妹とポリオ(小児マヒ)

泣ける話です。
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小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

小学生の頃、放課後になるといつも憂鬱な気持ちになった。友達と遊びたかったけど、小さな総菜屋をしていた両親の代わりに2歳年下の妹の面倒を見なければならなかったのだ。僕の日課は妹を乳母車に乗せ、近くの公園へ連れていくことだ。妹が嬉しそうに笑顔で「にーたん、にーたん、あーがと」…

2010-12-10 10:13:27
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

妹が笑顔で「にーたん、にーたん、あーがと」と言ってくれることが唯一嬉しかった。サッカーをして遊んでいる友人を見て、妹が何か呟いていた。「ボールを蹴ってみたい…」でも彼女は足が不自由で言葉もはっきり言えなかった。 そう、ポリオ(小児マヒ)だった。

2010-12-10 10:19:37
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

僕が中学に入った頃、妹は入院した。だんだん身体が動かなくなったのだ。ある日、見舞いに行くと、いつもの笑顔で「にーたん、にーたん、あーがと」と言ってくれた。胸が痛くなり、できれば代わってあげたいと思った。 「こんな病気なくなったらいいのに!」

2010-12-10 10:28:17
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

ある夏の日、妹が盆踊りに挑戦することになった。綺麗な浴衣を着て、不自由な手足を一生懸命に動かして踊っていた。側で優しい眼差しで見ていた父親の頬に一筋の涙が… それが娘との最後の別れだった。 翌年の3月、父親はくも膜下出血で他界。そして7月、妹は父親の後を追うように逝きました。

2010-12-10 10:37:34
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

あの気丈な母が号泣していた。 僕は父親と妹を亡くした喪失感と孤独感から自暴自棄になった。つまり俗にいう不良になったのだ。三つの高校と大学中退が僕の学歴だ。その後の仕事も転々、何とか落ち着いたのが小さな貿易会社だった。自分を変えたかった。狂ったように仕事に励んだ。

2010-12-10 10:50:34
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

十数年後、勤めていた会社の社長の後押しで独立することになった。落ち着いた頃、取引先の社長からロータリークラブへの誘いがあり、入会した。三年間は辞めることを考えていた。はっきり言って、面白くなかったのだ。 ある例会の日、ロータリーの月刊誌に「ポリオ」という言葉を見つけた。

2010-12-10 10:57:17
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

初めて真剣に読んだ。ロータリーが世界でポリオ撲滅のために闘っている記事だったが、その文字が滲んで見えた。何とか役に立ちたいと思い、小額の寄付をした。小さなことでも、人に思いやることの大切さを久しぶりに感じた。妹が亡くなってから、ずっと自分勝手な生き方をしてきた。

2010-12-10 11:06:41
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

今では、笑顔で人と接し、道端にあるゴミをさりげなく拾える自分がいる。 ロータリーは僕にとってあの少年時代の忘れていた心を再発見するチャンスを与えてくれた。 今では、心の中で妹の声が聞こえてくる。「にーたん、にーたん、あーがと」

2010-12-10 11:12:03
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

母はポリオ(小児マヒ)にかかった妹に強く責任を感じた。つけた名前が悪かったとさえ言い出した。恵(めぐみ)から恵子に変えた。だから、僕にとっては妹の名は恵子である。

2010-12-10 13:20:35
小倉のワイン王(小倉藩葡萄酒を造ろう会) @kenswine

妹、恵子ちゃんがポリオ発症してから半世紀以上になる。今だに世界にはポリオが感染している。 「こんな病気なくなったらいいのに!」

2010-12-10 13:26:06