《雁谷哲氏『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』への違和感について》
- karitoshi2011
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『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(雁谷哲 著 遊幻舎 2015年)を読んでいる。 色々と感じていた疑問が、氷解したものがあった。 と同時に、新しい「引っかかり」が生まれた部分があった。
2015-02-07 15:27:42「鼻血問題」そのものは、雁谷氏が書いた言葉と内容に任せたいと思う。 私が付け加えるべき事があるとすれば、鼻血問題に関しては、一つだけだ。 原発事故発生後の時期、それまでは経験していない、説明困難な鼻血を自身や家族で経験した人がいたのは、福島県だけではなく、東日本全域だったことだ。
2015-02-07 15:31:24「福島県内のことでさえ、鼻血と原発事故を関連させて語ると雁谷氏のように袋叩きに遭うのなら、福島県外で出た鼻血のことを語るのは、危険だ」と考えて、黙る。 そういう効果を、この「鼻血問題」が作り出したことは、間違いないだろう。 何しろ、家族が死んだことを悲しむのさえ許さない社会だから
2015-02-07 15:36:21私が『美味しんぼ 福島の真実編』で違和感を感じたことについて、これからいくつか、書いておこう。 まず最初は、「なぜ、登場人物たちは霊山神社にあれほど思い入れるのか」ということだった。私は、霊山神社がある旧霊山町の西隣の町で1962年に生まれたが、霊山神社の印象がほとんど無いのだ。
2015-02-07 15:40:56私の生家は、材木屋だった。私は10歳前後から、父の仕事先である山に連れて行かれる事があり、その行き先の中には梁川町、保原町、霊山町、月舘町(以上は現在、伊達市になっている)や飯舘村、相馬市、福島市茂庭、桑折町、国見町、宮城県白石市、同じく丸森町などがあり、神社もある程度行っている
2015-02-07 15:48:07相当な数の山と神社を回った記憶を、特に、原発事故発生後、色々と思い出していたのだが、霊山神社はあまり記憶に出てこなかった。おそらく、父の仕事にとっては縁も無く、林業との関係も薄く、近隣に樹木を切り出して木材にできるような場所でもなかったのだろうと思っていた。
2015-02-07 16:02:16調べてみると、案の定、南北朝時代の北畠家の活躍を顕彰すべく、明治時代になってから送検された神社で、林業とは縁が薄かった。この神社が物語の舞台に選ばれたのは、雁谷氏の個人的な体験に基づくものだったのだ。周辺住民の生活上、霊山神社が特に重視されていた神社ではなかったのだ。
2015-02-07 16:17:47誤字訂正
× 送検
○ 創建
神社そのものよりも、さらに私にとって強い違和感があったのは、漫画の登場人物が若いころに、「霊山神社付近の畑で木になっている状態が一番おいしい桃を食べた」という描写だった。 私の生家にも桃畑があり、近隣の町の桃畑にも分布イメージがあった。そして、新旧の品種にも、ある程度知識があった
2015-02-07 16:25:28我が家の桃畑の収穫は、ほとんどが父を中心とする家族で行われていた。出荷するのは、完熟前の桃の実。木になっている状態で完熟し、最もおいしくなり、さらに果汁があふれるほど水分が多い品種、というのは、記憶に無かった。 生家の隣にある農協の集荷場に運ばれてくる桃を思い出したが、無かった。
2015-02-07 16:29:58雁谷氏の本の記述を読んで、ようやく、その疑問が解けた。 雁谷氏の漫画に描かれた話に登場する桃は、中国系の天津桃という品種だったのだ。私は、その品種を食べた事が無いし、栽培風景を見たことも無い。 なぜなら。天津桃は、私の子ども時代の果樹農業には、適さない品種だったのだ。
2015-02-07 16:37:23福島県の桃農家の、基本的な事業形式は3つだ。 1つは、農家自身が収穫し、JAに出荷する。収穫から流通・販売という過程を経るので、すぐに傷むほど熟した状態で収穫する品種は使いにくい。 2つは、農家自身が収穫し、贈答用などとしてそのまま運送業者に渡す。やはり食べるまでには2日かかる。
2015-02-07 17:08:093つ目は、「桃狩り」で観光客が「収穫体験」をしたり、農家のそばや畑のそばで「直売」する形。これは、他の方法よりは流通に要する時間が節約できるが、やはり収穫直後に全部食べるというわけには行かないので、最低でも1日以上は日持ちしないとまずい。 いずれにしても、天津桃は流通に不適だ。
