大田皇女の墓所発見だそうな。つまり天智の娘にして天武の最初の奥さんであり持統の姉にあたる。持統に粛清された大津皇子とその姉大来皇女の実母でもある。
2010-12-10 10:48:49こういう、古代史の人物の墓がぽんと見つかる国に住んでいるのは幸せなことだと思う。で、この頃の古代史って萌えキャラが多いと思うのは不謹慎だろうか。
2010-12-10 10:50:32今回墓が見つかった大田皇女の子である大津皇子と大来皇女もすげえ萌えるんだよね。大津ってのは親父に似て英邁だったらしく、それで継母の持統に粛清されてしまうんだが、この若者は早くに母をなくしていたせいかたいそうお姉さんを慕っていたらしい。
2010-12-10 10:54:14粛清される直前にも、伊勢までお姉さんに会いに行った記録がある。実はこの時大来皇女は伊勢の斎宮、つまり一種の神聖処女みたいなものにされてたんだが、それでも忍んで会いに行き、翌朝姉の元を離れた後逮捕され即日処刑された。多分、お姉さんに別れを告げに行ったのだろう。
2010-12-10 10:59:45で、弟を失った大来皇女はそれはそれは哀切な挽歌を残してる。愛しい弟はもういない、これからはあの山を弟だと思って生きようかしら、と。きっと美しく優しいお姉さんだったんだろう。姉萌え属性持ちとしては萌えざるを得ない。
2010-12-10 11:03:19その名は高市皇子。天武の長男であり、大津皇子の異母兄にあたる。母親が若干身分が低かったらしく皇位継承順位は大津たちの下だったが、これまた親父に似て英邁だったらしい。壬辰の乱においては、親父から兵権を預かり、軍の指揮を執っている。
2010-12-10 11:11:54優れた武人であると共に政治家としても優れていたらしく、鬼の継母持統にも消されるどころか頼りにされ、皇族の柱として生涯を全うした。事実上天皇だったという説すらある。
2010-12-10 11:15:28彼女は天智の息子である大友皇子と結婚したのだが、壬辰の乱とは天智の弟である大海女皇子つまり天武が、天智の後継者である弘文天皇、即ち大友皇子から皇位を簒奪しようと起こした乱だ。つまり、高市から見ると、十市皇女は姉であると同時に敵の親玉の妻ということになる。
2010-12-10 11:25:08この錯綜した人間関係がこの時代の面白いところのだが、壬辰の乱が大海人つまり天武の勝利に終わり大友皇子が自決した後、そな妻十市皇女は父の元に戻り、その直後急死している。これに際し高市が残した挽歌が残っているのだが、これがまた哀切きわまるものだったりするのだ。
2010-12-10 11:28:50どう考えても、敵の最高指導者の妻だった女性が死んだからと出てくる挽歌ではない。いくら姉だからといってもあまりに哀切かつ情熱的過ぎる。そう、最愛の恋人か妻を亡くした者が吐き出した叫びにしか見えないのだ。
2010-12-10 11:33:49別に私だけがそう思うのではなく、この二人が恋愛関係にあったらしいというのはかなり広く支持されている説らしい。敵の総大将の妻となった実の姉に萌え続ける知勇兼備の若き貴公子…どこのラノベかゲームかと思うが、これが我が国の歴史上の事実なのだ。素晴らしい。
2010-12-10 11:37:43ここで言う高市皇子が死んでなかったら、というのは長屋王のことかしらん。RT @karasuma3476: しかし、もし高市皇子が死んでなかったら藤原氏があそこまで権力を握る事はたぶんなかっただろう。つまり、どういう事かというともこたんの存在があやふやになるのである。それはまずい。
2010-12-10 21:11:40まあ高市も40ちょっとで死んでいるので、長生きしたら、という仮定になるのかしら。高市は暗殺された訳でもなさそうだし(倅の長屋王は謀殺だけど)。
2010-12-10 21:12:53ここからはあまり萌えない話なんだけども。高市の母は身分が低いので天武の後継者になれなかったと一般的に言われるが、確かに弟たち(大津・草壁)は母が皇女(天智の娘)であるからそれと比べれば低いが、高市の母も実は大変な有力者の娘だったりする。
2010-12-10 21:18:12即ち高市の母は北九州の宗像を支配する宗形君の娘であって、ここに宗像大社がありしかも往古からの海運の要衝であること、そして天武(大海人)との関係からすれば軽々に扱える相手ではない。元々大海人は海上勢力との関係が深いとされるし。
2010-12-10 21:22:45壬申の乱の時、高市は18歳になっていて、父から指揮権を与えられ軍事指揮官として朝廷軍と戦っている。他の弟達はほんの子供だったため当然戦闘には参加しておらず、天武が天皇となるにあたって第一の功績があったのは高市であることは間違い無い(嫁の持統は除く)。
2010-12-10 21:25:28天武は息子の序列において高市を三番目に置いたが、母親の身分だけで言えばもっと下に置かれるはず。天武としては皇女を母とした大津・草壁は皇位を継ぐ者として別格として扱い、高市は臣下の最上位に置いた、ということなのかもしれない。その路線は持統も継承した。
2010-12-10 21:28:29高市は持統の治世にあって太政大臣の地位を保つと共に、実際には皇太子に匹敵する格すら与えられていたらしい。その高市が死んだので、持統は草壁皇子の子(つまり自分の孫)である文武に譲位した。もし高市が長生きしていれば、持統の次に皇位に就いた可能性はある。
2010-12-10 21:32:13その場合、高市は天武-持統タイプの皇族起用による政治を行っただろうし、その長男長屋王も成人しているので、藤原氏の出番は確かに少ない可能性がある。少なくとも、史実のように不比等無双や四兄弟の専横は起きないだろう。
2010-12-10 21:36:36だとすれば、下手すると不比等の娘ってことになるな。あるいは四兄弟の誰かの娘か。確か車持皇子って、あのへんがモデルだったはずだ。
2010-12-10 21:40:32