものなので対人用としても威力が高かっただろう。

2015-01-23 17:21:25
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天正十六年、伊達氏と佐竹氏との間で和議が成立すると竹貫氏より伊達氏に対して献上品が送られた「伊達天正日記」によると「岩城たかぬき中務よりゆミ百丁あけ御申候 いん居よりかりまた上御申候」と竹貫氏より弓を百丁と狩又を献上している。

2015-01-23 17:21:36
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天正十七年になると伊達氏は岩城氏と田村領をめぐって争いとなる。

2015-01-23 17:22:08
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伊達氏は蘆名氏を摺上原で破り会津を手中に収めると、今度は二階堂氏の守る須賀川城が標的となる。この須賀川城を守るために援軍として佐竹、岩城、竹貫氏が行くも落城。この戦いで竹貫氏の当主嫡子、竹貫尚光が討ち死した伊達政宗はこの戦いの後、家臣の片倉小十郎宛てに自筆の手紙を書いている。

2015-01-23 17:22:16
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「いわきしゅニハ たかぬきなかつかさ うへ田たしま きたごう殿 さたけしゅニハもゝ殿 そのほかよきしゆあまたうちころし候 さてもくくく とし月その身なと わきてむねんにおもひ たかぬきをはしめ かくのことくとりなし候事 まんそくすもし候」

2015-01-23 17:22:37
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と以前より竹貫氏より痛い目にあっていた政宗の正直な気持ちが窺える。竹貫氏の存在は伊達氏にとって目障りこの上ないものだった。

2015-01-23 17:22:42
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

次にこの戦いを描いた「奥陽仙道鑑」から竹貫氏の活躍を見てみる。 「岩城常隆よりは竹貫の城主三河守か嫡子竹貫中務少輔と植田城主但馬守八百余騎の勢を付て加勢せらる

2015-01-23 17:23:25
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

竹貫中務は父三河守の兼ねて精兵の聞え有ければ其従ふ処の兵皆弓を以て武功をあらはすにより勝れたる強弓の手だれ共を催し引率しける其中に水野勘解由と云ふ者有 彼か矢は其間六寸余の大雁股にて大弓にせんだん弦掛二十間三十間の敵をばたやすく首を射切る程の精兵なり」

2015-01-23 17:23:37
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

とこの戦いにおいて竹貫氏は水野勘解由左衛門を始めとする弓の精鋭を派遣していたことがわかる。そして先から何度も登場する大狩又は人の首を簡単に跳ねるだけの威力があったこと。これは敵にとっては恐怖以外の何物でもないだろう。

2015-01-23 17:23:42
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

再度同軍記に目を移す「岩城よりの加勢竹貫中務少輔 植田但馬守大勢を率し宿より三四丁程打出 手袋川の端大黒石の辺に支て待掛け 敵味方矢長計りなりければ 竹貫が手の者共強弓の精兵水野勘解由を始として六百余人が矢種を惜します差詰引詰散々に射る

2015-01-23 17:24:06
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

あだ矢少もなければ伊達信夫の兵夥敷射殺されて手負死人さんを乱し人塚をついてぞ見へし」と竹貫氏の独壇場であったことが窺える。しかしながら先の政宗の手紙にもあったようにこの時の竹貫勢の大将竹貫尚忠は討ち死にしていることから竹貫氏が誇る弓兵も多くが討ち死にした可能性は高い。

2015-01-23 17:24:11
さむらい@戦史調査中! @Type96_AAgun

竹貫氏については史料も断片的でなおかつ一般にはほとんど知られていないが、鉄砲が普及し弓が鉄砲や長柄、持槍の補助的な立場となりつつあった中で、竹貫氏のような例というのは必ずしも鉄砲が弓に勝っていたという事になり得ないという証明でもある。

2015-01-23 17:24:39