2015-02-07 17:15:51天津桃は、外形上も日本の「モモ」の流通販売にあまり向かない形であるなど、栽培が広域に広がらなかった理由は思いつくのだが。 雁谷氏が1963年とその翌年に天津桃を食べて印象深く覚えていたのに、その畑の存在自体を役場の人も、近くの地域に住んでいた私も知らなかった事は、示唆に富む話だ。
2015-02-07 18:53:16いわゆる「田舎」に住んでいて、 しかも、農地で収穫しようとするものが変わっていくのが当然だと理解しているはずの、 役場の職員や私にしても、 1960年代前半から現在までの50年間でどれほど農業の姿が変わってきたのか、 気をつけないと忘れてしまうのだ。 都市生活者にはわかる筈もない
2015-02-07 18:57:391963年と言えば、私が生まれた翌年だ。 私の記憶にある範囲で、 親戚や近所の農家の農地のことを思い出しても、 現在伊達市になっている地域では農作物の種類自体が大きく何度も変わった。 桑畑が一時期大きく増えた、らしい。 そのタイミングでは、儲からないものになっていたのに。
2015-02-07 19:19:57おまけに、桑農家というのは、桑の木を育てて何かを収穫して終わり、となる形態の農業ではなかった。 桑の葉を収穫して、蚕小屋の蚕にえさとして満遍なく与え、 蚕の成長を見極め、繭を作るための枠に蚕を一匹ずつ入れ、繭ができたことを確認し、 繭を枠から外して「処理」し、出荷する。
2015-02-07 19:51:26それまで「養蚕」に手を出してこなかった農家が桑畑を始めるという事は、 単純に桑の葉を他の農家に有償で供給する、というところで留めなれば、 蚕の卵(「蚕種」と呼ばれていた)の購入に始まり、養蚕用の建物の設置や、蚕が食べた後の桑の枝や葉や糞の処理など、 相当の投資が必要になる。
2015-02-07 22:05:53通常はそんな投資余力となる現金など、農家の手元には無いから、 農協(現在のJA)などからの融資を受けて、養蚕を始めた。 蚕の繭が絹糸になり、絹の布になり、 服飾関係の製品として販売されるところまでつながれば、 農協からの融資を返済しても、おつりが来るほど儲かるはず、だった。
2015-02-07 20:17:131963年と言えば、まだ東京オリンピックの開催前。 オリンピックで活躍した「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールの選手たちの多くは、 養蚕業の先につながる、紡績会社など繊維工業の所属だった。 そういうスポーツ選手を抱えておくだけの金が、繊維産業にはあったのだが。
2015-02-07 20:21:32養蚕農家は、他の農業が受けるような機械化の恩恵を受ける部分が少なかった。 耕すとか、消毒するとか、除草するとか、収穫したものを集めるとか、 機械化で省力化できる部分が少なかった。 別の言い方で言えば、兼業化に向かなかった。 また、一度桑畑にした農地を、桃や林檎の畑にはできなかった
2015-02-07 20:55:58私の記憶では、繊維産業が衰退していった時点で、 農家のある部分は、若年者が工場労働に出たり、建設土木企業に就職したりしていった。 ちょうど、列島改造の時代で、東北自動車道建設、東北新幹線建設の工事が盛んになったころだ。1970年には、日本全体の交通事故死者数が最大だった。
2015-02-07 21:04:44ある部分の農家が兼業化していく時期には、 他の農家は、新しい作物、もっと露骨に言えば、金になる作物への転換を図る。 私の生家の近所を含む伊達市では、大玉のブドウ生産が盛んになっていく。 「巨峰」という、化粧箱に入れて販売するような、高級ブドウの生産だ。
2015-02-07 21:16:18高級ブドウの生産は、養蚕とは全く違う、新しい初期投資が必要になる。 コンクリートの支柱。支柱の上部を結ぶようにつなぐ針金。それでブドウ棚を造る。 土地の肥料やら、栽培に適する温度やらは、完全に農協任せでは無く、 農家自身が勉強を始める形になっていく。
2015-02-07 21:27:59そして、米づくりも同時に変わっていく。 減反で作る米が限られていく中、収穫量を単純に上げるのではなく、食味などの商品価値を考えて、品種を選んでいく。 ササニシキ、コシヒカリ。 桃農家の品種も変わる。売り物になったときに高く売れる品種は何か。 目端が効かない農家は投資を回収できない
2015-02-07 21:36:05