中世フランスの農業の変遷 【中世パン図鑑別冊】

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tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 中世前夜③ ローマ帝国ガリアの農業 ローマ帝国ガリアでは麦、ブドウ、他多様な作物が栽培されワインが作られた。耕作は休耕地と栽培地の二圃制。犂も軽量だった。属州からの穀物収集は帝国の重要課題であり道路網が活躍した。 pic.twitter.com/BUz54Xsotq

2015-06-18 23:11:43
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 ローマ帝国のガリアでは主に小麦とブドウが栽培されていた。小麦はそのままローマに運ばれパンとなり、ブドウはその場で搾られワインに加工されてからローマに運ばれた。

 ニ枚目の彫刻は小麦を収穫する風景で、馬の前につけたクシ付のバスケット車はローマ帝国独特の収穫機である。クシで麦穂をとめて鎌で麦穂だけを刈りバスケットに落とす仕組みである。

 栽培されていた小麦はスペルト小麦、エンマー小麦、セモリナ小麦などが考えられる。

楽しまれていたワイン

 紀元前8000年から飲まれているワインはギリシャ、エジプト、ローマなど地中海沿岸の国々で良く飲まれる飲み物の一つだった。

 ワイン作りはガリアにも広がり、飲みにくい硬水を飲みやすくするためワインを混ぜて飲む事が多かった。当時のワインは醸造技術によりアルコール量より糖度が高く甘さを抑えるためにも水で割った。

ガリアの道路網

ライン川沿いに防衛用の都市が複数見られる。
道路は全ガリアに張り巡らされ絶えずローマに向けて生産物を供給していた。

北ガリア・ライン川沿いの道路網(4世紀)

by Andrei nacu CC BY-SA 3.0

ガリア・ナルボネンシスの道路網(紀元前20年)
現在の南フランス・プロヴァンス

by ExploreTheMed CC BY-SA 3.0

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 修正版 中世前夜④ ローマのパン 「パンとサーカス」ではないが帝国にとってパンは重要だった。デュラム、スペルト小麦と葡萄由来の酵母でふっくらとしたパン(パニス)を作っていた。パンを作る職人やその組合も存在した。 pic.twitter.com/ValzDuEUjt

2015-06-18 23:15:44
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ローマのパン

 ローマ帝国ではパンは様々な食べられ方がされていた。
 朝食(レンタクラム)では主食としてパンの他にチーズ、野菜、果物、水割りワインが飲まれていた。
 
 他の食事の時には肉や魚介、牡蠣などと一緒に食べるパンなどがあった。富裕層向けに蜂蜜、卵、牛乳をたっぷりつかったパンもあったようだ。

 形は、丸く大きく焼き8等分できるよう線が入っている一般的なパン以外にもサンダルの形をした長細いパンなど様々な種類があった。

 パンの生産は、コレギウム・ピストラムというパン作り組織によって生産・管理されていた。

 またパン種は、細かいフスマに白ブドウの絞り汁を加え、3日間寝かせたものを天日で乾かしたものや、キビをブドウ汁でこねて寝かせたものを使っていた。ブドウ由来の酵母を使っていたようだ。

ローマへの穀物供給と「パンとサーカス」

 「パンとサーカス」はユウェナリスの風刺詩に出てくる「民衆は~パンとサーカス(見世物)を求める」の一節で有名な言葉であり、皇帝がローマ市民に食料と娯楽を無償で提供する事で人気を取る事から「衆愚政策」の代名詞として良く使われる。

コインの裏(右)に刻印されたローマへの穀物供給の女神アノーナ

by CNG CC BY-SA 3.0

 しかし元をたどれば、ローマ市民に広く食料を行渡らせる公共事業政策だったことが分かる。

 グラックス兄弟の「穀物法」案、クロディウスの政策実施と共和制時代から政策が続けられていた。

 帝国時代に入るとやがてローマ軍団兵への給付となり、没落市民への恩給、権力者の権威を誇示する手段へと変質していった。
 目的は変われど、属州からローマへ穀物を供給し続ける事が体制維持にとても重要だった。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 中世前夜⑤ 西ローマ帝国滅亡 いわゆる民族大移動と寒冷化により、全ヨーロッパは混乱し西ローマ帝国も滅亡。それにより交易途絶、自給自足体制、農奴制形成、フランク帝国拡大、ゲルマン式農法浸透等大きな変化により農業も後退した。 pic.twitter.com/qGqItvUMRC

2014-12-09 01:21:57
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by MapMaster CC BY-SA 2.5

民族大移動

 フン族の来襲とそれに伴うゲルマン系諸部族の大移動、各地での王国成立、そして西ローマ帝国の滅亡によって、ヨーロッパ世界は大きく変わることになった。極めて様々な出来事が重なり、それぞれの部族の物語を追うのも興味深い。英雄叙事詩や騎士道物語にはこの時期の事を題材にした物が多い。

 しかし、中世パン図鑑としては西ローマ帝国の滅亡と各地にゲルマン系の王国が建国された事の確認にとどめたい。
 
 帝国滅亡により、ローマへの穀物供給網は停止し、商業も停滞した。道路、橋、水道橋も整備されず荒れるに任された。

 476年のヨーロッパ勢力図

フランク族の形成と拡大

3世紀半ば頃から、ライン川とウェーザー川流域に住む様々な部族をまとめてフランク族というようになった。

 異なる出自を持つ彼らは髪型(王族:長髪、一般戦士:後頭部剃り上げ)や服装、武装(フランキスカという手斧、アンゴンという投げ槍)を共通の物にし、共に戦うものは皆フランク族とした。

アンゴンを構え腰にフランキスカを挟んだフランク戦士

by Sally Süßmuth CC BY-SA 3.0

 358年、ローマ皇帝は現ベルギー北西部にフランク族のサリー族を移住させ帝国軍として雇った。

 民族大移動が起きる以前からローマ帝国に傭兵として雇われるゲルマン人は多く、フランク・サリー族はその中でも大きな集団の一つだった。

 民族大移動においても勢力を維持し続け5世紀に攻勢に出る。

黎明の中世

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 黎明の中世 ①南仏のローマンヴィラ 5世紀、未だ混乱する中クローヴィスは全フランクを統一しメロヴィング朝を開いた。北から逃れてきた元ローマンガリア貴族は農奴制の原型であるコロナートゥスを継続させ従来の農業を行っていた。 pic.twitter.com/h1JQCxO1i2

2014-12-10 00:10:43
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